〈第9回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」

警視庁レッドリスト2

CASE2クライマックス!
慎が暴いたストーカーの正体とは?

「いま多々良さんたちとすれ違いました。生田さんも来てるって言うし、何があったんですか? 昨夜僕が帰れたのも、なんでかわからないし」

 前後に視線を巡らせ、不安そうに訊ねる。会議室のドアを指し、みひろは答えた。

「中に生田さんがいるので、自分で訊いて下さい」

「えっ。いいんですか?」

「多分ダメでしょうけど──いけない。車の中に大事な書類を忘れて来た。取りに行って戻るまでに、二十分はかかるだろうなあ」

 後半は独り言めかして言い、口を開きかけた慎の腕を引っ張って階段の方へ歩きだす。数歩行ったところで「あの」と呼ばれ、振り向くと水野が一礼して言った。

「ありがとうございました」

「どういたしまして。ちゃんと気持ちを伝えて、生田さんの話も聞いてあげて下さいね」

 みひろの言葉に水野はきょとんとしてから、「はい」と照れ臭そうに笑い、ドアを開けて会議室に入って行った。みひろたちも歩きだす。

「で、相思相愛とわかってカップル誕生! となるのか。いいなあ。なんか今回は私たち、すっかりキューピッド役になっちゃいましたね」

 ぼやくみひろを慎は、

「そんな役を担った覚えはありません……三雲さん。車の中に大事な書類って、今朝はここまで電車で来たんですよね? 適当にも程がありますよ」

 と言って呆れたように見返す。聞こえないふりで、みひろは話を変えた。

「ああでも、職務上で知り合った相手と交際するのは御法度なんでしたっけ。せっかく気持ちが通じたのに、水野さんは懲戒処分? 赤文字リスト入りの上、罰俸転勤ですか」

 暗く納得のいかない気持ちになり、隣を見上げる。慎は前を向いたまま「そうですね」と答え、こう続けた。

「監察係への報告書には、水野巡査を別の署に移すよう記します。ただし罰俸転勤ではなく、けじめという意味です。半年もすれば物損事故のほとぼりは醒めますし、生田さんは松尾の事件を大事にする気はないでしょう。後は、僕の関知するところではありません」

「それはつまり、見逃すってことですか? 恋心のスイッチを入れちゃった責任?」

「違います。関知するところではないと言っただけです。三雲さんは言葉の選択が不適切なだけでなく、人の発言を自分に都合のいいようにねじ曲げる傾向がありますね」

 冷ややかな眼差しで、慎が振り向く。またお叱りかと身構え、言い合いも辞さない覚悟のみひろだったが、ふと疑問が浮かび気が変わった。

「それはさておき、室長。なんで松尾さんが怪しいと思ったんですか? ひょっとして、また私の言葉がきっかけ?」

「はい。ただし今回は三雲さんだけではありませんし、きっかけに結びついたのは、ある人物の真理とも言える発言を聞いたからです」

「真理?」

 みひろが訊き返すと慎は、「ええ。真理です」と頷き、右手の中指でメガネのブリッジを押し上げた。口調は穏やかだが、冷たく勝ち誇ったような笑みを浮かべている。

 うわ、この顔。去年の騒動の前に見たのと同じだ。そう悟るなり、みひろの胸はざわめき緊張も走った。しかし慎はすぐに真顔に戻り、

「調査は終了ですし、本庁に戻る前に三雲さんが話していたパン屋に寄りましょう。お勧めは三色パンで、おいしいだけじゃなく、可愛いブタの顔なんですよね」

 と抜群の記憶力を駆使して提案してきた。「そうです。他にも、気になるお店が何軒か」と返し慎の隣を歩きながらも、みひろの胸はざわめき続けていた。

 

 14

 短いアラーム音がして、宇佐美周平の向かいに立った男は手を止めた。

「13,000cpm未満。体表面汚染なし」

 男の後ろに置かれた机に着いた、もう一人の男が言う。机上には縦長で厚みのある白いプラスチック製の箱が置かれ、もう一人の男は箱の前面に埋め込まれた半円形の目盛りと針を覗いている。サーベイメーターこと、携帯用の放射線測定器だ。サーベイメーターの底からは黒いコードが伸びていて、宇佐美の向かいに立った男が手にした、懐中電灯のような形状のセンサープローブに繫っている。

