美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第7話 口から綿を吐く男と与えたがりの少女の物語

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第7回目のタイトルは、「口から綿を吐く男と与えたがりの少女の物語」。どうして男は口から綿を吐くようになったのか? そして少女は、どうしてその男と暮らすようになったのか? 謎から始まる美しい愛の形が感じられる一篇です。

どうして少女がその男と暮らすようになったのか、そのわけは一口には言えません。

とにかくほんの短いあいだに、数えきれないほどのごたごたした出来事が重なって、気がついたら少女は男と二人で、ただひたすらに貧乏じみた、この古いアパートで暮らしていたのでした。

あんなにたくさんの出来事のうち、もし一つだけでも欠けていたら、少女は決して男といっしょには暮らしていなかったことでしょう。

「だとすれば、これは運命なのかしら」

そう少女が言うと、男は投げやりに――

「いや、偶然だろう」と答えたのでした。

男が投げやりなのは、仕方のないことなのかもしれません。

もうそんなに若くもない――しかし中年というにはまだ若い――男は、毎日毎日休みもせずに、仕事とやらに出かけていくのでした。

「あなたは、いったいどんな仕事をしているの。あなたの仕事って、いったい何をすることなの」

――とは、少女は決して尋ねませんでした。少しも興味がなかったのです。いや、そもそも少女には、仕事というものがどんなものなのか、よくわからないのでした。

「おまえが部屋を掃除したり、料理を作ったりするだろう。それだって仕事だよ」

男はそう言ってくれたりもしたのですが、少女にはやっぱりよくわからないのでした。自分が綺麗好きだから掃除もするし、自分が食べたいから料理も作る――ただそれだけのことでした。少女は汚れた部屋が、嫌いで嫌いでたまらなかったのです。死んでしまった母親と弟と、どこかに消えてしまった父親と、四人で暮らしていたころは、いつも部屋のどこかが汚れていました。あのころは、本当にいやな暮らしでした。

「でも、仕事をしたというのなら、お金をもらえるんじゃなくって?」

少女がそう言うと、男はいくらかのジャラジャラした硬貨を少女に差し出すこともありました。そんなときは、男が仕事に出て行ったあと外に出て、近所の薄汚れた子どもたちと遊んでやるのです。菓子だの風船だのを買ってやると、子どもたちは喜んで少女の周りにまとわりついてくるのでした。少女はまだ小さな男の子をぎゅっと抱きしめてやったり、女の子の汚れた鼻先をハンカチで拭いてやったりしました。

そんなことばかりしていたからでしょうか。近所の女から、子守を頼まれることもありました。それでお金をくれてやると言われても、少女は決して受け取ろうとはしないのでした。

「ただでいいわ、あたし、この子がかわいいから」

「それこそ、おまえのしたがっている仕事じゃないか」――と男が言うと

「だって、あたしは子どもになにかをあげたいんだもの。恵んであげたいの。自分が恵まれるのはいやなの」

「そうか。だからお前は、おれにお前の綺麗な体を恵んでくれたんだね」

そうなのです。

時には、少女は男といっしょの布団に寝て――男女が交わす営みをすることもあるのでした。そして、少女がそれをするのは、男が初めての相手というわけでもなかったのです。

しかし、男はそんなに強く少女を求めもしないのでした。その代わり、男には妙な好みがありました。少女の裸に触れるよりも、ただそれをじっと眺めるのが好きなのです。

春がすぎ、夏が近づいてくると、男は少女に下着のままでいることを求めました。そして椅子に腰かけさせたり、窓際に立たせたりして、ただじっとそのしなやかな肢体を眺めているのでした。

男は言いました。

「ああ、ああ、おれに絵が描けたらなあ。そうしたら、おまえの裸の絵を、何枚も何枚も描くだろうに」

「絵なんか描かなくても、本物のあたしがいればいいじゃないの」

「本物のおまえは、変わっていくんだよ。気づかないのか。今のおまえは、去年のおまえじゃない。そして、来年のおまえは、今のおまえじゃないんだ。いや、明日のおまえは、もう今日のおまえではないんだよ。今日のおまえは、明日にはもうどこにもいなくなってしまう」

