【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第28話 「赤の女」消失事件――どえむ探偵秋月涼子の涙

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第28回目は「『赤の女』消失事件」。鍵を握るのは高いピンヒールを履いた赤の女。今回のSMは「道具を使うSM」……? そのあまりの残酷さに「どえむ探偵秋月涼子」は涙してしまいます。

初体験というものは、どんな人にもいくばくかの緊張をもたらすものである。聖風学園文化大学の三年生、新宮真琴さんも例外ではない。なんといっても、生まれて初めて尾行という探偵行為をやっている最中なのだ。

十一月二十二日、木曜日。場所は聖風学園の敷地のはずれにある、古い古い一号棟へと向かう細道。時は午後五時十五分を過ぎたところ。辺りはもう薄暗くなりかけている。

明日から学園祭が始まる。本日はその準備日ということで、講義は全部休みになっていて、道の両側には、露店の準備をする学生たちの姿がちらほら見受けられる。ただし、この辺りは場所が悪いので、その数はあまり多くない。

「バレてないか?」

真琴さんは、三十メートルばかり前を歩く男女のペアに目を凝らしながら、涼子にそう声をかけた。小声である。

「バレてもかまいませんわ、お姉さま」

涼子は、真琴さんの腕に自分の腕を絡ませながら、少しおかしそうに答えた。秋月涼子は、真琴さんより一つ下の二年生で、たいへんな美少女。(まだ十九歳なので、少女と呼んでもかまわないだろう。)真琴さんと同じミステリー研究会に所属し、真琴さんのことを「お姉さま、お姉さま」と慕って、トコトコついて歩く可愛い後輩だ。しかし、それだけではない。バイセクシャルを自認する真琴さんの、今のところただ一人の性的パートナーであり、さらには真琴さんの大好きなSM遊びの相手まで務めてくれる自称M奴隷でもある。

いやいや、実はまだ言い足りない。秋月涼子は、名探偵――少なくとも本人の主張によれば――でもあるのだ。

「涼子、大学を卒業したら、探偵事務所を開くつもりなんです。でも、あたし、SMをしないと推理が働きませんの。つまり涼子って、ドM探偵なんですわ。ですから、ね? お姉さま。お姉さまには、涼子の厳しいご主人様として、探偵事務所の顧問になっていただきたいんですの」

最近は、そんなことを言ったりするのだ。バカなのか? バカなのだろう。

「バレたら、まずいんじゃないのか?」

「大丈夫です。さっきも言ったじゃありませんか。五時半から、学術文化部会の渉外が集まって、会議があるんです。自治会長の和人くんもそれに出席する予定ですから、一号館に向かっているんですわ。涼子も渉外だから、当然その会議に出席します。ですから、もし和人くんたちに見つかっても、会議に出るところだって言えばいいだけじゃありませんか」

真琴さんたちは、聖風学園文化大学自治会長の萩原和人くんと、その隣に寄り添っている「赤の女」を尾行しているのである。

「でも、私はその会議には関係ないぞ」

「お姉さまは、これから涼子とデートだから、会議が終わるまで近くで待ってるってことにしましょう」

「不自然じゃないか。私は自治会には関係ないし、一号棟になんて、これまでめったに寄りついたことがないんだから」

聖風学園では、敷地内の建物に一号棟、二号棟……と名前が付いていて、七号棟まである。真琴さんの受ける講義は五号棟と六号棟で行われることが多く、この辺りにはあまりなじみがない。一号棟は学園の最も古い建物で、木造二階建て。昔はここで講義が行われたこともあったのだろうが、今では主に自治会や学生課の事務所などが入っている。

「大丈夫ですって」

涼子は、さっきの言葉をまた繰り返した。

「今は学園祭前で、いろんな人が出入りしていますもの。どの部屋に誰がいようと、ちっとも不自然なことはありませんわ。それにしても、今日のお姉さま、なんだか少し緊張なさっているみたい。そんなお姉さまも、新鮮で魅力的です。涼子、また新しいお姉さまの魅力を発見してしまいました。でも、お姉さま? 尾行なんて、探偵業務の基本中の基本なんですから、そんなにビクビクなさることありませんわ」

「今の発言は、懲罰ものだな」

「あら、どうしてです?」

「私はビクビクなんかしてないし、そもそも……こんなバカなことをするハメになったのは、涼子のせいだからな。それに、私をワトソンにするって、どういうことだ? Mのくせに生意気。今夜は、特別厳しい罰をあげなくちゃ」

「まあ、怖い。でも、楽しみ」

涼子は真琴さんの顔を見上げると、にっこり笑ってそう言った。

なぜ、真琴さんと涼子が、萩原和人くんの尾行などをしているのか。そこには次のようなわけがある。

昨日、真琴さんと涼子は、ミス研の先輩で四年生の加賀美蘭子さんに呼びつけられたのだ。蘭子さんは、和人くんの許嫁。結婚すれば、二歳年上の姉さん女房になるわけだが、蘭子さんは和人くんのことを「若さま、若さま」と呼んで、下にも置かぬもてなしをしている。これは先祖伝来の伝統で、江戸時代から蘭子さんの加賀美家は、和人くんの萩原家に世話になってきたとのこと。

加賀美家はこの地方きっての資産家で、実はこの聖風学園も加賀美家が経営しているのだが、その財を築くのに力を貸したのが、江戸時代に代々家老職を務めていた萩原家であった、ということらしい。

場所は、蘭子さんが差配しているエピクロス倶楽部の一室だった。

和人くんと蘭子さんには、少し怪しい噂がある。二人を中心にしたハーレムが存在し、そこに集められた美男美女たちは、このペアに性的に隷属しているというのだ。にわかには信じられない。しかし、全く根拠のない話だとも思われない。蘭子さんには、不思議と人を威圧する力がある。実際、先だっての「呪いの万年筆事件」では、真琴さんがその毒牙にかかるところだった。(「呪いの万年筆事件――どえむ探偵秋月涼子の屈辱」を参照のこと。)そしてまた、和人くんは和人くんで、いつもヘラヘラしているくせに、なぜかしら周囲の人間をいつのまにか自分の味方にしてしまうという、妙な魅力を備えているのである。

