【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第41話 論争の終わりと始まり――どえむ探偵秋月涼子の熟思

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第41回目は「論争の終わりと始まり」。「訳文が誤訳かどうかは原文と照らし合わせないと断定できない」と主張する「どえむ探偵涼子」。しかし、Sのお姉さま・真琴さんは「原文を見なくても誤訳かどうか判断できる」というが、論争は予想外の方向へシフトしてしまい……?

涼子が突然、「ああ、もうっ」と怒ったような声を出したので、真琴さんは少しびっくりして視線を上げた。涼子は椅子に腰かけて、スマホの画面を覗いている。

それは、あと数日で後期授業が始まるという、九月の初旬のことだった。真琴さんはそのとき、自分のベッドに長々と寝転がって本を読んでいた。エドワード・ホックの『サム・ホーソーンの事件簿Ⅱ』(創元推理文庫)である。「Ⅰ」と「Ⅲ」は高校時代に手に入れて読了していたのだが、間の「Ⅱ」がなかなか見つからず、読みたい読みたいと思っていたところ、数日前に古本屋でようやく手に入れたのだ。(真琴さんは経済的事情から、推理小説はできる限り古本屋で購入することにしている。)

真琴さんは電子書籍も利用するが、どちらかというと紙の本が好きである。子どものころから実家に大量の紙の本があり、それを読みながら育ってきたせいもあるだろう。さらにもう一つの理由として、あと五十年も経ったら紙の本は世の中から消えてしまい、そのせいで高騰してお宝になるのではないかという、あまり当てにはならない予感もある。今のうちに紙の本を集めておけば、一種の投資になるのではないか――半ば本気で、そんなことを考えているのだ。

そんな真琴さんに影響を受けて、電子書籍派だった涼子も、紙の本を集め始めたらしい。既にドイルやクリスティーの文庫本を揃えてしまったとのこと。もちろん真琴さんとは違って、涼子には経済的余裕がたっぷりあるので、古本屋巡りをしたわけではない。新品の本を一括購入したのである。

その涼子が、理由はわからないが、突然の怒りの発作に襲われているようだ。

「どうしたの?」

真琴さんは読んでいた本をベッドの上に伏せると、半身を起こした。

「なにか気に入らないことでもあった?」

「お姉さま、ごめんなさい」

涼子はスマホから目を上げると、真琴さんのほうを見て――

「世の中の人が、あまりにも翻訳の苦労をわかっていないものですから、涼子、つい腹が立ってしまって」

「翻訳の苦労?」

「そうなんです。今、読書レビューのサイトを見ているんですけど……ほら、『濃夢』に原稿を出さなければいけませんでしょう? 涼子、クリスティーの作品を素材にして、評論のようなものを書こうと思っていますの」

『濃夢』というのは、二人がそろって所属しているミステリー研究会(略してミス研)の部誌の名である。

「それで?」

「それで涼子、クリスティーの作品はほとんど読んでいるんですけれど、もう一度何冊か読み直してみようかと思って、調べていたんですの。そうしたら、とってもひどいレビューがあったんです。ほら、お姉さま。これなんですけど……」

持っているスマホを手渡そうとする。真琴さんは、それを片手で遮って――

「涼子が読んでみて」

真琴さんは、涼子の声を聞くのが好きなのだ。この小柄な美少女は、音程の高い、まろやかな、響きのある声を持っている。

「あの……少し恥ずかしい気もしますけれど、お姉さまがお望みなら……」

「お望みだよ」と、真琴さんは答えた。

新宮真琴さんは、十九歳。聖風学園文化大学文学部国文科の二年生。言葉遣いが少々乱暴なのは、育ちがあまりよくないせいもあるが、それだけが原因ではない。真琴さんを「お姉さま」と呼んで慕ってくれる可愛い後輩――というだけではなく、バイセクシャルを自認する真琴さんの、今のところ唯一の性的パートナーでもある――秋月涼子が、それを喜ぶからでもある。

涼子自身の言葉遣いは、真琴さんとは対照的にひどく丁寧だ。そもそも二人が通う聖風学園は学費の高い大学で、学生にはお金持ちの子女が多い。そのせいなのかどうか――この学園は幼稚園から大学まで一通り揃っているのだが、全体として学力よりもお行儀を重視する傾向が強いようなのだ。涼子は小学校からずっとこの聖風学園に通ってきたので、学園の推奨するお嬢様言葉がすっかり身についている。いっぽう真琴さんのほうはといえば、学費全額免除の特待生としてこの大学に入学してきた、いわばよそ者。二年生になっても、聖風学園の学風にはどこか馴染めないものを感じている。そんな真琴さんの異端児ぶりが、涼子にはまた、ひどく新鮮に、そして魅力的に映るらしい。

「ほら。早く読みなさい」

「はい」と、涼子は再びスマホに視線を戻した。

「まず、こんなことが書いてありますの。……話自体はおもしろい。トリックも秀逸。しかし、翻訳がひどい。明らかに日本語として不自然なところが散見される。誤訳も相当にあるのではないか」

