『国家』(プラトン)――SM小説家はもれなく性差別主義者なのか|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第10回>

大好評連載の第10回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み! 今回はプラトンの『国家』に注目。SM小説家はもれなく差別主義者なのか?果たして……?

「Me Too」

最近、性的な強要行為や嫌がらせなどの、いわゆるセクハラ行為を受けた女性が次々と名乗りを上げる、ということが続いていて、これを「Me Too」(自分も性的被害を受けたという報告をツイッター上で行う)現象と呼ぶらしい。当然のことながら、そこで報告されたセクハラ行為の背景には、根深い性差別があると考えられている。

差別主義者と思われた!

この「性差別」ということに関しては、ちょっとした思い出がある。たしか二冊目のSM小説を出したころだろうか、ある若い女性から、こんなことを言われたのだ。(なお、その人は、わたしの小説を読んではいなかった。)

「あなたが女性差別をする人だなんて、これまで思っていませんでした!」

言われたわたしは少しびっくりして、なぜそんな結論に至ったのか――つまり、なぜ、このわたしが女性差別をする人間であるという判断に至ったのか、その若い女性に尋ねてみた。どうやらその人の頭の中では、次のような論理が展開していたらしい。

SM小説というのは、男が女を性的に虐げる小説である。そのような小説を書く人間は、現実の世界でも女は男に性的に虐げられて当然の存在だ、と考えているはずだ。したがって、その人間は女性差別主義者である。

さて、どうだろう? 「現実の世界でも女は男に性的に虐げられて当然の存在だ」などと考えているSM小説家なんて、はたして存在しているのだろうか。もちろん、絶対に存在しない、とは言い切れない。けれども、わたしとしては、そんなSM小説家はいたとしても極めて少数なのではないか、と言いたい。

それはSM小説家差別ですか?

まず、「SM小説というのは、男が女を性的に虐げる小説である」という定義が間違っている。SM小説を定義づけるとしたら、「サディストやマゾヒストが出てくる小説」とでもいうべきであって、別にサディストは必ず男でなければならず、マゾヒストは必ず女でなければならない、というものではない。

もちろん、「サディスト=男」「マゾヒスト=女」という役割分担で展開するSM小説は多い。だが、当時わたしの出した二冊目の作品(『Sの放課後Mの教室』)では、美貌の男女が入り乱れて登場し、女が男に虐げられる場面もあれば、男が女に虐げられる場面もあり、さらには女が女に虐げられる場面もあった。そのうえ話が進むにつれて、それぞれの役割が途中で交代してしまうのである。つまり、「男が女を性的に虐げるだけの小説」などでは全くなかったわけ。それなのに、「あなたは女性差別をする人なのね」と決めつけられるのは、まことに心外であると言うほかない。むしろ、こんな決めつけのほうが「SM小説家差別」なのではありませんか?

なぜ差別が生じるか?

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この「SM小説家差別」は、どうして生じたのだろう。その根本原因は既に述べた通り、「SM小説」というものの定義が誤っていたことにある。「SM小説」に関する「誤った概念の連結」にあると言い換えてもいいだろう。つまり「SM小説」という概念と「男が女を性的に虐げる小説」という概念が連結されてしまったところから、この差別が始まったわけだ。

言葉を使うことのできる人間は、言葉による概念化から逃れることはできない。そのため、人間は言葉によって生成される概念を通じてしか現実を把握することができなくなった。

こういった議論はしばしば耳にするが、わたしも、まあ概ねその通りだろうと考えている。(ただし――では、言葉を話さない動物は概念化の能力を完全に欠いているのか? と問われると、そこは少し考えどころ。たとえば、飼い主とボール遊びをする犬は、「ボール」という言葉を知らなくても、ボールという事物に対して、他の事物とは異なる独特の認識を有しているはずである。問題はその認識が「概念」と呼べるかどうか、ということになるのだろうが、わたしは今のところ、それを「犬は犬なりに何らかの概念めいたものを持っている」と考えている。)

概念の誤った連結

この「言葉による概念化」というものは、人間が現実を把握するのにはたいへん便利なもので、百人いれば百人それぞれ異なる人間の群れを「男」と「女」、「大人」と「子ども」といった具合に、すっきりと分類することができる。そこまではいいとしよう。問題は、そうした概念を、他の概念といくらでも連結させることができる――しかも恣意的にそうできる――ということである。