そのハーレムの拠点となっているのが、エピクロス倶楽部ではないのか。真琴さんは以前から、そんな疑いを持っていた。

コナン・ドイル著すところのホームズ物の中に、ディオゲネス・クラブというのが出てくる。蘭子さんのエピクロス倶楽部は、それを真似て作ったもので、初めは蘭子さんの知人・友人たちの集まりとして出発したらしい。が、今では古いビルのワンフロアを借り切って、時にはイベント会場としても貸し出す――などというようなこともやっているらしい。

真琴さんは、胸のうちにいろいろと淫靡な妄想を膨らませていたのだが、いざ入ってみると、別段怪しいところもなかった。小さなマンガ喫茶といった風情である。真琴さんと涼子は、その最も奥まった場所にある小さな一室で、蘭子さんと対面した。

「あなたたちに、赤の女の正体を見極めてほしいの」

蘭子さんは、いきなりそう切り出した。

「赤の女って、誰です?」と、真琴さん。

「誰かわかっていたら、あなたたちに頼まないわ。最近――二週間くらい前からだけど――若さまにまとわりついている女性がいるの。いろんな人が私に報告してくれたんだけれど、いつも赤系統の色の服を着ているらしいのね。それで、便宜上、赤の女って呼ぶようにしているんです。その女性の正体が、どうにもはっきりしなくて、困っているというわけ。それで、ほら……涼子ちゃんは将来、探偵になるということだし……」

「つまり、浮気調査というわけですね、蘭子先輩」

今度は、涼子が口を挟んだ。探偵の依頼と知って、張り切りだしたようだ。

「涼子、浮気調査をバカにしたりはいたしませんわ。だって、実際に探偵事務所を開いても、初めのうちは浮気調査や、行方不明のペット探しなんかのお仕事が多いと思いますもの。それが現実というものですわ。涼子、こう見えても、かなり現実的なものの見方ができるタイプなんです」

そうか? 現実的云々という涼子の発言には賛同できなかったが、真琴さんはとりあえず聞き流すことにした。

「でも、和人くんの浮気を蘭子先輩が心配なさるって、少し意外ですわ。これまでは黙認してらしたんじゃありません?」

そうなのか? 

真琴さんはまたそう思ったが、やっぱり黙っていた。蘭子さんと和人くんのペアにまつわる裏事情については、涼子の方が真琴さんよりずっと詳しいのである。というのも、真琴さんは学費全額免除の特待生として大学からこの学園に入ってきた、いわば「よそ者」であるのに対し、涼子と蘭子さんは小学校から大学までいっしょに――学年は二つ違うが――エスカレーター式で上がってきた仲である。和人くんは高校まで公立の学校に通っていたということだが、小学生のころから蘭子さんを通じて涼子とは顔見知りであったらしい。大仰なことを言えば、涼子と蘭子さん、和人くんは同じ文化圏に属しているが、真琴さんだけはそこから少し外れた存在なのだ。

「涼子ちゃん、失礼なことを言わないで。若さまは、これまで浮気なんかなさったこと、一度もありません」

「でも、和人くん、これまでもほかの女の子たちと……」

「それはね、浮気とは少し違うの」

蘭子さんは、少しゆったりとした口調で言葉を継いだ。

「これまで、若さまの周りに集まる女性は、私が全部きちんと管理……管理っていうと言葉が悪いけれど、まあ、私の視界の中にちゃんと入っていたというか……だから、いわゆる浮気というものとは違うのよ。ところが、今回だけは、私が全く知らないところで、正体不明の女性が若さまにまとわりついているらしいの。私も自分の人脈を使って少し調べてみたけれど、ちっともはっきりしないのね。あんまり騒ぎ立てて評判になったら、外聞も悪いし。だから、あなたたちに依頼しようと思ったのよ。涼子ちゃんは、秘密をしっかり守れるでしょうね」

「もちろんです」

「それに、私、大学院の二期試験の準備や、卒論なんかで忙しくて……」

蘭子さんは、大学院に進学する予定なのである。一期の試験にはすでに合格していて、今は二期の試験に向けての勉強と、卒論の追い込みに専念しているらしい。そうした点では、真琴さんは蘭子さんに敬意を持っている。実は真琴さんも大学院に行きたいと思っているのだ。「女が大学院?」と、両親からはあまり歓迎されていないが、しかし、探偵事務所の顧問になるというのよりは、ずいぶんと現実的なのではないのか?

「わかりましたわ、蘭子先輩」

涼子が元気よく返事をした。敬礼のポーズまでとっている。

「では、料金のご相談ですけど……」

涼子の家も、蘭子さんの加賀美家に劣らない大金持ちなのだが、それなのに――というべきか、それだからこそというべきか――涼子は案外、お金のことに関しては、ちゃっかりしたところがある。

「もちろん、欲張ったことを言われると困るわ。あなたは、まだアマチュアにすぎないわけだから」と、蘭子さんも負けてはいない。だが、その料金交渉が本格的に始まる前に、真琴さんが口を挟んだ。どうにも納得できないことがいくつかあったのだ。

「ちょっと待ってください」

「どうしたの? 新宮さん」

「どうして、和人くんに直接聞かないんですか?」

「聞いたわ」と蘭子さん。

そうなのか?

「それで、和人くんは、なんて答えたんです?」

「それがねえ、不思議なの。そんな女の人は知らないって、そうおっしゃるの。しかも、その点で嘘はついていないって、すごく真面目な顔で断言なさるのね。本当に、変な話」

「もう一つ。どうして、私まで呼んだんです?」

「あら。だって、新宮さんは、涼子ちゃんの探偵の助手になったんでしょう? 涼子ちゃんからそう聞いたわ。新宮さんは、涼子ホームズのワトソンだって」

「涼子!」

真琴さんは、涼子をにらみつけてやった。涼子は首をすくめた。

今、三十メートルほど先に、その赤の女と和人くんが、肩を並べて歩いている。真琴さんたちのように腕を組んではいないが、二人の距離は近い。時折、見つめ合っている様子を見ると、明らかに親密な仲といった感じだ。

女の方は、ひどく目立つ。少し異様な感じがするほどだ。背が高い。赤の女とあだ名されるだけあって、赤ずくめだ。暗い赤の長いスカート。それより少し明るい色をした、赤のコート。そして片手には、これも真っ赤な色をした大きな布製のバッグを提げている。

