〈第6回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」

■連載小説■ 加藤実秋「警視庁レッドリスト」〈第6回〉
テレビの「警察24時」でおなじみの第一自ら隊へ。
隊員の借金問題を調査する。


「こんばんは。偶然ですね。どうしたんですか?」

 サングラスを額に押し上げ、みひろは歩み寄って来た。驚いたように見開いた丸い目が自分の顔と体、背後に動くのを感じ、慎は冷静さを取り戻すのと同時に警戒した。

「これを買いに来ました。急に食べたくなって」

 笑みと共に返し、慎はビジネスバッグと一緒に提げていたレジ袋を開け、中身を取り出した。半透明のビニール袋の中に、直径十センチほどの丸いパンが入っている。表面はこんがりと茶色く、絞り出したカスタードクリームでスマイルマークが描かれている。

「知ってる! クリームパンですよね。かわいいし、カスタードクリームにコクがあっておいしいの。大好物です」

 声を張り上げ、みひろはビニール袋越しにクリームパンを見つめた。慎は返した。

「よければどうぞ。二個買ったので」

「いいんですか!? ありがとうございます」

 会釈して、みひろは慎の手からクリームパンを取った。

 このクリームパンは慎の大好物でもあり、佐原から呼び出されて渋谷に来てすぐ店に行って買った。本当は一個しか買っておらず、惜しいと思うがみひろの関心をそらすためだ。「三雲さんはどうしたんですか?」

 興味はないが訊かれた手前、慎も問うた。大事そうに両手でクリームパンを持ち、みひろはこちらを見た。

「一旦寮に帰ったんですけど、里見のことが気になって」

 里見洋希巡査長と話したのは一昨日で、今朝豆田から「里見は昨日分駐所の仲間ほか全員にお金を返したそうですが、処分は免れませんね」と報告を受けた。

「と言うと?」

「処分は仕方がないし、前島さんたちにお金が返って来たのはよかったと思います。でも、借金がバレた翌日に全員に全額って早すぎませんか? 『売れるものを売ります』と言ってたけど、そんなに早く換金できるんでしょうか」

「なるほど」

 会話の流れで打った相づちだったが、慎の同意を得たと思ったのか、みひろはさらに言った。

「借金そのものも不自然なんですよ。新婚が物入りなのはみんなわかるし、普通に頼めば三十万ぐらい貸してもらえたはずです。なのに、なんであんな方法? 何か隠してるんじゃないの? とか考えだしたら止まらなくなって。資料の勤務表に里見は今夜渋谷でパトロールと載っていたので、つい来ちゃいました」

 話し終えて息をつき、肩にかけたバッグを揺すり上げる。見れば、バッグは職務中に使っている黒革の地味なものだ。

「つまり三雲さんは、里見は虚偽の証言をした。調査を続行すべきだと考えているんですね?」

「はい」

 力強く、みひろが頷く。メガネのレンズにかかった前髪を払い、慎は考えた。

 みひろの言い分には一理あるが、監察係が報告書を受理した時点でこの事案は終了しており、自分にはやることがある。一方で、慎が監察官として返り咲くためには、職場環境改善推進室の職務も完璧であるべきと考えている。

 黙り込む慎に何を思ったのか、みひろは訴えた。

「お願いします。今度こそ、納得のいく仕事をしたいんです。迷惑はかけませんから──まずい」

 最後の一言は通りの奥を見て呟き、慎の腕を引っ張って歩きだした。通りを横切り、ドラッグストアに入る。

「何ごとですか?」

 みひろに商品棚の陰に押し込まれ、慎は訊ねた。振り向いたみひろはサングラスをかけ、通りを指している。見ると、行き交う若者の中に制帽に活動服姿の里見がいた。隣には、用賀分駐所の別の隊員。鋭い目で左右を見回しながら、二人で通りを渋谷駅方面に歩いて行く。

