〈第5回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」
いかさまじゃんけんだった。
参加者の処遇は?
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綾瀬中央署は、地下鉄千代田線北綾瀬駅の近くの環七通り沿いにあった。六階建ての立派だが古い建物で、会計課は二階のはずだが、受付で川浪の名前を出して教えられたのは別の場所だった。
みひろが辿り着いたのは、敷地の裏手に建つ倉庫。鉄筋で大きいものの、署の建物よりさらに古い。開け放たれた鉄の扉から中を覗くと、ずらりと並んだスチール製の棚と、そこに置かれた段ボール箱を天井の蛍光灯が照らしていた。
「すみません。川浪さん、いらっしゃいますか」
身を乗り出し、みひろは問いかけた。「はい」と聞き覚えのある声がして、奥の棚の陰から川浪が顔を出した。
「こんにちは。突然すみません」
「えっ、三雲さん? どうしたんですか」
驚いた様子で、川浪が棚と棚の間の通路を近づいて来た。吉祥寺署のものと同じ制服姿だが顔にマスクをつけ、ワイシャツの袖をまくって軍手をはめている。
「いえあの、お元気かなと思って」
「わざわざ来て下さったんですか? こんな格好ですみません」
そう言いながら川浪はマスクを引き下げ、軍手を外した。どちらも黒く汚れ、制服にもあちこち埃が付いていた。首を横に振り、みひろは返した。
「とんでもない。今日はこちらで作業されているんですか?」
「『今日は』っていうか、毎日ここ。倉庫の片付けが、私の新しい仕事です。ほら、席もあそこに」
川浪は振り返って通路の奥を指し、みひろも目を向けた。突き当たりの壁の前に、事務机と椅子が一つあり、電気スタンドとノートパソコンが載っていた。倉庫に窓はいくつかあるが薄暗く、足元も冷えるのか事務机の下には小型のハロゲンヒーターが置かれている。環境は職場環境改善推進室と似ているが、川浪は一人きりだ。そう思うと腹立たしさと切なさ、同時に罪悪感も覚え、みひろは言った。
「でも、川浪さんは会計課の一員なのに。あんまりじゃないですか? 阿久津に報告して、何とかしてもらいます」
「とんでもない。みんなと一緒に退職することも考えたけど借金があるし、警察で働き続けるのがベストだと自分で決めたんです。覚悟はしていたし、気楽でいいですよ。ここなら、吉祥寺署で起きたようなことは絶対起きない、っていうか起こしようがないし」
そう答えた川浪の笑顔は明るく、吹っ切れたような雰囲気もある。しかしみひろには川浪のほぼすっぴんの顔と、そこだけ完璧に飾られた眉毛のギャップが痛々しく思えた。
罪悪感がさらに増し、「あの晩、私一人でビストロに行っていれば」と後悔も湧く。しかし間違ったことはしていないという気持ちは揺るがず、謝罪の言葉を口にする気にはならない。自分にジレンマを覚え、みひろはさらに言った。
「だけど通勤に片道二時間近くかかるし、お家のこともあるから大変でしょう。せめて勤務地を──」
「そういうの、いいから」
真顔でタメ口、さらに声も頑ななものに変え、川浪がみひろを遮る。はっとしてみひろが黙ると、川浪は「あ、ごめんなさい」と再び笑顔になり、こう続けた。
「お気遣いありがとうございます。でも、本当に大丈夫です。もちろん、ここに来た時には『これが左遷か』『罰俸転勤って本当にあるんだな』って落ち込みましたけど、捨てる神あれば拾う神ありっていうのかな。新しい目的が見つかったんです。そのお陰で、吉祥寺署にいた時より仕事へのモチベーションが上がったぐらい。だから本当に、気にしないで下さい」
川浪は本当にやる気に溢れ、活き活きとして、ウソや強がりを言っているようには見えなかった。安堵したものの違和感も覚えたが、みひろは「そうですか」と返した。
十分ほど話して、みひろは川浪と別れて綾瀬中央署を出た。
「捨てる神あれば拾う神あり」か。恋人でもできたのかな。違和感は最後まで消えなかったが、あそこまできっぱり言われ、「阿久津さんにもよろしく」と笑顔で見送りまでされてしまっては、帰るしかない。
職場環境改善推進室の職務についてから大勢の人の懲戒処分、赤文字リスト入りに関わって来たけど、「その後」を訪ねられたのは初めて。罰俸転勤になった他の人も、あんな風に気持ちを切り替えて職務に取り組んでくれているといいな。そう考えると、元気が出て来た。
「では、使命を果たしますか」
声に出して呟いたとたん、頭にグルメサイトで見たパンの写真が浮かんだ。甘食、プリンパン、チョコチップメロンパン、揚げパン。またヨダレが出そうだ。
みひろは肩にかけたバッグを揺すり上げ、足取りも軽やかにパン店のある住宅街に通じる角を曲がった。