『坊っちゃん』(夏目漱石)――理想のSM関係を考える|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第9回>

大好評連載の第9回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み! 今回は『坊ちゃん』に注目。理想のSM関係を読み解きます!

「理想のSM関係」がわからない

理想的なSM関係というものがあるとしたら、それはいったいどんなものだろう――時々、わたしはそんなことを考える。

もちろん、わたしは、これまで何冊かSM小説(と自分で考えるもの)を書いて、読者に売りつけてきた。その都度、その小説に「理想的なSM関係」を反映させようとがんばったわけだが、正直に言うと、いつも小説を書いている途中でわからなくなってしまったのである。

主な登場人物を設定し、だいたいのストーリーを作る。この時点では、「今度こそ(わたしの考える)理想的なSM関係を見事に描き切ってくれよう。」と、意気盛んにはりきっている。だが、原稿用紙で百枚、二百枚と書き進めていくうちに、あんなにはっきりとイメージできていたはずのSM関係は、なんだが妙にぼんやりとしてきて、挙句の果てには、今自分が書いているシーンが、はたして性的な興奮を少しでも呼び起こすものなのかどうか、それすら全くわからないという、情けない仕儀に立ち至るのである。

もしもわたしが……

その「理想的なSM関係がわからなくなる」経緯を、わたしの書いた小説を例にとって説明してもいいのだが、それではなんだか自作の宣伝をしているようで気が引ける。そこで、ここでは小説ではなく、「もしもわたしが実生活でSM的な関係をだれかと取り結ぶとしたら……」という設定で考えることにしてみたい。なお、わたしは自分がひょっとしたら両性愛者ではないかと感じるときもあるのだが、ここでは話を簡単にするために、パートナーになる人物は女性ということにしておきます。

さて、もう何度か書いたことだが、SM関係というからには、「S役」「M役」という二つの役柄の存在が前提とならざるを得ない。わたしはサディスティックな趣味を持つと自任しているので、「S役」をやらせていただくとしよう。すると、パートナーは自動的に「M役」ということになる。

ただし、このパートナーが初めから「わたしをぶって! わたしをいじめて!」などと言いながら迫ってくるというのは、どうにも趣味に合わない。(ただし、これはあくまでわたし個人の趣味。)むしろ最初は、「あなたみたいなつまらない方、あたくし、興味ありませんわ。」というくらいの態度をとってくれたほうがよい。

けれども、出会いを重ね、わたしの「調教」を受けていくうちに、その女性はわたしに精神的にも肉体的にも「支配」され、やがてわたしに「奉仕」することにこの上ない悦びを見出すようになるわけである。(まあ要するにツンデレという奴です。)

「奉仕」するのはどっち?

「そんな都合のいい話があるかっ!」とお怒りの方もおられるだろうが、もちろん、そんな都合のいい話はないのである。(そのことは、はっきりここで言っておきたい。)今はあくまで、「理想的なSM関係」を考える上での、いわば思考実験をやっているわけで、思考実験というからには、もちろん現実では不可能な条件のもとに話を進めているわけです。

ということで、ここまではいい。問題はこれから先である。わたしのパートナーは、今やマゾヒスティックな欲望を抱くに至った。彼女は、わたしに「奉仕」することを願っている。また、その「奉仕」が足りないという理由で、甘美な「罰」を受けることを求めている。「S役」を務めるわたしは、その願いと求めに応じなければならない。

彼女は、わたしの前にひざまずき、上目遣いにわたしを見つめ、わたしに「奉仕」することを願う。わたしはその「奉仕」を受け入れ、誉めたり叱ったりしてやらねばならない。叱られた彼女は、涙ぐんで床に這いつくばり、「罰」をねだる。わたしは、彼女に「罰」を与えるだろう。どんな「罰」が彼女にふさわしいのか。彼女はその「罰」に満足するだろうか。このあいだは、鞭を与えた。今度も同じでは飽きるのではないか。「また鞭?」と、彼女は内心、不満を抱いているかもしれない。そもそも、わたしの鞭の使い方はこれでいいのか?

さて、こうなると「奉仕」しているのは、「M役」である彼女なのか? それとも、「S役」であるわたしなのか?

SM小説を書いていて、「理想のSM関係がわからなくなる」というのも、まさにこの点に関してのことである。もちろん、「わかりませんなあ。」と言って放り投げるわけにもいかないので、過去に書いた作品内では、わたしもいろいろと工夫を凝らしたわけだが、それはこの稿で細々と述べることではない。割愛する。

SとMは逆転する

たしか「シャーロック・ホームズ」の回で、わたしは、SM関係において支配者と被支配者が入れ替わってしまう可能性のあることを述べたが、今回も同じような話になってしまった。「S役」は奉仕される側、「M役」は奉仕する側というのが、SM関係の基本である。少なくともわたしとしては、そうであってほしい――「ご主人様」として美しい「M役」の女性の奉仕を受けたい――と、そう望んでいるのだが、思考実験を進めていくと、そんな具合にすっきりした関係が維持できるようには思えないのである。上に記したように、「M役」の欲求に応えるため、「S役」のわたしが懸命に「奉仕」するという状況が、かなりの必然性をもって出現しそうに思われるわけだ。