「まあ、気持ちはわからないでもない。私も、外国の小説を読んでいて、ときどき変な日本語だなあって、思うことがあるよ」

「ええ。でも、翻訳って、とっても難しい作業なんです。涼子、これでも英文科ですから、翻訳の大変さっていうものが、少しは身に沁みていますの。日本語として不自然だから誤訳にちがいないって決めつけるのは、翻訳の苦労をあまりにも軽視した発言だと思います。むしろ、誤訳をしないように注意すればするほど、日本語として不自然になるってこともありましてよ」

「うん。それもわかる。高校のときの私の英語のノート……ほら、教科書の訳を書いたノートね。あれなんて、すごく変な日本語になってたもの」

「でしょう?」

「でも、そのレビューを書いた人も、誤訳だと断言してはいないんじゃないか。たしか、誤訳も相当にあるのではないかって……」

「ところが、あとのほうでは、すっかり決めつけていますの。結びのところを読んでみますね。……こんな誤訳だらけの本を上梓するというのは、出版社としての見識に関わる行為だと断ぜざるを得ない。私は今後、この出版社の本、この訳者の本に金を出す気にはなれない。……ね? いつのまにか、すっかり誤訳だと決めつけていますわ。このレビューを書いた人って、相当に思い込みの強い人だと思います」

「うん、だいぶ論調が変わってきてるね。書いているうちに、自分でだんだん興奮してきたのかも。たしかに思い込みが強そうだ」

「ええ。涼子、思い込みには注意しなくてはいけないって、自分でもいつも気をつけていますの。探偵たるもの、あらゆる可能性を考える必要がありますもの」

「探偵ねえ」

そうなのだ。涼子は大学を卒業したら、自分で探偵事務所を開くと宣言している。ミス研に入部したのも、そのための修業の一環だというのだ。しかも、涼子の目指しているのは、ただの探偵ではない。

「お姉さまもご存じのように、涼子、Mなんです。それも、ドがつくドMですわ。ですから、涼子が探偵になったら、いわば世界初のドM探偵ということになると思いますの。ああ、涼子、とっても有名になってしまうかも。だって、なんといっても世界初ですもの」

そんなことを言ったりするのだ。バカなのか? バカなのだろう。

「そうです。探偵にとって、思い込みって大敵だと思います。人間って、いったん思い込んでしまうと、ほかの可能性に目が届かなくなりますもの。ジュクシができなくなるっていいますか……」

「ジュクシ? ジュクシって、なに? どういう字を書くんだ?」

「熟読の熟に、思考力の思ですわ。それで、熟思です」

「熟思ねえ。あんまり聞かない言葉だな。ふつう熟慮とか、熟考って言わないか」

「ええ。実は……」

涼子は、恥ずかしそうに少しもじもじした。

「涼子も、つい最近知ったばかりの言葉なんですの。英和辞典を引いてたら、ひょっと出てきて。それで、せっかく覚えたものですから、使ってみたくなったんです」

「あら、可愛い」

そう言いながら、真琴さんは電子辞書を引っ張り出して調べてみた。たしかに「熟思」という言葉が載っていた。

「ジュクシって、ちょっと官能的な響きがあるな。熟した柿のことも、ジュクシっていうだろ?」

「熟した柿が、どうして官能的なんですの?」

「だって、ほら、こんな感じ……熟した柿が自然と地におちるように、とうとう彼女もおちてしまったのだ……なんて、官能小説にでもありそうじゃないか」

「なるほど。その二番目の『おちてしまった』は、漢字をあてると『堕落』の『堕』ですね。お姉さま、さすがです。でも、涼子が今言っているジュクシは、柿の話ではなくって……」

「わかってる。探偵業務には思い込みは禁物、熟思が必要だってことね。それで、翻訳の話はどうなった?」

「そうでした」と、涼子は再びスマホの画面に目を向けた。

「このレビューを書いた人って、文面から察する限り、原文と照らし合わせたうえで誤訳だと判断したわけではなさそうです。なぜって、日本語として不自然ということしか、論拠として挙げていませんもの。涼子、それって、とってもうかつなことだと思いますの。いいえ、うかつなだけじゃありません。不遜、暴挙といってもいいと思います」

涼子はまっすぐに真琴さんの顔を見つめた。真琴さんは、その涼子の顔を、ほれぼれするような気持ちで見つめ返した。自分の美貌にかなり大きな自負心を抱く真琴さんだが、涼子の特別な可憐さにはとてもかなわない――と、いつもそう思っている。

「それで?」

「ここに、ある一つの翻訳された文があるとしますね。それが誤訳かどうかは、原文と照らし合わせて調べてみない限り、絶対に断言することなんてできない。涼子、そう思います。それなのに、この人ったら……」

「なるほどね」と、真琴さんは答えた。その途端、一つの考えが――というより、考えの影のようなものが、ちらりと脳裏をよぎった。そのことを敏感に察知したのかどうか――涼子はふいに、首をかしげて見せた。