「そうやって、あたしがどんどん変わっていって、いつかあなたはあたしを捨てるのね」

「そんなことはない」

男は、きっぱりとそう言いました。しかし、少女は信じませんでした。この世に信じられるものはない。そのことだけは、少女はもうとっくの昔に知っていたのでした。

男の目に見つめられているとき、少女は幸せでした。

この幸せを手放さないためには、あたしは今すぐにでも死んだほうがいいんじゃないかしら。

少女は、そんなことを考えたりもするのでした。

そうすれば、あたしはもう、男の心の中で、変わることはないのだから。

でも、少女が死ねば、男はいつか少女のことを忘れてしまうでしょう。それはたしかなことでした。

だとすれば、あたしがあの人を殺すほうが、いいのかしら。そして、あたしがあの人のことをずっと忘れないでいたとしたら――そうしたら、あたしはずっと幸せでいられるのかしら。

けれども、それもなんだか怪しい気がするのでした。少女が日々変わっていくのなら――明日の少女が、もう今日の少女でないのなら――どうして少女は自分のことを信じられるでしょう。

だから少女は、初夏のあいだは下着姿、暑い夏になるとときには丸裸になって、男にたっぷりと体を見せてやりました。秋になるとまた少しずつ着る物を増やしていき、冬には布団の中で、抱き合ってぬくぬくと眠りました。夜はいつも、少女の幸せな時間なのでした。

そうやって季節が巡り、三度目の夏が終わろうとしたころ、その異変は始まったのでした。

初めは、ふざけた冗談のようでした。

なにかの拍子に咳きこんだとき、男の口から小さな白い綿が飛び出してきたのです。

「あら」

それは、まちがいなく綿でした。少女の小指の先くらいの大きさのかたまりになっていて、ほんの少しだけ、男の透明な唾液で濡れていました。指先でほぐすと、それはほろほろとこぼれていくのでした。

「なんだろう」

そうは言っても、男はあまり気にもしていないようでした。明日も早くから仕事に出ないといけないのです。

少女は男の腕に抱かれて眠りました。

「きっとなんでもないんだろう。バカなあたしが知らないだけで、世の中にはそんなこと、よくあるのかもしれない」

しかし、男の吐く綿は、日に日に多くなっていきました。夜のあいだに咳をたくさんするのでしょうか――眠っている少女は、妙なことに咳の音は聞かなかったのですが――朝、目が覚めると、床が真っ白に見えるほどでした。もう、箒で掃いて捨てると、近所の人の眼に見とがめられてしまうのでした。そして、その真っ白な綿は、日の光にあたると、不思議なほどきらきらと輝くのでした。

だから、少女は、もう捨てないことにしたのです。両手で抱えなければ持てないほど、大きなガラスの瓶を買ってきて、少女は毎朝、掃き集めた綿をその中に詰めていきました。そのうちに、埃を取り除いて綿だけを集める、ちょっとしたコツも見つけました。

まずは、ざっと水洗いするのです。水を吸った綿は、きゅっと絞ると、小さく小さく縮まってしまいます。それを窓のそばの日の当たるところに置いておくと、蕾が花開くように、膨らんでくるのでした。そのときには、埃は水に流れてすっかり落ちているのです。

少女は毎日、綿をせっせと瓶に詰めていきました。

「これが、あたしの仕事なんだ」

瓶は二つになり、三つになり――そして、男はいつまでも綿を吐き続けるのでした。

「あなた、きっと病気なのよ。お医者に行くといいわ」

「変だな。昼間は、こんなものは出ないんだ。家に帰ってきたら、急に出てくる」

「お医者に行きましょう」

「平気だよ。食欲はあるし、体はちゃんと動くし――かえって前よりも、調子がいいくらいだ」

でも、少女は知っているのでした。男はそのうちに、きっと死んでしまうということを。

綿を吐くようになってから、男はなおいっそう、少女の体を見つめたがるようになりました。それも、狂おしい真剣な目で、そしてあさましいほど貪婪な目で見つめるのです。秋が深まり、次第に寒くなってきても、男は少女の裸を見たがりました。二人の部屋では、いつもの年よりもずっと早く、ストーブに火が入りました。この調子でいけば、ストーブにくべる石炭の代金は、去年の冬の三倍ほどもかかることでしょう。