 向かいに立った男はかがめていた体を起こし、宇佐美のワイシャツの胸に向けていたセンサープローブを下ろした。宇佐美も体の脇に上げていた両腕を下ろす。向かいに立った男は一歩下がり、宇佐美を見て「行け」と言うように顎を動かした。向かいに立った男も机に着いた男も、フード付きのつなぎを着てゴム長靴を履き、顔にゴーグルとマスク、手には分厚いゴム手袋を装着している。色はどれも黒だ。

 宇佐美は足元に置いたバッグを掴み、ドアを開けて小屋を出た。小屋はコンクリート造りの平屋で、ドアの脇の壁には「放射線汚染検査所 施設に入る者は必ず検査を受けること」と大きな文字で書かれた看板が取り付けられていた。小屋の後方には門があり、分厚い鉄板でできた高さ二メートルほどの引き戸が閉ざされている。

 少し歩くと視界が開けた。起伏に富んだ広大な敷地にアスファルトの通路が縦横に走り、それに沿って建物がある。建物の大きさは様々だが、どれも箱のような造りで窓はわずかしかない。建物の外壁と屋根、床は放射線を遮蔽するコンクリートでできているという。通路のいくつかには歩いたり、立ち話をしている人の姿があり、男性は先ほどの男たちと同じつなぎを着て頭にフードをかぶり、顔にマスクを装着している。女性はフード付きのワンピースだがこちらも色は黒で、マスクを付けている。わずかだが子どももいて、こちらも黒ずくめの服で、口にはマスクだ。と、建物の外壁に取り付けられたスピーカーから女性の声が流れた。

「午後二時現在の施設内の放射線量は、次の通りです。正門前、0・09μSv。本部庁舎前、0・08μSv。住居棟A前……」

 淡々と告げられる数値を、黒ずくめの人々は動きを止めて真剣に聞き入っている。張り詰めた空気が漂い、女性の声の他には何の音もしない。宇佐美も足を止め、スーツのジャケットのポケットから黒いマスクを出して装着した。

 盾の家のメンバーになって一年半。本部施設には月に一度の割合で来ているが、この光景と空気にはなかなか慣れない。八王子市北部の丘陵地帯で、潰れたゴルフ場を買い取ったという。全国に二万人いるメンバーのうち、百名ほどの人がここで暮らしている。

 十五分以上歩き、宇佐美は一軒の建物の前で立ち止まった。小さな平屋で、窓はドアの脇にごく小さなものが一つあるだけだ。近づいて行くとドアが開き、中年男が顔を出した。身を乗り出し、宇佐美の肩越しに外を覗う。しかし通路とその周辺の草地に人気はなく、初夏を思わせる日射しが照りつけているだけだ。

「五分だけだぞ」

 マスク越しのくぐもった声で告げ、中年男はドアを大きく開けて宇佐美を招き入れた。

 部屋は狭く、段ボール箱がいくつか置かれているだけだった。中年男は部屋を進み、反対側のドアを開けた。ドアは木製のありふれたものだが、表と裏に樹脂製の黒いシートが貼られている。宇佐美は初めて目にするもので、訊けば「放射線を遮蔽する効果がある」という答えが返って来るのだろうが、真偽の程は定かではない。ちなみに、盾の家のメンバーが「盾の衣」と呼ぶ黒いつなぎやワンピース、マスクなども団体本部が「放射線を遮断する効果のある素材を使った特別なもの」と謳い、高値で販売しているが、公安の捜査員によると「大量生産の安物に防水スプレーをかけただけ」らしい。

 ドアを開けた先の床には横長の穴が空いていて、その中にコンクリートの階段があった。中年男は衣擦れの音を立てながら、慣れた様子で階段を降りていった。頭を低くして、宇佐美も倣った。少し降りると傍らにがらんとした空間が現れたが、中年男はさらに階段を降りていった。後を追った宇佐美だが、階段は狭く急で、転げ落ちないように気を遣った。