「あら?」と、涼子。

「ん? どうした?」

「あらあらあら?」

「だから、どうした?」

「お姉さま? 今なにか、新しいSMのアイデアでも?」

「SM? どうして急にSMの話になるんだ?」

「だって、お姉さまの口元、今とっても意地悪そうな感じになったんですもの」

涼子がドMを自称しているのに対して、真琴さんにはかなり強いS的傾向がある。それは自他ともに認めるところで、この五月あたりから「ミス研の女王」というあだ名で呼ばれるようになったくらいだ。

だから、既に何度か性的な交渉を重ねた真琴さんと涼子が、SM遊びに興味を持ちだしたのも、特に驚くようなことではない。実際、数日前には、裸にした涼子の手首をタオルで縛ってみたりもしたのである。

「ああっ。涼子、とってもドキドキしてきました。お姉さま、どんなSMをなさるおつもりですの?」

「別に、SMのことなんて考えてないよ。それより話を元にもどしてくれないか。私はただ、涼子の今しゃべっていたことが、少し怪しいなって思っただけなんだから」

「涼子の話していたことって?」

「だからさ、今言っていた翻訳の話。訳文に誤訳があるかどうかは、原文に照らし合わせてみない限り断言できないっていう……それ、私は少し怪しいと思うんだ。涼子は思い込みはいけないって言うけどさ、その涼子自身が一つの思い込みに囚われているんじゃないかって」

さっきちらりと頭の中をよぎった影が、だんだんとはっきりした形を現してきた。

「ということは、お姉さま? お姉さまは原文も見ずに、これは誤訳だよって判定できる……そうおっしゃいますの?」

「うん」と、真琴さんはうなずいた。

「もちろん、ある特殊なケースに限っての話だけどね」

「どうでしょう?」と、涼子は疑わしげだ。

「失礼ですけど、お姉さま、なにか勘違いなさっていらっしゃるんじゃありません? 原文も見ないで誤訳が指摘できるなんて、涼子にはとても考えられません。具体的にどんなケースを想定なさっていますの? それに、特殊なケースっていうことになると、涼子にはむしろ『誤訳とはいえない』っていうケースのほうが思い浮かびます」

「まあ、涼子。ちょっと待って」

真琴さんは、話し続けようとする涼子を軽く制して、ベッドから立ち上がった。そして、机の引き出しからレポート用紙を取り出すと、しばらく考えこんだあと、こんな一文を書いた。

「訳文の中に誤訳が存在すると正しく断言することは、原文と照らし合わせない限り不可能である。」

そのレポート用紙を涼子に手渡すと――

「どう? 涼子の主張は、その文のとおりということでいいかな?」

「ええ。でも……」

「でも?」

「なんだかトリックの匂いがします。だって、この文を書くときのお姉さまの横顔、やっぱりとっても意地悪そうだったんですもの。もちろん、その意地悪そうなお顔に、涼子、とっても惹かれてしまうんですけれど……」

涼子の声が、だんだん芝居じみたものに変わっていく。

「ああっ。やっぱり、これ、SMなんですわ。お姉さまは、涼子をなにかの罠にかけるおつもりなんですね。そして、そして……哀れな涼子は、お姉さまの毒牙にかかって、身も心も縛られてしまうんですのね」

「SMの話はしばらく横に置いて、もっとちゃんと、その文を見なさい。それが涼子の主張ってことでいいの? それとも、どこか書き換えてほしいところがある?」

「ええ、まあ……」

涼子は、また手に持ったレポート用紙に視線を落とした。

「たしかに涼子の考えは、このとおりですけれど」

「じゃあ、これを、ほら……ここに貼っておくね」

真琴さんは、涼子からレポート用紙を取り上げると、壁にかかっている掲示ボードにピンで貼りつけた。

「私があとでこっそり書き換えたなんて言われるのはいやだから、スマホで写真も撮っておきなさい」

命じられたとおり写真を撮り終えると、涼子は言った。

「それで、お姉さまは、この主張が間違いだとおっしゃいますのね。でも、涼子にはどうしても理解できませんわ。原文も見ないで、誤訳かどうかがわかるなんて……いったいどんな特殊なケースがあるんでしょう。もっと具体的におっしゃってはいただけませんの?」

「その具体的ってことだけどさ……これが証拠だよっていう、それこそ具体的な訳文があれば、話がはっきりするよね。それで、私は、涼子の主張を粉砕する証拠を見せることができると思うんだ。ただ、今は手元にないの。二、三日、待ってくれる? そうしたら、証拠の品、つまり……『原文と照らし合わせることなく誤訳の存在を指摘できる訳文』って奴を、用意できると思うから」

「本当でしょうか」と、涼子はまた疑わし気な顔つきになった。

「本当だよ。そして、私が涼子の主張を覆したら、そのときこそ、本当にSMにつながるんだよ。なんだっけ……さっき涼子の言ってた……そう、熟思。熟思が足りなかったっていうことで、涼子に厳しい罰をあげるっていうのは、どう?」

「罰!」

涼子は、うっとりとした表情になった。

「お姉さまからいただく罰。とっても甘美な予感がします。でも、どんな罰ですの? 涼子としては、今度はスパンキングに挑戦してみたいって思っているんですけど」

「涼子の好きな罰にしてあげる」

「ありがとうございます。あっ、でも……でも……」

「どうした?」

「その罰は、お姉さまが涼子の主張の間違いを指摘できたらっていうお話でしょう? でも、そんなこと、起こりそうもありません。さっきも申し上げましたけど、お姉さまはなにか勘違いをなさっているんじゃないでしょうか。結局は、涼子が正しかったっていうことになると思いますの。そのときは、罰はいただけないんでしょうか」