「でかい女だな」

真琴さんがそう言うと、隣で涼子がくすっと笑った。

「どうした?」

「だって……お姉さまだって」

「私は、あんなに背が高くない。一六八センチだもの」

真琴さんは、「一六八センチ」を強調した。日頃からなぜか「一七〇あるよね?」と、実際より長身と見られることが多いことに、少し憤りを感じていたのである。

ちなみに涼子のほうは、真琴さんとは反対に、実際より小柄に思われることが多いらしい。一五五センチ近くはあるのに、「一五〇センチくらい?」とよく言われるそうである。それは涼子が「かわいい」からだ――と、真琴さんは思っている。真琴さんは子どものころから「美人だ」「器量がよい」などと言われて育ってきたが、不思議と「かわいい」と言われることは少なかった。(性格的にかわいげがなかったという点は、自覚している。)その事実と、背丈に関するこの憤りは、どこかで繋がっているような気がする。

「和人くんが、ちょうど一七〇センチって言ってただろ? 私の背は、それより低いんだぞ。でも、あの赤の女は、和人くんより明らかに背が高いじゃないか」

「ヒール……」と、涼子は一言、そう言った。

「ああ」

前を行く女は、やけにヒールの高い靴――やはり色は赤――を履いていた。十センチ近くあるのではないか。アスファルトをコツコツと打つ音が、はっきりと聞こえる。もし、真琴さんと同じようなベタ靴を履けば、和人くんよりかなり低くなってしまいそうだ。

「お姉さま、観察力が足りませんわ」

「また、そんな生意気言って。ますます罰を重くするからね」

「それにしても、あのメイクじゃ、素顔はわかりませんねえ」

たしかにそうだ。これまで尾行しながら、真琴さんと涼子は、赤の女の顔を二度、比較的近くから盗み見る機会があった。しかし、メイクが非常に濃く、しかも両目に強いラインを入れているので、まるで目の化け物のように見えたのだ。

「不思議ですわ。あのメイク、和人くんのお好みとは思えません」

「それについて、私は推理したんだけどね……」

「どんな推理です?」

「和人くんは、蘭子先輩をからかってるんだと思う。そんな女は知らない……って、和人くんは蘭子先輩に言ったんだよね。それは、正体不明の女なんかいない、実は蘭子先輩の……ええっと、管理? その管理とやらをしている女の子を、連れて歩いているだけだ……っていうことじゃないのかな。ただ、その子に真っ赤な服装をさせて、メイクで別人のような顔にして……それで、蘭子先輩をやきもきさせようとしているんじゃないのか」

「そうかもしれません。和人くんって、そういう悪戯が大好きですもの。さすが、お姉さま。慧眼ですわ」

「そんなふうにお世辞を言っても、罰は軽くしない」

「お姉さまって、とっても意地悪ですわ。あっ、やっぱりあの二人、一号棟に入っていきます。急ぎましょう」

一号棟の中に消えた和人くんと赤の女を追って、真琴さんたちは小走りに駆けだした。

真琴さんたちは一号棟の入り口まで行くと、ドアの陰から二人の行方を見守った。和人くんたちは、さらに廊下を先に進み、右手にある部屋の前に立ち止まった。また一言二言、言葉を交わし、こちらをちらりと見たようである。

「たぶん、私たちに気づいてるぞ」

真琴さんがそう囁くと、涼子も

「そうかもしれません。あら? あの部屋……」

「どうした?」

和人くんが鍵を使って、ドアを開けているのが見える。赤の女が部屋に入った。ドアが閉まると、和人くんはまたそのまま歩き出し、奥にある階段へと向かっていく。どうやら会議には、一人で出るらしい。

「あの部屋って……あの部屋ですわ!」

「いったい、なにを言ってる?」

「あの部屋です、お姉さま。ほら、倉庫でセックス事件のときの、あの倉庫だった部屋ですわ」

「ああ、あれね」

「倉庫でセックス事件」というのは、今年の五月にあった事件である。その犯人――といっても、別に犯罪行為があったというわけではないのだが――も、萩原和人くんだった。そもそも和人くんが自治会長に立候補することになったのも、その事件がきっかけだった。(「どえむ探偵秋月涼子の観察」を参照のこと。)

「じゃあ、あそこは倉庫なのか」

「いいえ、今ではたしか……ああ、やっぱり休憩室ですわ」

二人はその部屋の前まで足早に歩き、ドアのプレートを見た。「自治会 懇談・休憩室」と書かれていた。

「たしか和人くんの発案で、ここを休憩室に変えたんです」

「それで、やっぱりここを根城に悪さをしてるってわけか?」

「悪いことをしているとは限りませんけど……ところでお姉さま。和人くんは鍵を使って、このドアを開けていましたでしょう? つまり、これまでここには誰もいなかった。そして、赤の女と呼ばれる人だけが入った。ということは、ここで見張っていて、誰かがここから出てきたとしたら、たとえ変装を解いていたとしても、その人が赤の女ですわ」

「そうだな」

「とすれば、ここからはお姉さまの活躍次第です。お姉さまが、赤の女の正体を見破ってください。もし必要だったら、さらに尾行を続けて、ヒントをつかんでいただきたいですわ」

「私が? 涼子はどうするんだ?」

「だって、ほら……涼子はこれから会議に出なければいけませんもの。ああ……でも、今度の会議は長くはかからないはずなんです。学園祭前の確認だけですから、三十分くらいで終わるかも。終わったら、涼子、すぐに戻ってきます。それまで動きがなかったら、また二人で考えましょう。でも、その前に赤の女が動き出したら、お姉さまお一人で……連絡はメールを使ってくださいね。それから……危険なことは決してしないでください。尾行していて、もし人のいない場所に誘いこまれそうになったら、そのときは、すぐに尾行は中止してくださいね」