 盾の家の施設では、身分の高いメンバーの仕事場や住居は地下にある。地上が放射線で汚染された場合のシェルターを兼ねているからだ。

 地下二階まで降りると、広いスペースに出た。その奥には一際大きな金属製の白いドアがあり、その脇で女性と男性が話している。中年男が歩み寄りながら何か言い、年配者らしき女性が顔を上げた。ワンテンポ遅れて振り返った男性を見たとたん、宇佐美は足を止めた。

 えっ。阿久津さん? 危うく声に出しそうになるほど驚いたが、よく見れば別人だ。しかし歳は同じぐらいでメガネをかけ、背格好もよく似ている。下半分はマスクで隠れているが、顔立ちも似ているようだ。じろじろ見られて気分を害したのか、メガネの男性は顎で宇佐美を指し、中年男に訊ねた。

「誰ですか?」

「ああ。例の」

 そこから先は声を小さくし、メガネの男性に囁く。それを聞いたメガネの男性は胡散臭げに宇佐美を眺め、ドア脇の壁に取り付けられたインターフォンのボタンを押した。やや間があって誰かが応える気配があり、メガネの男性は金属製のバーを掴んで白いドアを開けた。ドアは二重構造で、幅は二十センチ以上あるだろう。眼差しで宇佐美に「入れ」と指示して中年男がドアの奥に進み、宇佐美も続いた。

 分厚いコンクリートの壁に囲まれた、四角く無機質な空間。それはこれまでに入った他の幹部の部屋と同じだが、かなり広い。手前にはモダンなデザインのステンレス製のテーブルと椅子が置かれ、奥には同じくステンレス製の机がある。机には男が着いていて、俯いて何か書いている。その後ろの壁には、大きな額縁に入った扇田鏡子の写真。白髪頭で痩せているが、昔はかなりの美人だったはずだ。

「市川本部長。外部アグレッシブメンバーの宇佐美周平です」

 机の前に行き、中年男が後ろに立つ宇佐美を指した。外部アグレッシブメンバーとは、メンバーの増員や情報収集などに一定以上の実績を上げている者を指し、他のメンバーにもスキルに応じて「外部アクティブメンバー」「内部シニアパートナー」等々の肩書きが授けられている。

 手にしたペンを置き、市川が顔を上げた。つなぎを着ているがフードはかぶっておらず、マスクも付けていない。バッグを床に置き、宇佐美は一礼した。

「はじめまして。宇佐美です」

「こんにちは。お話するのは初めてですね。噂は聞いています」

 やや高めの細い声で、市川は言った。地味な顔立ちだが、薄く微笑んだ唇の薄い大きな口は目立つ。短く刈り込んだ髪には白いものが目立つので、歳は五十ぐらいか。恐縮し、宇佐美が再度頭を下げると市川はこう続けた。

「報告があると聞いていますが、あなたは情報部の所属ですね。情報部の我妻部長ではなく、なぜ私のところへ?」

「我妻部長は、扇田ふみ副代表の取り巻きだからです。私は公安捜査員と接触し、ふみ副代表の重大な情報を手に入れました」

 宇佐美の言葉に、中年男と机の脇に立つメガネの男性がはっとしたのがわかった。しかし市川は動じず、「どんな情報ですか?」と促した。

「先月昭島市の研究所に新しい実験装置を導入できたのは、日本科学大学理工学部の端田教授の口添えがあったからです。これはふみ副代表が研究費の寄付と引き換えに算段したんですが、日本科学大学は警視庁幹部の新たな天下り先で、とくに公安関係者には内部監査室長などのポストを用意しているそうです。ふみ副代表はこれを承知の上で、端田教授を選んだと聞きました。これが警察への報復に反対した理由で、ふみ副代表は自分の意に沿わないメンバーを公安に売ろうと考えているのではないでしょうか。こんな人間が代表になったら、盾の家は終わりです」