「なんだか生意気。私は、勘違いなんかしてないよ。でも、涼子がそんなに罰が欲しいのなら、こうしたら? 私が勝った場合は、涼子の熟思が足りなかったということで、罰をあげる。反対に涼子が勝った場合は、Mの分際でSの私に勝ったのは生意気だから、やっぱり罰。どう? これなら、どっちにしたってSMということになるじゃないか」

「どっちにしたってSM。名言ですわ、お姉さま」

なにが名言なのかわからないが、涼子が満足したようなので、真琴さんも同じように満足した。

その夜、涼子をクルマでマンションの部屋に送ってやったあと、真琴さんはそのまま実家へと向かった。さっき話に出た「証拠の品」なるものは、実家の本棚の中に収まっているはずなのだ。

二日後の日曜の夜。涼子はまた、真琴さんのアパートに遊びにきた。

「これ。おぼえてる?」

真琴さんは、壁の掲示ボードを指さした。そこには「訳文の中に誤訳が存在すると正しく断言することは、原文と照らし合わせない限り不可能である。」という一文が書かれた、例のレポート用紙が貼ってある。

「もちろんです、お姉さま。それで、証拠の訳文っていうのは、ご用意できましたの?」

「できたよ。はい、これ」と、真琴さんは本棚から一冊の本を取り出し、涼子に手渡した。それは、ハヤカワ文庫の『スタイルズ荘の怪事件』だった。訳者は田村隆一である。

「あっ、クリスティーですね」

「父親のだよ。実家から持ってきたんだ」

涼子は、奥付を眺めている。奥付には「一九八二年六月三十日 発行/一九九〇年一月十五日 十五刷」とある。

「ずいぶん古い本ですのねえ」

「うん。今のハヤカワから出ているのは、訳者が変わっているらしいね。矢沢聖子っていう人の訳らしいよ。でも、私はその古いほうで読んだんだ。田村隆一の訳。『スタイルズ荘の怪事件』は、涼子も読んでいるよね。誰の翻訳で読んだ?」

「さあ……高校二年生のときにハヤカワの新品で買って読んだので、たぶん新しい翻訳者のかた……その矢沢聖子さんの訳で読んだんだと思いますけど……それで、お姉さま? この田村隆一さんの訳に誤訳があるっていうお話ですの?」

「まあ、そう慌てないで。話は順々に進めていこう。まず、その付箋の付いているページを開けてみて。そうしたら、私が枠で囲んでいる箇所があるから、そこを読んでごらん」

「はい、お姉さま」

涼子は、指定された箇所を読みあげた。相変わらずやわらかな、いい声だ。

「哀れなポアロはもうろくしかけているという考えが、またもや私の心に浮かんできた。私としては、彼がもっと感受性の強いタイプの人間を相棒に持たなかったのは、幸い至極だったと思った。」(「早川書房 アガサ・クリスティー 田村隆一訳『スタイルズ荘の怪事件』」より)

「どう?」

「記憶がよみがえってきます。ヘイスティングズがポアロの言葉の意味を理解できずに、かえってポアロを軽蔑している場面ですわ」

「そうそう。でも、なんとなく意味が取りにくいって思わない?」

「たしかに、少し変な感じがします。『彼がもっと感受性の強いタイプの人間を相棒に持たなかったのは、幸い至極だった』って、どういうことでしょう? 相棒っていうのは、ヘイスティングズ自身のことですね。これだと、ヘイスティングズは、自分はあまり感受性が強くないが、それはポアロにとってよいことだって言っているわけですけど……」

それから、また少し考えこんで――

「ああ、本当にちょっと変です。ポアロがもうろくしかけているというのなら、ヘイスティングズは、自分がポアロの代わりにがんばらなければいけないって思うはず。それに、この作品の前半では、だいたいにおいてヘイスティングズは、自信過剰の人物として描かれていたはずですから……これは、意味が反対のほうがすっきりしそうですわねえ。つまり、ポアロの相棒である私、ヘイスティングズは、感受性の強い人物だ。そして、私のような感受性の強いタイプの人間が相棒であったのは、ポアロにとって幸いなことだった。なぜなら、この私が、衰えたポアロに代わって事件解決のために働けるからだ。これだと、意味が通ります。でも、だとしたら……『感受性の強いタイプの人間を相棒に持たなかったのは、幸い至極だった』ではなく、『感受性の強いタイプの人間を相棒に持ったのは、幸い至極だった』になるはずですわ」

「そうだろう? 私も最初は、そう思ったんだ」

「でも、お姉さま? だからといって、これが誤訳だとは断言できませんわ。きちんと原文と照らし合わせてみない限りは……。だって、そもそも、今の私たちの解釈が間違っているのかもしれませんし……」

