〈第4回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」

警視庁レッドリスト2

川浪が突如、警視庁を訪ねてきた。
不審に思ったみひろは、慎に報告を入れる。

CASE1 シークレット・ガーデン :  男社会の女の園(4)


 

 10

 スマホのスピーカーからツーツーという話中音が流れだし、慎は電話を切ってため息をついた。

 就業時間外の三雲みひろからの電話は、ロクなことにならないな。そう思い、スマホをジャケットのポケットにしまった。頭はクリアで気持ちも静かだが、知らず眉をひそめてしまう。

 通路を歩き、客席に戻った。ここは、虎ノ門にある老舗ホテルのメインバーだ。柔らかく控えめなライトに照らされた店内は広々として、壁際には全長二十メートル近いカウンターがあり、向かいには黒革張りのソファと木製のローテーブルが十分な間隔を取って並んでいる。そこで談笑している客の大半は、身なりのいい年配者だ。

 慎はカウンターのスツールの後ろを進んだ。中ほどの一脚に座った男の脇で足を止める。

「失礼しました。申し訳ありませんが、急用ができました」

 手にしていたバーボンのグラスをカウンターに置き、男が振り返った。

「仕事か? 電話の相手は、三雲さんだろ」

 そう問いかけ、男は笑った。日焼けした肌と、白い歯のコントラストが印象的だ。精悍な顔立ちで体格もよく、一目で高級品とわかるスーツをノーネクタイで着ている。

「お察しの通りです」

 慎が正直に答えると、男は少し贅肉がついた顎を上げて笑った。カウンターの向こうでは黒い蝶ネクタイを締めた若いバーテンダーが、肘を張り小指をぴんと立ててマドラーを持ち、水割りのグラスを攪拌している。

「相変わらずの名コンビだな。俺がよろしく言っていたと、彼女に伝えてくれ……そうだ。今夜呼び出した本題を、まだ話していなかったな」

 男は言い、隣のスツールに置いたバッグを開け、本を一冊取り出して慎に渡した。表紙にはダークスーツ姿の男女のシルエットと警視庁本部庁舎の写真が配され、赤い文字で『警視庁レッドリスト』とタイトルが記されていた。著者名は「沢渡暁生」。男のペンネームで、本名は阿久津懸。慎の父親だ。

「去年の騒動を小説にしたんですか? 『何でもメシの種にできるのが、物書きの強み』とは言っていましたが、本当に書くとは」

 本の表紙に視線を落としたまま、慎は返した。表紙には「ノンフィクション⁉ 元経産省官僚のベストセラー作家が、警視庁の陰謀に迫る」と派手な文字で書かれた帯が巻かれている。

 沢渡は元経産省のキャリア官僚で、作家や大学教授をする傍ら、警視庁の施策の推進委員を務めていた。その一つがレッドリスト計画で、慎とみひろが計画を打ち砕いた結果、沢渡は他の施策の推進委員からも外され、警視庁との関係を絶たれた。