「男」という概念を、「男性器を有する存在」という概念と連結させ、「女」という概念を、「女性器を有する存在」という概念とそれぞれ連結させる。この程度ならば、それほど大きな問題は生じない。けれども、ごく穏当に見えるこの「概念の連結」も、少し細かく見ていくと、いろいろと綻びが出てくる。たとえば、ある男性が何らかの疾病にかかって手術で男性器を切除したとする。さて、その人はもう男ではなくなるのか。あるいは、男性器を有しているある人が、「自分の体には男性器が付いているけれども、どうも心は女性としか思われない」と感じている場合は、どうなるのか。

「男は男性器を有する」「女は女性器を有する」という、ごく穏当な概念の連結でさえ、すでにこうした問題、つまり現実との齟齬が出てくるのだから、「男は家の外に出て働く」、「女は家の中にいて家事をする」などといった、大胆不敵な概念の連結をやらかしてしまうと、もう現実の多様さには、全く対応できなくなる。対応できなくなった時点で速やかに概念の連結を修正すればよいのだが、実はこれが(わたし自身を含めた)多くの人にとっては、実に面倒くさい。逆に、「男なら家の外に出て働かなければならない」、「女は皆、家の中にいて家事を担わなければならない」と、恣意的に連結したにすぎない概念群によって、現実のほうを規制しようとし始める。かくして、頑迷な性差別論者が誕生する、というわけ。性差別に限らず、あらゆる差別の根底には、この概念化と、その誤った(=現実に完全には対応できないという意味での)連結があると言えるだろう。

プラトンは言った、女たちは着物を脱がなくてはならない、と

そんな差別はバカバカしくて、よくないことである、ということを人類の歴史上、最初に指摘したのは誰か。わたしの知る限りでは、それはプラトンではなかったかと思われる。皆さん、よくご承知のことだろうが、プラトンという人は、古代ギリシャを代表する哲学者で、だいたい紀元前四〇〇年くらいの時代――つまり大昔に生きていた人である。

そのプラトンの『国家』という本の中に、次のような言葉がある。

それならば、守護者の妻女たちは着物を脱がなければならない――(藤沢令夫 訳)

この一文だけ見ると、なんだか女は男の性的欲望のために肉体を捧げなければならない、とでも言っているかのようだが(そしてSM小説家のわたしとしては、もしプラトンがそんなことを言っていたら面白かろう、などと思うが)、実際は反対である。これは、女も男と同じように衣服を脱いで裸になり、男と同じように肉体の鍛錬をしなければならない、と主張している一文なのである。

『国家』の性差別反対論

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プラトンの著作のほとんどは、「師であったソクラテスと他の人との対話を記録した」という体裁で書かれている。(ただし、実際の対話を正確に記録したものではない。多分にプラトンの創作が入りこんでいると言われている。)『国家』もやはりそうした対話篇の一つであって、ソクラテスが「理想の国家とはどのようなものか」というテーマについて語るという内容。その中で彼は、「女であっても素質と能力があれば、国家の支配者(立法者)や保護者(軍人)として働くべきだ」という主張を展開する。

すると、当然のごとく、「男と女は生まれつき自然的素質が異なるのだから、同様に扱うべきではない」という反論が出てくる。(この反論は、現代でも性差別が大好きな人たちが、よく使う論法ですね。「男と女は生物的に異なっている、だから区別されるのは当然で、区別は差別ではない」という、あの論法です。)この反論に対して、ソクラテスは次のように語りかけていく。(以下、「ぼく」と自称しているのがソクラテス。「彼」と呼ばれているのは、グラウコンという名の若者。)

「同一ならざる自然的素質は同一の仕事にたずさわってはならないということを、われわれはまことに勇ましくもまた論争家流に、ただ言葉の上だけで追い求めている。他方しかし、いったいその自然的素質が異なるといい同じであるというのがどのような種類のものなのか、またわれわれが違った自然的素質には違った仕事を、同じ自然的素質には同じ仕事を割り当てたときに、その素質の異同ということをとくに何に関係するものとして規定したのか、といったことは、まったく考慮に入れていなかったのだ」
「じっさいのところ、私たちはそのことを考慮しませんでした」と彼は答えた。
「そうであるとすれば」とぼくは言った。「どうやらわれわれは、われわれ自身に向かってこうたずねることもできそうだね――禿頭の人たちと長髪の人たちとでは、自然的素質は同じであって反対ではないのか、と。そしてわれわれがそれは反対であると同意したら、それなら禿頭の人たちが靴作りをすれば長髪の人たちにはその仕事を許さないのか、あるいはまた、長髪の人たちが靴作りを仕事とするなら、他方の人々にはそれを許さないのか、とね」
「それはたしかに、おかしなことになるでしょうね」と彼は言った。(藤沢令夫 訳)