「待って、涼子。べつに私は、その訳文が誤訳にちがいないとは言ってないよ。話はゆっくり進めていこう」

「そうなんですの?」

「それに、涼子は今、私たちの解釈って言ったけど、それも正確ではないんだ。たしかに私も最初は、涼子と同じように解釈して、変だなって思ったよ。でも、別の解釈をすれば、その訳文は変でもなんでもないってことになる。そのことに気づいたんだ」

「別の解釈って?」

「つまり、こういうこと。『彼がもっと感受性の強いタイプの人間を相棒に持たなかったのは、幸い至極だったと思った。』っていうのは、涼子の言ったとおり、ポアロの相棒である私、ヘイスティングズは、感受性が強くない人間であり、そんな感受性の強くない私がポアロの相棒であったのは、よいことだ……そう言っているわけだよね。一見、これは変な言い方のように見える。でも、こんなふうに考えたら、ちゃんとわかるんだよ。この直前に、ポアロがもうろくしかけているっていう意味の文があっただろう? それと関係するんだけど……こういうことだね。ポアロはもうろくしかけている。だから、もし感受性の強すぎるタイプの相棒なら、そんなポアロのもうろくぶりに、きっと腹を立てて、彼を見捨ててしまうだろう。しかし、この私、ヘイスティングズは、それほど感受性の強いタイプの人間ではない。だから、もうろくしたポアロに腹を立てて見捨てるようなことはしない。そして、私に見捨てられないってことは、ポアロにとって幸いなことなのだ。……どう? これが、『彼がもっと感受性の強いタイプの人間を相棒に持たなかったのは、幸い至極だったと思った。』っていう一文の意味だと考えたら?」

「さすがです、お姉さま。そんなふうに解釈したら、すっきり意味が通ります。やっぱりお姉さまって、とっても頭のいいかた! 涼子、ますますお姉さまが好きになってしまいます。でも……」

涼子は不思議そうに、真琴さんの顔を見た。

「それでしたら、誤訳でもなんでもないってことになるじゃありませんか。誤訳の話は、どこにいってしまいましたの?」

「じゃあ、次はこれを見てごらん」と、真琴さんは、用意していたもう一冊の本を差し出した。

10

「あら、これもスタイルズ……こちらは創元推理文庫ですね」

涼子の言ったとおり、二冊目の本は、創元推理文庫の『スタイルズの怪事件』、訳者は田中西二郎である。こちらはさらに古く、奥付には「1976年1月23日 初版/1980年3月7日 13刷」とある。これも実家から持ってきたもの。真琴さんの実家には、こんなふうに、同じ作品だが訳者が異なるといった本のセットが、何組も置いてある。別に翻訳の研究をするためではない。父親と母親がどちらもなかなかの読書家で、双方が独身時代に別々に収集した本が一か所に集められた結果、そうした状況が現出してしまったというわけ。(もちろん二人とも、自分の本は棄てたがらないのである。)

「さっきと同じように、付箋のあるページを開いて、読んでみて」

「こちらだと、『ポアロ』ではなく『ポワロ』になっていますのね」

涼子は再び、命令にしたがって可愛らしい声で朗読した。

「これはぼくの心をいま初めてかすめた考えではないのだが、気の毒に、さすがのポワロも老いこんで来たのだと思った。そして、彼が自分よりも受容力の強いタイプの頭脳を持った人間を協力者に持ったことは幸運だった、とひそかにぼくは考えたのだった。」(「東京創元社 アガサ・クリスチィ 田中西二郎訳『スタイルズの怪事件』」より)

「どう? こっちのは、話が逆になっているだろ? つまり、ヘイスティングズは受容力が強い。そんな受容力の強い自分を相棒に持ったことは、ポアロにとって幸運だったって書いてある。ということは、こっちでは、さっきの涼子の解釈が成り立つわけだね。ポアロが自分のような受容力の強いタイプの人間を相棒に持ったのは、幸いだった、なぜなら、この受容力の強いヘイスティングズが、もうろくしかけたポアロを助けてやることができるからだっていう、あの解釈ね」

「本当に、そうですわ。そして、涼子、やっぱりその解釈のほうが、すんなり頭に入る感じがします」

「ということは……どういうことになるかな? もう涼子にもわかったんじゃない? もちろん、この田中西二郎の訳も、単独で見る限り誤訳と指摘できるところはどこにもない。ちゃんと意味が通る……それどころか、涼子が今言ったとおり、こちらのほうがより腑に落ちるくらいだ。いっぽう田村隆一の訳のほうだって、さっき私の言ったように解釈すれば、ちゃんと意味が通る。誤訳と断定することはできない。でも、この二つをいっしょに見たら、ある意味で正反対のことが書いてあるわけだ。ということは、どちらかが誤訳であると断言できる。つまり……」

「お姉さまのおっしゃりたいこと、涼子にもよくわかります」

「もっとよくわかるように、こんなものも用意したよ」

そう言うと、真琴さんは机の引き出しから一枚のレポート用紙を取り出した。

「ここに腰かけて、よく読んでごらん」

真琴さんは、涼子をベッドに誘うと、自分もその隣に腰かけた。そして、手に持っていたレポート用紙を涼子に手渡した。そこには、こんなことが書かれていた。

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論点整理

次の命題は正しいか?