「どうして私が……」

「お姉さま、お願い!」

涼子は、両手を胸の前で組んで、真琴さんの顔を見上げた。真琴さんは、涼子のこの仕草と表情にとても弱い。

「いいよ、わかった。ここで見張ってる。会議が終わるまで、なにも動きがないことを祈るよ」

だが、そうは問屋が卸さなかったのである。

真琴さんは、廊下を挟んでその部屋の反対側の壁にもたれ、ドアを見張ることにした。真正面だとさすがにおかしいので、斜め前の位置に立って、スマホの画面を眺めている――といった姿勢をとる。だが、目は一瞬たりとも、ドアから離さないようにした。

廊下を何人もの学生が――ときには大学の職員らしい人が――行ったり来たりする。学園祭前日ということもあって、なんだか皆、忙しそうだ。それでも中には、真琴さんのほうを不審そうにちらりと見ていく者もいる。どうも思った以上に目立つらしい。

十分ほど過ぎたころだろうか。一人の小柄な男子学生が、建物の入り口の方から足早に歩いてきて、ドアの前に立った。そして、トントンと二度ノックをして、ドアを開けようとした。

が、開かなかったらしい。

「変だな」とでも言うように、軽く首をかしげると、くるりと振り向いた。その動作があまりに素早かったので、真琴さんは目をそらす間がなかった。視線が一瞬、カチリとぶつかってしまった。

その小柄な男子は、もう一度ノブをガチャガチャやって、ドアが開かないことを確かめると、再びくるりと振り返って、真琴さんの顔をじっと見た。

その瞬間に、真琴さんはさまざまなことを考えた。

部屋の中には、赤の女がいるはずだ。ドアが開かないということは、中から鍵を閉めたのだろうか。それにしても、ノックの音に答えないのはなぜだろう。

それから、今、目の前に立っている男の子。男性――というよりも、男の子っていう感じ。どちらかと言えば小柄だし、髪がすごく短い。坊主頭というほどではないけれど――それにあちこちツンツン立てているのは、おしゃれなのか、寝ぐせがとれないだけなのか――たぶんおしゃれのつもりなんだろう。それにしても、この男の子はどうして、あんなに怒ったような顔で、私のほうを見ているのだろう。

その「男の子」は、つかつかと真琴さんの前まで歩いてきた。そして――

「ミス研の三年生の新宮さんじゃありませんか?」と尋ねた。予想よりずっと低い、響きのある声だったので、真琴さんは少しびっくりした。

「そうです。そちらは?」

「二年生の前原といいます。前原タクミ。開拓の拓に海で、拓海です。自治会の広報委員をやってます」

「そうですか。よろしく」

真琴さんは、軽く頭を下げた。

「でも、どうして私の名前を知ってるんですか」

「一度、お会いしたことがありますから。ぼく、美術部なんですが、ほら……萩原くんが自治会長に立候補したとき、新宮さんが美術部の部室まで来たことがあったでしょう。秋月さんや加賀美さんといっしょに。そのときに……」

「ああ」

今年の五月、自治会長選挙に立候補した和人くんの応援のため、真琴さんは涼子や蘭子さんといっしょに、各サークルの部室を回ってあるいたことがあった。そのときに顔を覚えられたのだろう。

「それで……?」

その男の子――前原くんは、もう一度例の部屋のドアを振り返った。そして言った。

「あのドアが開きません」

「いや、それは……私に言われても……」

だが、たしかに変だ。中には、赤の女がいるはずなのに。ひょっとすると、正体がばれるのを恐れて、いないふりをしているのだろうか。

「変なことを言うようですが……」

前原くんは、真琴さんの顔を見ながら、言おうか言うまいか迷っているように、唇をわずかに震わせた。きれいな白い歯が、ちらりと覗く。短く刈った髪といい、俊敏な身のこなしといい、なかなか好感の持てる男の子だ。全体的にさわやかな感じが漂っている。さわやかくんとあだ名をつけようか。

だが、そんな好印象もすぐに消えることになってしまった。前原くんは、実に妙なことを言いだしたのだ。

「実は最近、萩原くんが自治会長でありながら、自治会に属さない女性を、この部屋によく連れこんでいるっていう噂があるんです。その女性は、赤の女って呼ばれています」

赤の女は、自治会でも噂になっていたのか。

「それで?」

「新宮さんが、その赤の女じゃないんですか」

「とんでもない」

「自治会に属さない人間が、この辺りをうろつくのは、困るんですよね。それなのに、自治会長の萩原くんが変な女性を引っ張りこむなんていうのは、言語道断だとは思いませんか。ところで、自治会に関係のない新宮さんが、なぜこんなところにいるんです?」

「自治会のことはよく知らないけど……私がここにいるのは、涼子と……失礼、秋月さんと待ち合わせしているからだよ。秋月さんはミス研の渉外として、今この上でやっている会議に出ているんだ。すぐに終わるっていう話だから、ここで待っているだけだよ」

相手が一つ下の二年生というせいもあって、真琴さんの口の利き方は少しずつぞんざいになっていく。もともとしゃべり方が、女にしては乱暴なほうなのだ。(そのせいで嫌われたこともある。)いっぽう前原くんは、相変わらず丁寧な敬語で――しかし、なんだか怒ったような調子で言葉を継いでいく。

「このドアが開かないことについて、なにかご存じありませんか。このドアは、この時間はふつう鍵はかかっていないはずなんです。そして……そして……新宮さんは、本当に赤の女ではないんですね」

「違うよ。ただ……」

どこまで話していいものかと悩みながら――

「そのドアについては、少し知ってることがある」

「どんなことです?」

「さっき、萩原くんが鍵を使って、そのドアを開けるところを見たんだ。もちろん偶然にね。だから、それまでそのドアには、鍵がかかっていたんだと思う。それから、萩原くんといっしょにいた赤い服を着た女の人が、その部屋に入った。それから、出てきていない。だから、その女の人が、中から鍵をかけた可能性はある」

「本当ですか」

前原くんは、さらに一歩、真琴さんに近づき、声を殺して問いかけた。

「その人は、本当に赤い服を着ていたんですね。そして、今、この部屋の中にいるんですね。確かですか」

「確かだよ。私はずっとここに立っていたんだから。あれから誰も、この部屋から出てきていない」

「じゃあ、もう少し見張っていてください。ぼく、事務所から合鍵をとってきますから。赤の女の正体を、今度こそ見破ってやる」

前原くんは、階段を駆け上って行った。真琴さんは、なんとなく釈然としない気持ちのまま、やっぱりさっきの場所に立っていた。和人くんの許嫁である蘭子さんが赤の女を気にするというのは、わからないでもない。だが、あの前原くんというさわやか男子が、なぜそんなに赤の女にこだわるのか。それに、なんだか怒っているようだったし。和人くんは、赤の女とこの部屋に関して、自治会の人たちをよほど怒らせるようなことをやらかしたのだろうか。