 身振り手振りも交えて訴え、宇佐美はバッグから書類と写真を出して机に置いた。扇田ふみと日本科学大学関係者との接触と天下りの証拠を示すもので、公安に売る云々はでっち上げだが、口添えの依頼と天下りの件は事実だ。宇佐美は公安の捜査員に、「手柄を上げないと疑われる」と時々盾の家に流れても差し支えのない警視庁内部の情報を与えられており、これもその一つだ。

 市川は書類と写真を取って目を通し、中年男とメガネの男性も脇から覗いた。それを見ながら、宇佐美は続けた。

「市川本部長こそ、次期代表にふさわしい方です。しかし現状では、選挙には勝てませんよね。ですから、一発逆転を狙える方法を考えてみたんです」

「聞きましょう」

 手にしたものに目を落とし、薄く微笑んだまま市川は言った。「ありがとうございます」と返し、宇佐美は一呼吸置いてから口を開いた。

 十分ほどかけて慎に言われた通りに計画を説明し、向かいを見た。三人は無言。市川は微笑んだまま、じっとこちらを見ている。その眼差しの強さに宇佐美が焦りを覚えた時、メガネの男性が鼻を鳴らした。

「なにが奇跡だ。そんな子どもだまし、上手くいく訳ないだろ。それにこいつはスパイなんでしょう? 実は公安に寝返ってて、我々を罠にはめるつもりかもしれませんよ」

 宇佐美と市川を交互に見て捲し立てる。さらに焦り、宇佐美は言った。

「いえ、必ず成功します。私は薬物や実験装置の取り扱いには慣れているし、リハーサルもするつもりです。その結果を見てから、罠かどうか判断して下さい」

 エスと化学教師、双方の立場と知識を活用する。これも慎に言われた通りだ。しかしメガネの男性は宇佐美を睨み続け、市川は無言のまま。中年男は指示があればいつでも宇佐美を捕らえられるように、身構えている。

「いいでしょう。リハーサルを見て判断します。一発逆転を狙いたいのは事実ですから」

 市川が応えた。宇佐美は驚き、同時に心の底から安堵した。

「ただし、リハーサルは外部で行うこと。何かあっても、盾の家は無関係です」

「もちろんです。ありがとうございます! それで、薬物を手に入れるために元ドラッグディーラーのメンバーを」

「それには及びません。薬物の入手ルートはこちらで整え、知らせます」

 そう告げられ、宇佐美は戸惑った。詳細を確認するか迷っていると、アラームの音がして、机の脇の壁に取り付けられた液晶画面が明るくなった。液晶画面には先ほどの年配女性が映り、後ろにも人影がある。それを確認し、中年男がドアに向かう。市川は宇佐美に、

「健闘を祈ります」

 と告げた。それが合図のようにメガネの男性が近づいて来て、宇佐美に部屋を出るように促した。市川に一礼してドアに向かう宇佐美に、メガネの男性は「リハーサルには立ち会うからな」とすごんできた。「はい」と返し、宇佐美は中年男が開けたドアから外に出た。入れ替わりで年配の女性と男性二人が部屋に入る。男性二人も宇佐美同様スーツにノーネクタイのワイシャツという格好だが、値段は倍以上するだろう。

 盾の家のメンバーじゃないな。何かの商談に来たのか。それにしては妙に体格がいいな。気になりながらもメガネの男性に急かされ、宇佐美は来た道を戻った。

 階段の手前まで行って振り向くと、中年男が部屋の中からドアを閉めようとしていた。その肩越しに、室内を進む男性二人と、席を立って出迎える市川の姿が見えた。市川は細い目をさらに細め、口元をほころばせている。

 あれが本当の笑顔で、さっき俺が見た薄笑いはただのクセか。宇佐美がそう悟った時、ドアは低く重い音を立てて閉じられた。

( ご愛読ありがとうございました。
連載は、今回で終了します。続きは、
8月6日発売の文庫判でお楽しみください。)

 


「警視庁レッドリスト」シリーズ連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
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