「訳文の中に誤訳が存在すると正しく断言することは、原文と照らし合わせない限り不可能である。」

1 ハヤカワ文庫『スタイルズ荘の怪事件』
「哀れなポアロはもうろくしかけているという考えが、またもや私の心に浮かんできた。私としては、彼がもっと感受性の強いタイプの人間を相棒に持たなかったのは、幸い至極だったと思った。」(田村隆一 訳)

解釈A 相棒のヘイスティングズが感受性の強くない人物であったことは、ポアロにとって幸いだった。なぜなら、感受性の強くないヘイスティングズは、ポアロのもうろくぶりに腹を立てたりしないからである。

2 創元推理文庫『スタイルズの怪事件』
「これはぼくの心をいま初めてかすめた考えではないのだが、気の毒に、さすがのポワロも老いこんで来たのだと思った。そして、彼が自分よりも受容力の強いタイプの頭脳を持った人間を協力者に持ったことは幸運だった、とひそかにぼくは考えたのだった。」(田中西二郎 訳)

解釈B 相棒のヘイスティングズが受容力の強い人物であったことは、ポアロにとって幸いだった。なぜなら、受容力の強いヘイスティングズが事件解決のために働き、ポアロを助けてやることができるからである。

・この二つの訳文は、どちらも1920年に出版されたクリスティーの「THE MYSTERIOUS AFFAIR AT STYLES」を底本としている。したがって、原書の版が異なるために原文も異なり、それゆえ訳文も異なっている、という説は成り立たない。

・田村隆一は「感受性」、田中西二郎は「受容力」と訳しているが、以下ではこれを「感受性=受容力」という語で表すことにする。

・田村隆一が「『感受性=受容力』の強いタイプの人間を相棒に持たなかった」と訳した部分を、田中西二郎は「『感受性=受容力』の強いタイプの頭脳を持った人間を協力者に持った」と訳していることになるが、「持たなかった」と「持った」では正反対であり、相互に矛盾している。

・田村隆一の訳では解釈A(ヘイスティングズは「感受性=受容力」が強くないという説)が、田中西二郎の訳では解釈B(ヘイスティングズは「感受性=受容力」が強いという説)が成り立つ。

・解釈A、解釈B、それぞれ単独でなら意味が通る。しかし、クリスティーは、どちらか一方の解釈のもとに原文を書いたはずであり、相互に矛盾するA・B双方が共に正しい解釈だということはあり得ない。したがって、1と2のどちらかに誤訳があると(原文を参照しなくても)断言できる。

・なお、ありそうにないことだが、クリスティーが解釈Aと解釈Bのどちらとも異なる意図で原文を書いたということも、可能性としては排除できない。しかし、その場合は、田村隆一と田中西二郎の二人が共に誤訳をしたということになる。

・したがって、あらゆる可能性を「熟思」しても、1と2の訳文のどちらか、あるいは双方に誤訳が存在することは確実である、と断言することが可能である。

・以上から、問題の「訳文の中に誤訳が存在すると正しく断言することは、原文と照らし合わせない限り不可能である。」という命題は正しくない。既に論証したとおり、原文を参照しなくても誤訳の存在を正しく指摘することが可能だからである。

・なお、全体として見た場合、田村隆一訳、田中西二郎訳の双方に、それぞれの魅力があると感じた。私見を述べれば、田村隆一訳は自然描写に優れ、田中西二郎訳は会話や説明部分の表現の簡潔さにおいて優れている。

12

涼子は、しばらくその紙に視線を落としていたが、やがてぽつりと言った。

「お姉さま、やっぱりあのとき、トリックをお使いになったんですのね」

「トリック? なんのこと?」

「この命題の文ですわ。『訳文の中に誤訳が存在すると正しく断言する……』って、ありますでしょう? これが、もし『ある一つの訳文の中に……』でしたら、お姉さまのこのやり方は使えなかったはずです。だって、お姉さまの主張は、『この訳文は誤訳である』というのではなくって、『この訳文と、もう一つの訳文のどちらか、あるいは双方に誤訳がある』っていうことですもの。ということは、あの時点で既に、お姉さまは二つの訳文を比較する手法を考えていらっしゃった。そういうことですわね? そして、その手法に対して、涼子が文句を言えないように、『ある一つの訳文の中に……』といった具合には書かずに、単に『訳文の中に……』とお書きになったんでしょう?」

「ああ、あのときね。たしかに、『一つの』とか『一文』って書いちゃうとまずいな、とは思ってたよ。そもそも私は、このどっちかが誤訳にちがいないって、高校時代に気づいていたんだ。どちらが誤訳なのかは、わからなかったけど」

「二つの訳文を用意するっていう発想、涼子にはありませんでした。その意味では、涼子、たしかに熟思が足りなかったって認めます。涼子、まだまだ探偵修業が足りませんわ」

「だろ?」

「それに、この論点整理ですか? お姉さまのお書きになった、このメモ。とってもわかりやすく書かれていて、お姉さまの頭脳の優秀さが、すごくよく伝わってきます。それに、このあいだ涼子の使った「熟思」っていう言葉をわざわざ入れてくださって。涼子、ますますお姉さまの虜になってしまいますわ。涼子、お姉さまのMとして、とっても誇らしい……」