前原くんは、すぐに戻ってきた。そして、鍵を真琴さんに差し出して言った。

「じゃあ、新宮さんが開けてください」

「どうして私が?」

さっきも涼子に向かって、同じセリフを言ったような気がする。

「だって、新宮さんの話では、中にいるのは女性一人なんでしょう? 男のぼくが先に入るより、そのほうがいいじゃないですか」

「それもそうだな。じゃあ……」

真琴さんは鍵を受け取り、念のためにと、ドアをもう一度ノックしてみた。やはり返事はない。ふと、いやな予感がした。

「ひょっとしたら、中で倒れているのかも」

「だとしたら大変です。早く開けてみてください」

真琴さんは鍵を回し、ドアを押した。部屋の中には、灯りが灯っていた。しかし、誰も見当たらなかった。

少人数のゼミに使う教室程度の大きさの、比較的小さな部屋だ。以前は倉庫だったというが、今ではきれいに片づけられて、テーブルと数脚の椅子が置いてある。だが、妙に横に細長い――と思ったら、部屋を半分に区切って、まだ向こう側があるのだった。パーティションに、またドアがついている。

「たぶん、あの中です」と、前原くん。

「あそこは?」

「仮眠室になっていて、ベッドがあるんです。新宮さんから入ってください。理由はさっきと同じです」

「わかってる」

真琴さんは、パーティションのドアを開き、中に入った。そして、ひどく驚いた。しばらくのあいだ、自分の目が信じられなかった。

たしかにベッドがあった。しかし、その上には、誰も横たわっていなかったのだ。すぐ続いて中に入ってきた前原くんが言った。

「誰もいないじゃありませんか」

「窓から逃げたのかな」

だが、窓にも鍵がかかっていた。くるくるとネジを巻いて締める、古風な鍵だった。(真琴さんはあとから調べて、それが「ネジ締(しまり)」と呼ばれる、昔の木造建築によく使われたタイプの鍵だということを知った。)さすがにこの大学で最も古い一号棟だけのことはある。

二人は、他の窓も全て調べてみた。どの窓の鍵も同じタイプの鍵で、どれもきっちりと締まっていた。

真琴さんは一瞬、前原くんがこっそりと開いていた窓の鍵を閉めたのではないか――と、そう思った。しかし、このタイプの鍵は、締めるのに時間がかかる。前原くんは、ほとんど常に真琴さんといっしょにいた。そんなことをする暇はなかったはずだ。

「人間消失のトリックだ」と、真琴さんは言った。

「新宮さん、ふざけないでください」

前原くんの声が、さっきよりもう一段低くなった。同時にそこにこめられた怒りも、さらに強くなったようだ。それにしても、どうしてこの子は、さっきから妙に怒っているのか――

「赤の女がここにいるなんて、嘘だったんでしょう?」

「いや、私は、嘘はついてない。赤い服を着た女性が、たしかにこの部屋の中に入ったんだ」

「出てくるのを、見逃したんじゃないですか」

「それもない。あり得ない」

「もう一度聞きますけど……」

前原くんは、つかつかと真琴さんのほうに近づいてきた。そして、真琴さんの目をじっと見つめた。真琴さんよりほんの少しだけ背が低いので、わずかに見上げるような視線になる。切れ長の涼しい目だ。こんなに怒っていなければ、とてもかわいい顔なのに――と、真琴さんは人間消失の謎に困惑しながらも、ふとそんなことを思った。

「赤の女って、新宮さんじゃないんですか。それをごまかそうとして、いろんな嘘をついたんじゃないですか」

「私は、嘘はついてない」

「でも、新宮さんの話が嘘でないとしたら、おかしなことになりますよ。萩原くんが、この部屋の鍵を開け、赤の女がその中に入った。それから、誰もこの部屋から出てきてはいない。でも今、この部屋の中に、赤の女はいない。窓から出たのか? そうじゃない。なぜなら、窓の鍵は内側から全部締まっていたんだから。どうです? おかしいじゃありませんか」

「それはつまり……なにかトリックがあるんだ。人間消失のトリックだよ。ミステリーでは、よくあるんだ」

「ミステリーではよくあるとしても、現実には、そんなことはあり得ませんよ」

「それはまあ、そうだが……」

そのとき、廊下のほうから声がした。

「お姉さま、どうかなさいましたの?」

涼子が開いたドアの向こう側に立っていた。その背後に、和人くんの顔も見えた。いつものようにニコニコしている。いや、ヘラヘラしている。

「ああ、秋月さん」と、前原くんがペコリと頭を下げた。相変わらず怒ったような口調だが、礼儀正しいのは認めざるを得ない。涼子は少しのあいだポカンとしていたが――

「あっ、前原くん。すっかり見違えましたわ。髪をそんなにしちゃって、ずいぶん大胆にイメージチェンジなさったのね。とってもかわいいですわ!」

真琴さんとは対照的に、涼子は同学年の相手にも、原則として敬語を使う。ときには後輩にも、「ですわね、ですのよ」と、丁寧な口の利き方をするのだ。

「で……いったい、どうしたっていうんです?」と、和人くんがのんびりとした声で言った。

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こみいった事情を簡潔に説明するのは、真琴さんの得意とするところ。だが、今回はあまりうまくいかなった。横から前原くんが「いや、その話は新宮さんが嘘をついている可能性があります」だの、「どうして萩原くんが鍵を持ち歩いているんですか」だの、余計な茶々を入れるせいで、話があちこちで脱線してしまうのだ。

が、ともかく数分後には、真琴さんは一通りの話を終えることができた。あとは、まとめである。

「つまり、こういうことだ。私と涼子は偶然、和人くんがこの部屋に、赤い服を着た女の人を入れるのを見た」

真琴さんは、「偶然」という言葉に、特に力をこめて言った。そして続けた。

「そのあと私は、ここで涼子が戻ってくるのを待っていた。そこに前原くんがやってきて、紆余曲折の末、二人でこの部屋に入った。ところが、中には誰もいなかったんだ。見ての通り、窓は全部、内側から締まっている。つまり、一人の人間が密室から消えちゃったわけ」

