〈第7回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」

警視庁レッドリスト2

今回の事案は、町田北署。
不適切な異性交際との内通があった。

 五分ほどで寮に着き、水野はオートロックを解除してエントランスに入った。一見警察の寮とはわからないようになっていて、表札も「テラス町田北」だ。

「午後十二時六分。送り込み」

 そう呟き、慎はマンションから少し離れた路上にセダンを停めた。「送り込み」とは、調査対象者が自宅や署に戻ることを意味する監察用語で、逆に調査対象者が外出先に到着することは「吸い出し」という。

「『もし水野さんがストーカーだとしたら』と言いましたが、その可能性があると考えているんですか?」

 エンジンを止めてシートベルトを外し、慎は訊ねた。みひろもシートベルトを外し、答える。

「ええ。身上調査票に問題はありませんが、単独行動が多いそうなので。それに、生田さんと個人的な付き合いはないと断言しておきながら、阿久津室長に再確認された時に一瞬言葉に詰まってたし。でもまあ、あの訊き方はどうなの? って気もしますけどね」

「と言うと?」

「恋愛を含む私的感情についての確認で、『一切ない』はいいとして、『今後の可能性を含め』って付ける必要あります? 大きなお世話でしょう」

「いいえ。『適切なお世話』です。調査事案の真相はどうであれ、水野にとって生田さんが、職務上面識を得た事故当事者であるのは変わりません」

 ハンドルに手を載せて顎を上げ、慎は平然と答えた。その様子に鼻白み、みひろは横を向いて返した。

「ふうん。でも、職務で知り合った相手と結婚した警察職員は結構いるって聞きますけど。懲戒処分の対象になるのも『不適切な異性関係等』とはあるけど、何が不適切かは書いてないし……それはさておき、水野さん。喫茶バカンスでの様子を生田さんは、『私と連れの方が話して、それを水野さんが聞いてる』って話してたでしょ? 黙ってじっと見てるとも考えられるし、ストーカーっぽいですよね。でも、職場改善ホットラインの相談員をしてた時にストーカーの被害者・犯人の両方と話したことがありますけど、いい悪いは別として、『被害者のこういう振る舞いが、犯人の性格のここを刺激しちゃったんだろうな』って納得できたんですよ。水野さんと生田さんには、そういう負のマッチングみたいなのは感じなかったなあ」

「負のマッチングとは、上手い表現ですね。ストーカーについてはどうですか?」

「本人が存在を疑っているし、生田さんがウソをついているとは思えません。人気者みたいなので、犯人は客の誰か? でも、生田さんも一瞬言葉に詰まった時がありましたね」

 振り向いて問うと、慎は「ええ」と頷き、前を向いたまま返した。

「三雲さんが、『犯人について考えた時、水野巡査のことは浮かびませんでしたか?』と訊ねた時ですね。僕も気になっていました」

「でしょ?」

 みひろは慎の横顔を見て、ずいと身を乗り出した。上司である慎が自分に意見を求め、調査対象者の同じ発言が気になっていたのが嬉しく、誇らしくも思えた。

「水野さんがストーカーで、生田さんはそれに気づいてるけど言えず、自分で投書したとか? 言えない理由は……水野さんに脅されてる。あるいは、恨みを買いたくない。どっちにしろ、喫茶バカンスと生田さんの自宅近辺の防犯カメラを確認すれば、はっきりするんじゃないですか?」

「それが難しい状況ゆえに、我々が呼ばれたんですよ」

「でした。正しくは『難しい』じゃなく、『やりたくない』ですけどね」

 知らず、皮肉めいた口調になる。みひろの脳裏に自宅でヘアカラーをする高橋の姿の妄想が蘇り、噴き出しそうになる。気配を察知したらしく、慎が昨日と同じように咳払いをする。みひろは慌てて表情を引き締め、助手席のシートに座り直した。

 その後、交替で休憩しながら寮を見張ったが、水野は出て来なかった。午後六時を過ぎ、辺りは暗くなった。みひろは明かりの灯った寮の窓を見上げ、言った。

「今ごろ寮は夕食の時間ですね。私たちも食事にしませんか? 少し離れてるんですけど、パンの名店があります。お勧めは三色パンで、おいしいだけじゃなく、可愛いブタの顔をしているとか」

 すると慎は「いいですね」と応えた。胸が弾み、みひろはさらに語ろうとしたが、慎は、「ただし、今夜のところはコンビニで。買い出しのついでに、これに着替えて来て下さい」と続け、後部座席から手提げ紙袋を取って差し出した。

「なんですか、これ?」

 みひろは紙袋を受け取り、中を覗いた。黒いジャージの上下とキャップ、スニーカーが入っている。

「水野の趣味はランニングで、帰寮後と休日には近所を走っているそうです。尾行して下さい」

「私が?」

 驚いて問うと、慎は当然のように「ええ」と頷き、こう続けた。

「車では無理ですし、僕は目立つので、水野に気づかれる可能性があります」

「いくら趣味でも今日はヘトヘトだろうし、走らないでしょ。それに、目立つって何を根拠に……わかった。体力に自信がないんですね。じゃなきゃ、バテて水野を見失うのが怖いとか」