でも、かまわない。この人はきっと、次の春までも持たないだろうから。

少女は、そんなことを思っていました。

少女は、家でお針子の内職を始めました。いつか、子どものお守りをしてやった女が、紹介してくれた仕事でした。男は、秋の中ごろから、なかなか仕事に出られなくなっていたのです。それで、少女が少しばかり、お金を稼がなければならなくなったのでした。

秋が終わり、冬がやってきました。男はもう、布団の中に寝たきりになっています。部屋の中には、いつだって小さな白い綿が飛んでいました。

毎朝、綿を集めるのを、少女は一日も休まず続けていました。大きなガラス瓶は両手の指では数えられない数になり、押し入れの中にずらりと並んでいるのでした。

冬、外は凍えるような寒さでも、部屋の中はいつも暖かでした。それは、ときには隙間風も少しは入りこんではきましたが――それでも、少女が裸になれないほどではありませんでした。その裸を、男は布団にくるまって、ときどき白い綿を吐き散らしながら、いつまでもいつまでも見つめているのでした。

男はもう、あまり口をききませんでした。口を開けば、言葉よりも先に、綿が飛び出すのです。それでも、時々男は言うのでした。

「ああ、ああ、おれに絵が描けたらなあ」

少女は、幸せでした。幸せで幸せで、怖いほどでした。男はもう仕事に出ていくこともなく、ただ少女の裸を見つめているのです。胸のまろやかな二つの半球を、まだ軽やかさの残る腰を、すらりと伸びたしなやかな脚を――そして腕を挙げたときにだけ見える、やわらかな腋の襞を、いつまでもいつまでも見つめているのでした。

少女は、惜しげもなく裸体を晒していました。少女が男に与えることのできるものを、精一杯ふんだんに、与えてやりたかったのでした。

少女は知っているのでした。男がじきに死んでしまうことを。そして、自分が少女でいられるのも、この冬までだろうということを――

次の春がきたとき、男はもうこの世にはいないでしょう。そして、少女はもう少女ではなくなり、一人の女になっていることでしょう。

少女は知っているのでした。

男はもうすっかり少女のものになってしまって、そして、少女はじきに男のものではなくなるということを。

少女は知っているのでした。

男が自分の腕に抱かれて、死ぬということを。

男が死んだのは、冬の寒さがようやく峠を越えたかと思われる、晩冬のある夜のことでした。

布団の上に半身を起こし、少女にタオルで体を拭いてもらっているときのことでした。夥しい数の綿を一息に吐いて、吐き終わったときには――もう死んでいたのです。部屋の中には真っ白なものが無数に舞い上がり、それは温もりのある雪となって、死んだ男と、男をそっと抱き取っている少女の上に、ゆっくりとゆっくりと舞い降りてくるのでした。

男が死んだあと、少女は、男の吐いた綿を詰めた布団をつくりました。敷布団に掛け布団。それでも綿は余ったので、枕も二つ作ったのです。お針子の仕事を始めていたので、それはたいそう上手にできあがりました。

少女は毎夜、その布団にくるまって眠ります。

今でも、夜は少女にとって幸せな時間です。

いいえ、もう少女ではありません。

春がやってきたのです。少女はもう、女になっていました。そして、少女だったころよりも、ずっと美しくなっていることを、自分でも知っているのでした。

いつか――たぶんそう遠くないうちに、彼女は誰か別の男と、この布団にくるまって眠ることでしょう。

死んだ男は、彼女を許してくれるのでしょうか。

いいえ、許すも許さないもないのです。死んだあの男は、もうこれからずっと――ずっと彼女のものなのです。彼女だけのものなのです。

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◆おまけ 一言後書き◆
この話を書いていて、ひょいと変なことを思いました。この男が吐く真っ白な綿のような作品を、書いてみたいものだと。そうしたら、どんなによいことでしょう。そして今、どんなによいことでしょうと、わたしが思う――ということはですね、それが現実には起こりそうもないということを、わたし自身が知っているからなのでしょう。

2019年4月15日

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2019/04/22)

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