「怪しいのは、やっぱりこの窓ですね」

涼子は、ネジをくるくると回しながら、窓の鍵を開けたり締めたりしている。

「本当に鍵は締まっていたんですか。ちゃんと確かめました? お姉さまの目を盗んで、前原くんが鍵を締めたなんてことは……」

「それはない」と真琴さん。

「おかしいですわねえ。それにしても、この窓……建付けがすごく悪いんですのね。鍵を開けても、ほら……全然動きませんわ」

涼子はさかんに窓を開けようとしているが、なかなか動かない。これだと、たとえ鍵を開けたとしても、窓から外に出るのは難しそうだ。――と、突然ガタガタっと音がして、半分ほど一気に開いた。どこか引っかかっていたのが、急にはずれたらしい。

「古いから、気をつけて」と、前原くんが駆け寄って、再び窓を閉じた。

「コツがあるんです。ただ力任せにやっても動かなくて、こう……ほら、少し手前に引くようにしながら動かせばいいんだよ。それにしても、秋月さん……秋月さんはさっきから、ぼくを疑っているようだけどね……新宮さんが嘘をついている可能性だってあるんだよ」

そして、和人くんに向かって――

「というより、萩原くん。新宮さんが、例の赤の女じゃないのか。君と新宮さんでぼくたちを騙しているんじゃ……」

その言葉をさえぎって、和人くんはごく短い言葉で答えた。

「前原くん。それはもういいよ」

途端に、前原くんはぴたりと口を閉じた。真琴さんはまた、なにか変だな……と感じた。今日は、変なことが多すぎる。実際、さっきまであんなにいろいろとしゃべっていた前原くんが、このあとはほとんど口を利かなかったのだ。和人くんは、真琴さんの顔を見た。そして言った。

「いわゆる人間消失のトリックですね」

「その通りだね」

「では、ぼくから、新宮先輩に挑戦です。このトリックを、先輩は解くことができますか」

「挑戦って……」

ふざけてるのか。そう言おうとした寸前、涼子の声が高々と響いた。

「お姉さまは、誰の挑戦でも受けますわ!」

言ってない。真琴さんはそんなことは言ってない。

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「とにかく、この部屋はもう閉めますよ。みんな、外に出てください。自治会長のぼくからのお願いです」

「あら。まだ調べたいですわ」と、涼子。

「駄目だよ、涼子ちゃん。ぼくはこれからまだ、自治会の仕事があるし、いつまでもつきあっていられない」

「じゃあ、最後に和人くん、聞きたいことがある」

真琴さんは、思い切って言ってみた。

「赤の女をこの部屋に入れたのは、和人くん。その事実は、認めるんだよね?」

「いいえ」と、和人くんはいつものヘラヘラをやめて、急に真面目な顔をして答えた。

「ぼくは、女の人をこの部屋に入れたりはしませんでしたよ。これは、本当です」

「でも、私たちは間違いなく見たぞ」と、真琴さん。

「そうですわ!」と涼子。

「でも、ぼくは女の人をこの部屋に入れてはいません。嘘はついていませんよ」

「じゃあ、その前に赤い服を着た背の高い女と歩いていたというのは? それも否定するのか」

「その質問にはノーコメントです」

和人くんはまた、にこにこし始めた――いや、ヘラヘラし始めた。

「どうして?」

「だって、全部正直に答えていたら、トリックが見破られちゃうじゃないですか」

「ということは、人間消失のトリックは和人くんが仕組んだというわけ?」

「その質問には、お答えします。答えはイエスです。これも本当ですよ」と、和人くんは言った。

12

真琴さんは、オンボロの軽自動車を持っている。その助手席に涼子を乗せると、自分のアパートに向かって走り出した。ただし、途中寄るところがある。

クルマの中での二人の会話。

「涼子ったら、勝手に挑戦を受けたりして。本当にいけない子」

「ごめんなさい、お姉さま」

「今夜は、その分だけ罰を重くしてあげるから。覚悟しておきなさい」

「涼子、スパンキングでしたら、どんなに厳しくても、喜んでお受けしますわ」

「ところが、今夜の罰は、そんな優しい罰じゃないの。今夜は本当に厳しい罰をあげるんだから。でも、安心して。少しも痛くはないから。ただ、あまりの屈辱に、涼子は耐えられないと思う」

「涼子、なんだか本当に怖くなってきました」」

「今ごろ怖がって見せてもダメ。私をワトソン扱いしたうえに、生意気なことばかり言って、そのうえ和人くんの挑戦まで勝手に受けるなんて……」

「でもお姉さま? 人間消失のトリックは、涼子、もう解けていると思いますの。簡単な、古典的なトリックですわ。でも……」

「え?」

真琴さんは、ちらりと涼子の顔を見た。涼子はごく生真面目な顔をして、考えこんでいるようだった。

「本当か? 説明してくれないか」

「でも、まだわからないことがあるんですの。和人くんは、どうして『女の人を部屋に入れたりしていない』って、あんなにわかりきった嘘をついたんでしょう? しかも『嘘じゃない、本当だ』って、大真面目な顔をしていましたわ」

「あれは確かに変だった。それから、ほら……気がついた? 前原くんがなにかしゃべりかけたとき、『それはもういいよ』って言っただろ? あの言い方も、ちょっと気にかかったな」

「さすがです、お姉さま。涼子も、あれは気になりました」

「それに……」と、真琴さんはしばらく黙ってから、一番気にかかっていることについて触れた。

「赤の女の正体については、なんのヒントもつかめていない。これは大問題じゃないか。明日からは学園祭が始まるから、和人くんの尾行なんてしていられないぞ。どうする?」

「そんなに急がなくても大丈夫です、お姉さま。蘭子先輩は、期限をはっきりおっしゃいませんでしたし……それにほら、今夜SMをすれば、涼子に素晴らしい考えが浮かぶかもしれませんわ。だって涼子、ドM探偵ですもの」