こうした逆転現象は、金銭を払って行われる実際のSMプレイ(というものがあるらしいが、わたしは経験したことがありません)では、頻繁に生じているはずだ。SMクラブと呼ばれる遊び場での出来事を、ひとつ想像してみよう。今まで書いてきた話とは男女の役割が逆になるのだが、ここに「M的願望」を持った紳士がいて、その紳士が金銭を払ってSMクラブで遊ぶとする。ぶっちゃけて言うと、「SMの女王様」と呼ばれる女性から「調教」を受けるという段取りになるわけだが、なにがしかの金銭を払っている以上、その紳士は、女王様に対して、支払う金銭に見合う要求をするはずである。

その要求に女王様がうまく応えられない場合、「どうも、あの女王様は今一つだなあ。今度は別の女王様を指名してみるか。」という話になるのではないだろうか。この場合、「奉仕」しているのは、完全に「S役」の女王様である。

似たような構造の話で、もっと悲惨な結末を迎える場合もある。たとえば、江戸川乱歩の小説『D坂の殺人事件』のモデルとなった実際の事件では、マゾヒストである女性の求めを受けて、そのパートナーである男性がSM的行為を繰り返した挙句、ついにはその女性が死亡してしまった、というのだから恐ろしい。(なお、この事件については、P+D MAGAZINEの「【SM・バラバラ殺人】傑作推理小説のモデルになった昭和の犯罪事件簿」 )という記事に詳しい説明があるので、そちらを御参照ください。)

マゾヒストに「奉仕」した結果、ついには殺人者になってしまう。これではとうてい、(わたしにとっては)理想的SM関係とは言えない。「じゃあ、そこまで過激にならない程度に、適当なところでやめておけばいい。」とおっしゃるか。だが、仮にも「理想的」と謳っている以上、「適当なところ」という中途半端なもので満足するわけにもいかないではないか。

問題を整理すると、次のようになる。SM関係において、「S役」は「M役」の「奉仕」を受けなければならない。だが、SM関係を維持していくうち、「S役」は「M役」の欲望に「奉仕」することになってしまう。「M役」に「呪縛」される、と言ってもいい。この矛盾を、いわば「アウフヘーベン」するためには、どうすればよいのか。(「アウフヘーベン」については、P+D MAGAZINEの「【弁証法】アウフヘーベンしようぜ!今さら聞けない弁証法の基礎 」をご参照あれ。)

『坊っちゃん』にヒントを求めて

このときヒントになるのが、誰もが知っている夏目漱石の名作、『坊っちゃん』である――と言うと、「またいい加減なことを吹きやがって。」とお怒りになる向きもあるかもしれない。だが、わたしは全く真剣にそう主張したいのであって、その理由を、これから順次述べていくことにする。

『坊っちゃん』という小説のあらすじを、できるだけ短い言葉で説明せよと言われたら、おそらく次のようになるだろう。――江戸っ子を自任する無鉄砲な若者の「おれ」は、新任教師として四国の中学校に赴任し、そこでさまざまな事件に巻き込まれるが、ついには教頭や同僚教師に「天誅」を加えて(要するに殴り倒して)、また東京に帰ってくる。――だが、こんなふうにまとめてしまうと、多くの人は違和感を抱かれるのではないだろうか。「おい、清(きよ) はどうした?」と、そんな声が聞こえそうだ。
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「奉仕」する清

実はわたしも、そうである。『坊っちゃん』という小説で、最も記憶に残るのは、主人公である「おれ」と下女の「清」との関係なのだ。そして、これが非常にSM的な情感を帯びているのである。試みに一節を引いてみよう。まずは、清が「おれ」に熱心に「奉仕」する場面。(なお、『坊っちゃん』の引用は全て「青空文庫」から。ただし、ルビの一部は省略。)

母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、廃(よ)せばいいのにと思った。気の毒だと思った。それでも清は可愛がる。折々は自分の小遣いで金鍔(きんつば)や紅梅焼(こうばいやき)を買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか寝ている枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼饂飩(なべやきうどん)さえ買ってくれた。ただ食い物ばかりではない。靴足袋ももらった。鉛筆も貰った、帳面も貰った。これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。おれは無論いらないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。実は大変嬉しかった。

もちろんSM小説ではないので、性的なものではないが(当たり前だ)、なかなかのご奉仕っぷりである。特に「何も貸せと云った訳ではない」のに、「金を三円ばかり貸してくれた」という点に、心惹かれるではないか。清は「おれ」の家に雇われているから、本来は金銭を受け取る側の人間である。その清が「おれ」に金を貸すというのだから、これは本物ですよ――と、わたしは言いたい。SMクラブにたとえると、お金を受け取る側のM嬢が客にお金を貸してくれるというような話で、ふつう考えられないことではないでしょうか。