 笑いながら意地悪く迫ると慎は、「違います」と返し、前を向いた。

「これは命令です。直ちに実行して下さい。それと、コンビニはセブン‐イレブンで。表通りにあるのを、先ほど確認しました。『北海道じゃがいものコロッケパン』と『鶏メンチカツサンド』、『7P 桜もち風パンケーキ』とホットコーヒーのレギュラーをお願いします。レシートを忘れずに」

「はいはい。行けばいいんでしょ、行けば」

 言い合う気が失せ、みひろはバッグと紙袋を持ってドアを開け、セダンを降りた。

 コンビニで着替えと買い出しを済ませ、十五分ほどでセダンに戻った。みひろが自分の分のパンを手にする間もなく、寮から水野が出て来た。濃紺のTシャツに黒いランニングタイツとハーフパンツ、ランニングシューズという格好で、頭にも黒いキャップをかぶっている。

「えっ。走るの?」

 驚いて身を乗り出しかけた時、水野がセダンの脇を抜けた。みひろは慌てて下を向き、慎もハンドルに顔を伏せる。

「付いて行ける訳ないじゃないですか。お腹もペコペコだし」とぼやきながらも、みひろはジャージのパンツのポケットにスマホを入れてセダンを降りた。すっかり暗くなった通りに目をこらし、前方の濃紺のTシャツを追って走りだす。

 水野は表通りに出て、喫茶バカンスとは逆方向に向かった。みひろも続き、キャップと大きめのジャージで自分だと気づかれないだろうと判断し、水野との間隔を十五メートルほどまでに詰めた。歩道は広く、帰宅時間なので人と自転車が行き交っている。

 すぐに付いて行けなくなると思いきや、水野はゆっくりしたペースで走り、右腕にLEDライト付きのアームバンドを付けていることもあり、みひろは尾行を続けられた。

 二十分ほど走って、水野は脇道に入った。道幅はそこそこ広いが、住宅街で薄暗く、人通りは少ない。苦しくなってきたこともあり、みひろは減速して水野との間隔を広げた。

 その後、水野は大きな公園に入った。中にグラウンドがあり、そこをぐるぐると回る。みひろは立木の陰に立ち止まり、日頃の運動不足を痛感しながら顔の汗を拭った。

 四十分ほど走り、水野はグラウンドを出た。スマホで慎に状況を報告していたみひろは通話を打ち切り、尾行を再開した。時刻は午後七時過ぎで、ここから喫茶バカンスに向かえば、午後八時の閉店時間少し前に着くはずだ。

 まさか、ランニングのふりで生田さんを尾行するつもりじゃ。ふとよぎり、みひろは警戒するのと同時に、とても体力が保たないと焦りを覚えた。

 しかし水野は、公園を出ると来た道を戻り帰寮した。みひろもふらふらになりながらセダンに戻り、慎と見張りを続けた。それ以降水野は外出せず、門限の午前零時の少し前に、四階にある彼の部屋の明かりは消えた。みひろと慎は見張りを中止し、本庁に戻った。

 

 8

 何者かに見られている。

 麻布十番にある警察の寮のエントランスを出るなり、慎は思った。短い階段を降り、通りに出る際に左右を見たが、不審な人影や車は確認できなかった。

 これから町田まで行くため、いつもの午前七時半より一時間近く早い出勤だ。通りに人と車はまだ少なく、晴天だが、湿度が高めでむっとした空気を感じた。慎は片手でネクタイを直し、もう片方の手にビジネスバッグを提げて通りを歩きだした。

 先月写真とマスクが届いて以来、今と同じ気配を感じることが数回あった。日時と場所はバラバラで、何かの拍子に一瞬ということもあれば、数時間続くこともあった。行動を監視するというより、威嚇してプレッシャーを与える意味合いが強いのだろう。

 しかし。前を向いて歩き続けながら、慎は心の中で呟いた。同時に頭に、送られて来た写真が浮かぶ。どれも被写体である慎の顔には、刃物のようなもので×印が刻まれている。その線からは示唆や宣告ではなく、極めて個人的でストレートな怒りと憎悪が感じられた。

 ということは。再び呟くと、ある男の顔が浮かんだ。慎は表情と歩き方を変えないように注意しながら、気配を再確認した。後頭部と背中を刺し、圧迫するような熱量の高い視線だ。

 やはりそうか。確信を得て、慎は片方の口の端をほんの数ミリ上げた。と、スーツのジャケットのポケットでスマホが鳴った。取り出して見た画面には、「柳原喜一」とある。道の端に寄り、通話ボタンをタップしてスマホを耳に当てた。

「阿久津です」

「盾の家のエスと連絡が付いた。明朝なら、お前と会うそうだ」

 敢えて事務的に話しているのがわかる声で、柳原は告げた。

「わかりました。エスの経歴と連絡先、写真を送って下さい」

 返事はなく、電話はぶつりと切れた。

 会議中に乗り込んでプレッシャーをかけたのが、一昨日の朝。出世が早い人間は、仕事も早い。あるいは、よほど君島由香里との結婚生活を死守したいのか。慎は思い、胸に歪んだ快感を覚えた。後頭部と背中で気配を感じながらスマホをポケットに戻し、また歩きだした。

(つづく)

 


「警視庁レッドリスト」シリーズ連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
思い出の味 ◈ 五十嵐律人
◎編集者コラム◎ 『狩られる者たち』著/アルネ・ダール 訳/田口俊樹、矢島真理