なにか変だ。おかしい。

真琴さんをさかんに褒め称えてはいるものの、涼子の顔にはちっとも悔しそうな表情――残念、負けた、といった感情の影が見えないのだ。それどころか、どことなく真琴さんのことを気の毒だと思っているような節さえ感じられる。

13

「お世辞はいいから」と、真琴さんは涼子の声を遮った。

「どう思うの? 涼子の主張が間違っていたってことは、認めるんだよね?」

「それが、その……あの……」

涼子は、ますます気の毒そうな表情になった。

「どうした?」

「すごく言いにくいことなんですけど、間違っているのはお姉さまのほうではないかって、涼子、やっぱりそう思いますの」

「間違ってる? 私が?」

「ごめんなさい、お姉さま。涼子、降参ですって、お姉さまに申し上げられたら、どんなにいいか……そして、お姉さまに優しく叱られて、Mの喜びを存分に味わえたらどんなにいいかって、心からそう思っていますのよ。でも、でも……自分に嘘はつけません。それに、わざと負けたふりをするなんて、お姉さまのプライドをかえって傷つけてしまうと思いますし……」

「もちろん、わざと負けてほしくなんかないけど。子どもじゃないんだし。でも、わからないなあ。私の理屈のどこが間違ってるんだ? 二種類の訳文があって、それが相互に矛盾していたら、どちらかが誤訳である。これには反論の余地がなさそうだけど……」

「あの……別に涼子のほうが、お姉さまより賢いって……そんなことじゃありませんのよ。ただ、涼子は英文科なので、翻訳というものに少しだけ慣れていますでしょう? それで自然とわかってくることがあるんですの。お姉さまの理性的な判断力には、涼子いつも感心していますけど、これは経験の問題で……」

「回りくどいなあ。もっとはっきり言いなさい」

14

涼子は、思いがけず落ち着いた口調で話し出した。

「もちろん、今の二つの訳文のどちらかが誤訳である可能性は、否定できません。単に可能性としての話でしたら、どちらかに誤訳が存在する可能性のほうが高いって、涼子もそう思います。でも、実はどちらも誤訳でないっていう可能性も、ほんの少しですけど、あると思うんですの」

「そんな可能性なんて、ありそうもないけど」

「お姉さま、この本をご覧になって。実は、翻訳の大変さをわかっていただこうと思って、涼子も用意してきましたの」

そう言うと、涼子はバッグの中から一冊の文庫本を取り出した。偶然にも、それもまたクリスティーの作品だった。ハヤカワ文庫の『運命の裏木戸』。訳者は中村能三。

「これって、クリスティーが最晩年に書いた長編なんですの。この本の最後にある『訳者あとがき』を読まれたら、お姉さまにも、きっとその可能性が見えてくると思います」

「涼子が読みなさい」

「わかりました」と、涼子はページを開いた。例の耳に快い声が部屋に響く。

「この作品を訳出するに当り、プロットには関係のない細部ではありますが、いささか前後矛盾するところがあるのに気づきました。登場人物のほとんどが、八十歳、あるいは九十歳を越えた人物なので、クリスティー女史はそれらの人物の老人性健忘症を、意図的に描写したのではないかという一抹の疑いはありますが、翻訳という作業を通して読者にお届けする場合、訳者の立場は微妙にならざるを得ませんでした。」(「早川書房 アガサ・クリスティー 中村能三訳『運命の裏木戸』訳者あとがき」より)

そこまで読んで、涼子はほっと息をついた。

「翻訳の苦労がしみじみと伝わる、いい文章ですわ」

「でも、それがこの話にどう関係するんだ?」

「あっ。まだ続きがありますの」

「じゃあ、早く読んで」

「はい」と、また素直に返事をして――

「まさに清水の舞台から飛びおりるほどの決意をもって、二、三の最も明瞭と思われる箇所を、訳者の恣意によって訂正させていただきました。クリスティー女史を敬愛し崇拝する訳者としては、この不遜僭越さを女史と読者の前に、地に伏して詫び、ご諒解を得たいと願うのみです。」(「早川書房 アガサ・クリスティー 中村能三訳『運命の裏木戸』訳者あとがき」より)

涼子はそこで本から視線を上げた。そして、真琴さんの顔を仰ぎ見て言った。

「これで、お姉さまもおわかりになったと思います」

「なんとなく……いや、でもまだ、よくわからないな。それが具体的に、さっきの話とどう絡んでくるの?」

「もちろん可能性があるっていうだけのお話ですけど……たとえば、クリスティーは、さっきの『論点整理』にあった解釈Bのつもりで原文を書いたと仮定しますね。つまり……感受性、あるいは受容性の強いヘイスティングズが協力者でいることは、ポアロにとって幸いだった、なぜならヘイスティングズが、衰えかけたポアロを手助けすることができるからだっていう、あの解釈です」