また、「無論いらないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた」と語る「おれ」も、「ご主人様」らしい対応という点から見て、十分に合格点が出せます。喜んで貸してもらうようでは情けないし、必死に断るというのでは、なんだか人間が小さくて、みみっちい。「いらないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた」という悠々迫らぬところが、ご主人様として頼もしいと言えましょう。「SM関係」もこのように、「ふつう考えられないほどの奉仕」をしてくれる「M役」と、「いらないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた」式の適度に鷹揚な「S役」といった関係でありたいものである。

呪縛する「清」

だが、それほど理想的に見える「おれ」と清の関係にも、危うい影がさしている。というのは、「S役がM役に呪縛される」ように、「おれ」が清に呪縛される気配がほのみえているからである。たとえば、(順序が逆になって恐縮だが)先の引用部分よりも前にある次の一節。「おれ」が父親から勘当されそうになった場面である。

その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに詫(あや)まって、ようやくおやじの怒りが解けた。……略……この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするようになったのだと聞いている。だから婆さんである。この婆さんがどういう因縁か、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きをする――このおれを無暗に珍重してくれた。おれは到底人に好かれる性でないとあきらめていたから、他人から木の端のように取り扱われるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審に考えた。清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真っ直でよいご気性だ」と賞める事が時々あった。しかしおれには清の云う意味が分からなかった。好い気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。清がこんな事を云う度におれはお世辞は嫌いだと答えるのが常であった。すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。少々気味がわるかった。

「自分の力でおれを製造して誇っているように見える」という一句に、注目していただきたい。清は「おれ」に奉仕しながら、「おれ」を支配しようとしているようである。それを「少々気味が悪かった」と感じる「おれ」は、まことに鋭い感性の持ち主だと言える。

また、次のような一節もある。

それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りで並べていた。その時は家なんか欲しくも何ともなかった。西洋館も日本建も全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。清は何と云っても賞めてくれる。

「何と云っても賞めてくれる」清だが、同時に「勝手な計画を独りで並べて」もいる。しかも、清個人に関する計画ではない。「おれ」の将来についての計画なのである。このまま行けば、やがて「おれ」は清の呪縛に絡めとられることになったのではないか。清の望むように、麹町か麻布に「うち」を建てるような金持ちにならなければ――と心をすり減らし、うまくそうなれればいいが、なれなかったら、おれは清の期待に応えられなかったと自分に失望するような、悲しい結末になったのではあるまいか。そしてそれは、「M役」の要求に応えられなくなった「S役」の悲哀と、なんら変わりないのではあるまいか。
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『坊ちゃん』の「放置プレイ」とは?

だが、皆さん、よくご存じのように、『坊っちゃん』の結末は、そんなふうにはならなかった。なぜか。それは、「おれ」が清を東京に残したまま、遠く四国の田舎の中学に赴任してしまったからである。そうすることで、「おれ」は、清の身勝手な空想をなぞる人生を拒否し、拒否することによって「ご主人様」としての尊厳を守り通した、ということになる。

さっきのまとめを、もう一度思い出してみよう。SM関係において、「S役」は「M役」の「奉仕」を受けなければならない。だが、SM関係を維持していくうち、「S役」は「M役」の欲望に「奉仕」することになってしまう。いわば、「M役」に「呪縛」されてしまう。この矛盾をアウフヘーベンするためには、どうすればよいか。

答えは『坊っちゃん』の中にあった。つまり、「S役」はいったん「M役」を、一人きりで置き去りにしなければならない。これをSMの世界で何と表現するかというと――はい、「放置プレイ」といいます。つまり、『坊っちゃん』で「おれ」が四国に旅立つのは、いわば究極の「放置プレイ」だったというわけ。SM関係の矛盾をアウフヘーベンする鍵は、この「放置プレイ」にあると言えるだろう。

もちろん「放置プレイ」は、いつか「S役」が「M役」のもとに帰ってくることを前提としている。『坊っちゃん』においても、「おれ」は清のもとに(小説の本当に最後の最後で)ちゃんと帰ってくる。以下は、『坊ちゃん』の結末部分からの引用。

清のことを話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄(かばん)を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

やっぱり夏目漱石は文豪だ!

『坊っちゃん』の中で、清について書かれている部分は、驚くほど少ない。今、手元にある文庫本で確かめてみると、冒頭の十数ページの一部と、結末の(ここに引用した)数行にすぎない。けれども、もし清が登場しなかったら、『坊ちゃん』の魅力はずっと小さくなっていただろう。清という人物を登場させた夏目漱石の手腕は、尋常なものではない。そして漱石は、そのわずかな部分で、SM関係の矛盾を解く決定的な鍵まで提供しているのだ。

夏目漱石は、やはり文豪なのである。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
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初出:P+D MAGAZINE(2017/12/25)

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