「『行かずとも向こうから来てくれる』って、本当ですね。でも、自ら隊がパトカーを離れるって珍しくないですか?」

 みひろに囁かれ、慎はつい、

「バンかけしようとした相手に逃げられたんでしょう。あるいは、所轄から応援を頼まれたとか」

 と答えてしまう。ふんふんと頷き、みひろはドラッグストアから通りに戻った。里見たちを追い、渋谷駅方面に歩きだす。店員に不審の目を向けられているのに気づき、仕方なく慎もドラッグストアを出てみひろに続いた。なし崩し的に尾行が始まり、慎は観念した。

 追っていた相手を見失ったのか、里見たちは渋谷駅前のガード下を東側に抜けたところに停めてあったパトカーに戻った。移動するかと思ったが、パトカーは動かない。歩道や宮益坂(みやますざか)下の交差点を行き来する人を見張っているのだろう。

「質問してもいいですか?」

 十分ほどして、慎は訊ねた。「はい」と前方のパトカーを見たまま、みひろが頷く。二人でガード下の、歩道と車道を隔てるフェンスの前に立っている。

「その恰好は変装ですか? あるいは、何かのカモフラージュ?」

「いえ。おしゃれです」

 あっさりと、みひろが返す。答えになっていないと感じ、慎はさらに問うた。

「つまり、私服?」

 みひろは「ええ」と再度頷き、振り向いてサングラスのプラスチックのレンズ越しに慎を見た。

「今夜の里見の担当が、渋谷でよかったですよ。私服でも普通に溶け込むし」

 全然溶け込んでない。慎は心の中で突っ込んだが、みひろは平然と肩にかけたバッグを開けて中を探り始めた。

 ガード下にはカレーやラーメンなどの飲食店が並び、その匂いが立ちこめる歩道を大勢の人が歩いている。ほとんどが十代二十代の若者だが、みひろを見て怪訝そうな顔をしたり、仲間と囁き合って笑う人もいた。川口巡査部長の「服装や動きが人と違う、その場にそぐわないなど不審者が浮き上がって見える」という話を思い出す。

 上司として指導すべきか。しかしセクハラと受け取られる恐れがあり、しかも三雲は前部署の職務でハラスメント事案に精通している。逡巡する慎をよそにみひろはバッグを引っかき回し、ファイルを出して開いた。

「里見は優秀な警察官なんですね。警察学校の成績は上々で、素行もこれまでは問題なし」

「ええ。今年の一月にはバンかけした男の車から合成麻薬を発見し、それがきっかけで違法薬物の密売グループを検挙できたので表彰されています……ファイルはしまいましょう。知っているかと思いますが、警察の秘密文書には『極秘』『秘』の二区分があり、身上調査票は秘文書に当たります」

 こちらは迷わず指導すると、みひろはしれっと「あ、すみません」と言ってファイルをバッグに戻した。

「結婚するし、里見は張り切っていたんでしょうね。それなのに……借金と言っても少額だし、すぐに返した割には処分が重すぎませんか?」

「いえ、妥当です。今回の里見の行為は『その他の規律違反関係』の『公務の信用を失墜するような不相応な借財』に該当し、処分は『戒告』と定められています。ちなみに戒告は四ランクある懲戒処分のうち、一番軽いものです」

「でも懲戒処分の対象になって赤文字リスト入りした時点で、警察官としてはお終いでしょう? 将来有望な職員だし、内規の『訓告』か『本部長注意』で済ませてもいいんじゃないでしょうか」

 警察には国家公務員法に基づいた懲戒処分の他に、各警察署独自の内部規定、通称「内規」がある。内規違反の処分には「訓告」「本部長注意」「厳重注意」「所属長注意」の四ランクがあるが異動や人事にはほとんど影響せず、赤文字リストに名前が載ることもない。

 勉強したのか。前回の一件がよほど悔しかったんだな。意外と職務に前向き、いや、負けず嫌いなだけか。頭の隅で考えつつ、慎はきっぱりと告げた。

「警察職員の懲戒処分は警視総監の命を受けた懲戒審査委員会が審査し、その議決によって決定します。個人の感情や主観だけでは組織は動かず、決定した事項が覆ることもありません」

 みひろは無言。目はサングラスで見えないが、小さな口は不服そうに引き結ばれている。

「わかりました」

 低い声で返し、みひろは慎に背中を向けて見張りに戻った。

(つづく)

 


「警視庁レッドリスト」連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
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