「うん。だとしたら、田中西二郎の翻訳が正しくて、田村隆一は誤訳したってことになる」

「ところが、クリスティーがついうっかり、一部を書き誤ったとしたらどうでしょう? つまり、日本語で言えば……原文と照らし合わせないという条件がある以上、日本語だけでお話をせざるを得ないんですけれど……『彼が自分よりも受容力の強いタイプの頭脳を持った人間を協力者に持ったことは幸運だった』と書くべきところを、『彼が自分よりも受容力の強いタイプの頭脳を持った人間を協力者に持たなかったことは幸運だった』と、まあ、そういう意味の間違った英文を、クリスティーが書いてしまったとしたら?」

「うん。それで?」

「それで――クリスティーが間違って書いたその英文を直訳すると、田村隆一さんの『彼がもっと感受性の強いタイプの人間を相棒に持たなかったのは、幸い至極だった』のような訳文ができます。もちろん、こうなると解釈Bは成り立たないので、お姉さまのように、解釈Aのほうで考えるほかはなくなりますね。ところが、田中西二郎さんのほうは、どうもこの原文はおかしいぞ? ひょっとしたらクリスティーは書き間違っているのかもしれない……と、そう考えたとします。そして、さっきの『運命の裏木戸』の『訳者あとがき』にあったように、『まさに清水の舞台から飛びおりるほどの決意』をもって、『訳者の恣意によって訂正』した。その結果、『彼が自分よりも受容力の強いタイプの頭脳を持った人間を協力者に持ったことは幸運だった』という訳ができたわけです。これは、意訳とはいえるでしょうけれど、誤訳とはいえません。誤ったのではなくて、意図的に修正したわけですから」

「なるほど」と、真琴さん。

「すると、こういうことになりますわ。田村隆一さんの訳は、ほぼ直訳ですから、当然、誤訳ではありません。かといって、田中西二郎さんの訳のほうも、クリスティーの意図を慮って意図的に修正したのですから、やはり誤訳とはいえません。……もちろん、これはそういう可能性があるというだけのことで、そうにちがいないとは断言できないことです。真相は、お姉さまのおっしゃるとおり、どちらかが誤訳をしたということかもしれません。でも、それを本当に確かめるには、原文を参照する必要がありますわ。ですから、『訳文の中に誤訳が存在すると正しく断言することは、原文と照らし合わせない限り不可能である。』という命題は、やっぱり間違いではないって思いますの」

「なるほど」と、真琴さんはもう一度言った。

「じゃあ結局、熟思が足りなかった――思い込みに囚われていたのは、私のほうだったってわけか」

15

「あの……あの……」

涼子は、手に持っていた本やバッグをそっと床に降ろし、真琴さんのほうに身を寄せてきた。

「お姉さま? 涼子、罰を受けますわ。Mの分際で、Sのお姉さまを論破してしまうなんて、とっても不遜なことをしでかしてしまいました。許してください。ね?」

「論破って言うな。なんか、ムカつく」

「ごめんなさい、お姉さま」

そう言いながら、ますますピタリと身を寄せてくる。真琴さんも気を取り直して――

「それで、涼子は、どんな罰が欲しいの?」

「このあいだは、スパンキングに挑戦しようかって……」

「そうだったね。でも、スパンキングって、どうやるのかな?」

涼子はするすると身を動かすと――そんなときの涼子は、本当に身のこなしがスムーズなのだ――ベッドに腰かけている真琴さんの膝の上に、ほっそりとした腹をのせた。そして、こころもち尻を高く上げるような姿勢をとった。

「こうして、お姉さまの手で叩いていただきたいって、涼子、そう思っていますの」

「うん。それもいいけど……でも……」

「でも?」

「こんなのも、いいとは思わないか? つまりさ、涼子が床に四つん這いになるのね。しかも裸で。そして、ほら、あそこに定規があるだろう?」

真琴さんは、机の上のペン立てに刺さっているアクリル製の定規を指さした。

「私が涼子の後ろに立って、あの定規でお尻を叩きのめすの。そのほうが、刺激的だとは思わない?」

「いけません、いけません」

涼子が顔を上げて叫んだ。

「それは……邪道ですわ」

「邪道? そうかなあ」と、真琴さんは思わずニヤニヤしてしまう。

「まあ、お姉さまったら、またそんな意地悪そうなお顔をなさって。そして涼子、そんなお姉さまに、やっぱりとっても強い魅力を感じてしまいます。でも……でも……」

涼子は、一生懸命になって言葉を継いでいく。さっきの翻訳論争のときよりも、ずっと真剣な表情だ。それがとても可愛い。

「定規を使うなんて、そんなこと、少なくともスパンキングの基本とはいえませんわ。Sのお姉さまの、血の通った、あたたかなてのひら。これがとっても大切な要素だと思いますの。涼子、この点はけっして譲れません!」

それから数年の長きにわたって続くことになったスパンキング論争の、思えばこれが、そもそもの始まりであった。

◆おまけ 一言後書き◆
クリスティーといえばポアロ、マープル、トミーとタペンス……と、シリーズ探偵が幾組も思い浮かびますが、私はその中でも(作品数は多くはありませんが)パーカー・パインに妙に心惹かれます。

2022年2月17日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2022/02/25)

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