「そりゃ、書くと言ったら書くさ。発売されたばかりだが売れまくってて、映画化の話も来てる。お前、自分の役をどの役者にやらせる?」

 明るく軽いノリで問われ、慎は呆れて顔を上げた。

「お父さん。あなたって人は……とはいえ、元気そうで安心しました。お母さんや天兄さんにも、よろしく伝えて下さい」

 そう告げて、慎は自分が座っていたスツールからバッグを取った。沢渡は「ああ」と返して前に向き直り、グラスを掴んでさらに言った。

「慎。『盾の家』に気をつけろよ」

「何かありましたか?」

 動きを止め、慎は沢渡の横顔を見た。

 盾の家はいわゆる新興宗教団体で、慎が監察係から職場環境改善推進室に左遷されるきっかけを作った元部下がこの団体に潜伏していた。

「ない。だからこそ、気をつけろ。用心するに越したことはない」

 グラスを口に運び、沢渡は返した。いつの間にかその横顔から、笑みは消えている。

「わかりました。ご忠告ありがとうございます」

 バッグと本を両手に持ち、慎は頭を下げた。一方胸の中では、「こっちが本当の本題だな」と確信する。

 身を翻し、慎はバーの出入口に向かって歩きだした。

 まずは、川浪樹里の事案。そして三雲の行動を監督しなくては。心の中で呟き、足を速める。集中が高まると緊張は解け、盾の家のことも思考から排除された。

11

 みひろは電車、慎はタクシーで吉祥寺に向かい、駅前で落ち合った。二人で繁華街を抜け、通りを進んだ。時刻は間もなく午後九時だ。

 目指すビストロは、井の頭公園にほど近い吉祥寺通り沿いのビルに入っていた。三日前、川浪は「カジュアルなチェーン店だけど、スタッフにパン専門の職人さんがいてバゲットが絶品」と話していた。

 エレベーターで三階に上がり、ガラスのドアを開けてみひろ、慎の順に店に入った。

 そう広くはないが天井が高く開放的な雰囲気で、モザイクタイルが敷かれた床の上に木製のテーブルとオレンジ色の布張りの椅子が並んでいる。身を乗り出し、みひろが店内に視線を巡らせていると、後ろで「いらっしゃいませ。何名様ですか?」と店員らしき女性の声がした。構わず視線を巡らせ続けるみひろに、女性店員が戸惑っているのがわかる。と、慎が取りなすように答えた。

「二名です。予約していませんが、大丈夫ですか?」

「はい。こちらにどうぞ」

 女性店員は返し、みひろの脇を抜けて店の奥に進もうとした。ほぼ同時に、みひろは店内に川浪の白いニットを見つけた。

「いえ。あっちでお願いします」

 告げるやいなや、みひろは案内されたのとは反対方向に歩きだした。女性店員に「すみません」と言い、慎が後を付いて来る。ワンテンポ遅れて、女性店員も歩きだした。

 突き当たりの吉祥寺通りに面した一角は壁が天井までのガラス張りになっていて、その前に四人がけのテーブルが並んでいた。半個室というのか、各テーブルはクリスタルボールを金具でつなげた暖簾で仕切られている。店内は混み合っていたが、川浪たちの隣のテーブルは空いていた。川浪は窓際の奥の席に腰掛け、隣に笹尾、向かいに谷口と森が座っている。

 素早く隣のテーブルに歩み寄り、奥の席に着いたみひろに、女性店員は困惑して告げた。

「申し訳ありません。そちらは予約席で」

「すぐに出ます。三十、いえ、二十分だけ」

 隣を気遣いながら、みひろはコックコート風の白いブラウスに黒いパンツ姿の女性店員に返した。また「すみません」と言って慎がテーブルの向かいに座ると、女性店員は諦めたようにメニューを差し出した。隣を見たままそれを受け取り、みひろは告げた。

「パンと水」

 女性店員は絶句し、慎が言い直す。

「アラカルトの今日のお勧めを一皿ずつと、ガスなしのミネラルウォーターを。バゲットは多めでお願いします」

「かしこまりました」と一礼して女性店員が下がり、慎は顔を前に向けた。

「三雲さん。見た目より酔っていますね」

「いいえ。それより、隣。やっぱりいましたね。楽しそうに見えるけどなあ」

 抑えた声で、みひろは返した。開いたメニューで顔を隠し、暖簾の隙間から隣を窺っている。慎もメニューを開き、同じようにして隣を覗いた。

 暖簾の向こうは通路になっていて、隣のテーブルまで少し距離がある。川浪たちはみんな笑顔で、顔を突き合わせるようにして会話している。食事を終えたところらしく、テーブルには空になったデザートの皿とコーヒーカップが載っていた。耳を澄ませると「シースルーバング」と聞き取れたので、ヘアスタイルの話をしているようだ。向かいで慎が、「シースルーバンク?」と怪訝そうに呟くのが聞こえた。

 絶対後で説明させられるな。取りあえず、「バンク」じゃなく「バング」だから。そう心の中で突っ込みつつ隣を覗っていると、淡いグレーのワンピースを着た笹尾が身を引いて言った。

「あ〜、お腹いっぱい。明日も早いし、そろそろ帰りましょうか」

「だね。恒例のあれ、やりましょう。今夜は税込みで、一万五千三百二十円です」

 


「警視庁レッドリスト」シリーズ連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
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