「SMと言えば……」

ちょうど、目指していた店の駐車場に乗り入れるところだった。それは、一般の文具や小間物などのほか、パーティグッズなども扱っている雑貨屋だった。

「そのままクルマの中で待ってなさい。ちょっと買い物をしてくるから」

「なにをお買いになるんですの?」

「今夜のSMに必要なもの」

涼子の返事を待たずに、真琴さんはクルマから出て、店へ向かった。戻ったとき、涼子はなんだか不安そうな顔をしていた。

「お姉さま? お道具を使うSMって……」

「さっき言ったでしょう? 痛くはないから安心しなさい」

「涼子、なんだかとっても不安です」

「そうだよ、涼子。いつもいつも優しい罰ばかりもらえると思ってたら、大間違いなんだから」と、真琴さんはわざとらしく冷たい声を出して、そう言ってやった。

13

部屋に戻ってから三十分ほど。ファンヒーターとエアコンで十分に暖まったところで、涼子に服を脱ぐように命じた。涼子は裸になって、お行儀よく床の上にひざまずいた。真琴さんは、まだ服を着たまま、ベッドに腰かけている。

「ほら、見てごらん」

真琴さんは、さっき店で買った品物が入っている袋から、まずは大きなハサミを取り出した。パッケージを開いて、涼子に持たせてやる。涼子はとまどいながら――

「あの……これをどうすれば……」

「前原くんの髪を見て、思いついたんだ。涼子、そのハサミで、自分の髪を切りなさい。バリカンも買ってきたから、あとで私がきれいな丸坊主にしてあげる。生意気なことばかり言った罰だよ。どう?」

「そんな……お姉さま。残酷すぎます。髪は女の命ですわ」

「私は、そんな言い方は嫌いだな。女の……男の……とか、女は……男は……とかね。でも、涼子の髪がとっても素敵なのは、認めてあげる。真っ黒でツヤツヤで、しかもサラサラで……」

真琴さんは、右手を伸ばして、てのひらでその髪を優しくなでてやった。

「ああ、本当にいい手触り。この髪の毛を刈りあげてしまうなんて、本当に可哀そう。でも、罰だから、仕方がないわねえ」

「お姉さま、お願い……」

涼子は、ハサミを床にそっと置き、両手を目の前で組むと、真琴さんの顔をじっと見つめた。真琴さんは、黙って首を横に振って見せた。

「どうしても、許していただけないんですの?」

「涼子が嫌なら、従わなくてもいいんだよ。ただ、そのときは私の記憶に、しっかりと残ると思うの。涼子が私の命令を拒絶したってことが……」

「ああっ。お姉さま」

涼子は、さっきと同じ姿勢で真琴さんを見つめてまま、何度か瞬きをした。みるみるうちに涙があふれてきて、最後にもう一度瞬きをしたときには、まるで嘘のような大粒の雫が、両目からぽろぽろとこぼれた。

「涼子、つらいです……でも、でも……」

涼子の声が、急に芝居がかっていく。そんなとき真琴さんはいつも、ほんの少しだけ白けた気持ちになってしまうのだが、今回だけはそうはならなかった。涼子の大きな丸い目から、涙がとめどなく流れ続けていたからだ。

かわいい。ああ、かわいい。

真琴さんの心に、その同じ一つの言葉が何度も響き渡った。かわいい!

「お姉さまが本当にお望みなら……涼子、従いますわ!」

涼子は、床に置いていたハサミを右手に取った。そして、左手で前髪をつかみ、一気に切り落とそうとした。

「あっ、バカ」

真琴さんは、あわてて涼子の手から、ハサミを奪い取った。

「やめなさい。冗談に決まってるじゃないの、涼子ったら、本当にバカね」

涼子は、きょとんとした顔をしている。

14

「じゃあ、お姉さま。罰はどうなさいますの?」

「本当の罰は、こっちよ」

真琴さんは、袋の中からもう一つのものを取り出した。それは、ビニールでできた禿げ頭のカツラだった。

「ほら、涙をふいて、これをかぶりなさい。そして、こっちにおいで。この鏡の前に」

涼子は、子どもがするように両手の甲で涙を拭い取ると、立ち上がって大きな姿見の前に立った。背後から真琴さんが、カツラをかぶせてやる。

「あら、お寺の小坊主みたい。おかしいわねえ」

「お姉さま?」

鏡の中の涼子の目が、くるくるっと動いて――

「これが罰ですの? これだと、ちっともロマンチックじゃありませんわ。いっそのこと、本当に髪を切ったほうが……」

「たった今まで泣いてたくせに、生意気を言ったらダメ。ほら、そのおかしな顔を、じっくりと自分でご覧なさい。今夜は、ご奉仕のときも、そのカツラをかぶったままやらせるつもりなんだから」

「なんだか笑ってしまいそうで、真面目にご奉仕できないかもしれません」

「そのくらいで調度いいの。ああ、でも……やっばりダメねえ。髪が後ろにはみ出ちゃう」

涼子の髪は肩にかかるほどの長さがある。カツラの中に収まりきれないのだ。カツラをかぶせたり、また取ったりしてやっているうちに、突然、涼子が……

「あら?」と、頓狂な声を上げた。

「ん? どうした?」

「あらあらあら?」

「だから、どうした?」

「お姉さま、謎が解けましたわ。全ての謎が!」

15

「つまり、赤の女は、前原くんだったんです」

「でも、前原くんは男じゃないか」

「ですから、女装していたんですわ。前原くんは女装男子だったんです」

涼子は、きっぱりと断言した。

「それで、和人くんのあの言葉の意味が、わかるじゃありませんか。『ぼくは女の人をこの部屋に入れてはいません。それは本当です』っていう、あの言葉。たしかに和人くんは、女の人を部屋には入れませんでした。和人くんが部屋に入れたのは、男の人だったんです。それに、和人くんが蘭子先輩に言ったっていう『そんな女の人は知らない』っていう言葉も、やっぱり嘘ではなかったんですわ。和人くんにまとわりついていたのは、女の人ではなく、男の人だったんですもの」

「でも、背が違うぞ。赤の女はあんなに背が高かったけど、前原くんは割と小柄で……あっ」

「そうです、お姉さま。ヒールのせいですわ。あのヒール、十センチまではなくても、七、八センチはありそうでした。前原くんの身長は和人くんより少し低くて……そうですねえ、一六七センチくらいでしょうか。お姉さまとちょうど同じくらいですね」

「私より、ほんの少しだけ低かった」

「でも、あのヒールだと一七〇センチを超えて、和人くんより高くなってしまいます。これで、背の問題は解決ですわ。それから、あの和人くんが前原くんに言った、『それはもういいよ』っていう言葉。あれはたしか、こんなタイミングで出た言葉でした。前原くんが、お姉さまが嘘をついているとか、お姉さまが赤の女なんじゃないかとか、そういう話を蒸し返そうとしたときです。それに対して、『そうじゃない』でもなく、『それは間違いだ』でもなく、『黙れ』でもなくて、『それはもういいよ』って、和人くんは言いましたわ」

「そうだね。つまり?」

「つまり、その話は、お姉さまを混乱させるために、あらかじめ和人くんが用意した煙幕だったんです。前原くんは和人くんの指示で、そんな話をしていたんです。でも、もうあの時点では、そんな煙幕は必要なくなった。だから、和人くんは、『それはもういいよ』って言ったんだと思います。ということは、和人くんと前原くんはグルだった。前原くんは、赤の女について知っていた。つまり、前原くんこそが、赤の女だったっていうことですわ」

「なるほど」

問題があるとすれば、どうして真面目そうな前原くんが、そんな悪戯に乗ってしまったのだろうか、ということくらいか。しかし、それはあの二人のあいだになんらかの性的な関係があると仮定したら、解消してしまいそうな気もする。そして、あの二人の寄り添いぶりは、そんな仮定に現実味を与えてくれそうだ。すると、和人くんも真琴さんと同じバイセクシャルということなのだろうか。

真琴さんは、その点について涼子と語り合いたいという気もしたが、今はやめておいた。それよりも謎を解くのが先だ。

「それに、まだ状況証拠があります。蘭子さんのお話では、赤の女が現れたのは、二週間前からということでしたわね。前原くんがあの短い髪型にしたのも、二週間前のはずです。少なくともそれ以前は、前原くんは髪をもっと長く伸ばしていたこと、涼子、知っていますもの。そして、どうして髪をあんなに短くしたかと言えば、それはカツラをかぶりやすくするためだったんですわ」

「でも、涼子?」

真琴さんは、まだ本当には信じられなかった。なんといっても、最も大きな謎が片づいていないではないか。

「赤の女が前原くんの女装だと仮定して、いったいどうやって、あの密室から抜け出したんだ? それがわからなきゃ、謎が解けたことにはならない」

「それは、あの部屋にいたときから、もうわかっていました」

「どうやったんだ? どの窓も鍵はしっかりと、かかってたんだよ。しかも、あの鍵はネジをぐるぐる回さなきゃ、かからないんだ。一瞬の早業でごまかすことはできないし、外から細工して締めることもできない」

「鍵がかかったまま、抜け出したんです」

「どうやって」

「窓ごと、はずしたんですわ。ほら、涼子が窓をガタピシさせてたら、なかなか動かなくって、そのあと何かの拍子に急に動いたでしょう? あの窓、半分はずれかかっていましたの。一号棟って、すごく古い建物で、窓枠なんかもゆるゆるになっているんです。ですから、こう……こんな感じで……」

涼子は、両腕で窓を抱えて上下左右に揺らす動作をして見せた。

「……揺らしてやれば、鍵は締まったまま、左右の窓がはずれると思うんですの。男の人の力なら、なんとかやれると思います。前原くんはたぶん、あの部屋に入るとすぐに変装を解いて、今説明したやり方で窓を外して外に出ると、また窓をはめこんだんです。そして、何食わぬ顔で一号棟に入ってきて、お姉さまに声をかけたんだと思います。たぶん、間違いありません。これ以外には、方法はありませんもの。つまり、これが正解です!」

「ということは、私たちが尾行していることに、和人くんは気づいていたってことだね」

「ですね。涼子、尾行のテクニックは、まだまだ未熟ですわ。でも、今回はそもそもバレてもいい尾行でしたし……これから修業を積めばいいと思うんですの」

16

しばらく黙ったあとで、真琴はさんは涼子に言った。

「まあ、今の説明で私は納得したけど、証拠はないよね。それで和人くんが負けを認めるかどうかは、怪しいな。それから……蘭子先輩は、ちゃんと料金を払ってくれるかな」

たしか、昨日の涼子と蘭子さんとの話し合いでは、赤の女の正体を暴いた場合、報酬は十万円ということになっていたはずだ。

「大丈夫ですわ、お姉さま」

涼子は、ごくほがらかに言った。

「和人くんは、そういうごまかしはしない人ですもの。もし涼子の考えが当たっていたら、素直に認めるはずです。勝負は、お姉さまの勝ちですわ」

「私が謎を解いたわけじゃない」

「涼子はお姉さまのものなんですから、同じことです」

「まあ、今回は別になにも賭けてなかったから、どっちでもいいけど」

「そして、和人くんが認めたら、たしかに赤の女の正体が明らかになったわけですから、蘭子先輩は必ずお金を払ってくださいます。蘭子先輩は、そういうことには、とってもきっちりした人ですから」

17

翌日以降、全ては涼子の言った通りになった。涼子は、報酬十万円の半分を受け取るよう、真琴さんに無理強いした。

真琴さんは、三月までその五万円を大切にとっておくことにした。三月六日は涼子の誕生日。そのとき、この五万円でなにかプレゼントでも買ってやろうと思っている。

◆おまけ 一言後書き◆
久しぶりに「どえむ探偵秋月涼子」の登場と相成りました。次回もこのシリーズで行こうと思っています。ホームズもののパロディのような話を作れないかと、いろいろ思案しているところです。

2021年1月18日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2021/01/26)

【「2020年」が明らかにしたものとは何か】松田青子『持続可能な魂の利用』/わたしたちのリアルな「実体」は透明になっていく
【「2020年」が明らかにしたものとは何か】ミン・ジン・リー 著、池田真紀子 訳『パチンコ 上・下』/パチンコ店を経営する在日コリアの年代記