ここでソクラテスが指摘しているのは、まさに概念の連結の誤りというものである。つまり、「禿頭である人」という概念と「靴づくりに向いている」(あるいは「向いていない」)という概念を連結してしまうと滑稽なことになる、と言っているわけだ。そしてソクラテスは同じ論法で、今度は明快な性差別批判へと向かっていく。

「そうとすれば、友よ、国を治める上での仕事で、女が女であるがゆえにとくに引き受けねばならず、また男が男であるがゆえにとくに引き受けなければならないような仕事は、何もないということになる。むしろ、どちらの種族にも同じように、自然本来の素質としてさまざまなものがばらまかれていて、したがって女は女、男は男で、どちらもそれぞれの自然的素質に応じてどのような仕事にもあずかれるわけであり、ただすべてにつけて女は男よりも弱いというだけなのだ」
「ええ、たしかに」
「それではわれわれは、男たちにすべての仕事を課し、女には何も課さないでおくべきだろうか?」
「どうしてそんなことができましょう」
「むしろ思うに、われわれの主張としては、女にも生まれつき医者に向いている者もあれば、そうでない者もあり、また音楽に向いている者もあれば音楽に不向きな者もあるというのが実情だと言わなければならないだろうからね」
「むろんそうです」
「では、体育に向いた女、また戦争に向いた女もあり、他方には戦争に向かず体育好きではない女もいる、ということはありえないのかね?」
「あると思います」
「ではどうだろう。知ることを求める女と嫌う女がいるのでは? また気概のある女もいれば、気概のない女もいるのではないか?」
「その点もまたそのとおりです」
「それならまた同じようにして、国の守護の任に向いている女もあれば、そうでない女もいるということになる。いやむしろ、これは、われわれが男たちについても、守護者たちを選び出すにあたって、そのもつべき自然的素質として念頭においたものではなかったかね?」
「たしかにそうでした」
「したがって、国家を守護するという任務に必要な自然的素質そのものは、女のそれも男のそれも同じであるということになる。ただ一方は比較的弱く、他方は比較的強いという違いがあるだけだ」(藤沢令夫 訳)

というわけで、ソクラテス(の口を通じて、プラトン)は、素質のある女は、素質のある男と同様、国家の支配者や守護者の任に当たらなければならず、またそうなるよう、男と同じ教育を受けなければならない、つまり男といっしょに裸になって肉体を鍛錬しなければならない、と主張するわけである。

もっとも、女性の中には、「ただすべてにつけて女は男よりも弱いというだけなのだ」や、「ただ一方は比較的弱く、他方は比較的強いという違いがあるだけだ」という言葉に、カチンときている人もいるかもしれない。だが、そこは当時の時代背景や、ソクラテスの言っている「仕事」の中身に、幾分か配慮をしてほしいと思う。

当時のギリシャでは、公的な教育は男子に対してだけ行われていたようである。だから、男女に同じ教育を施してみたら、あら不思議、「すべてにつけて女は男よりも弱いと思っていたけれど、教えてみると、どうもあまり違いはなかったようだ」という結論に、ソクラテス自身が至ったかもしれない。また、ここでソクラテスが言っている「仕事」というのは、主に国家の守護者つまり軍人の仕事のことであって、具体的に言えば、重武装をして行進するだとか、槍を力強く突いて相手を殺すだとか、まあそういった類いの「仕事」である。とすると、かなり体力勝負になってくるわけで、これは現代でも「平均すれば男の方が上」と見なされているだろう。

それよりも、やはり「女にも生まれつき医者に向いている者もあれば、そうでない者もあり、また音楽に向いている者もあれば音楽に不向きな者もある」、「国の守護の任に向いている女もあれば、そうでない女もいるということになる」といった言葉に着目していただきたい。要するに「男」や「女」という概念を、「医者」や「音楽」「国の守護」という概念と恣意的に連結してはならない。「医者」と結びつけるのなら「医者に向いている自然的素質」、「国の守護の任」に結びつけるのなら「国の守護の任に向いている自然的素質」でなければならない、と言っているわけ。実に簡素で美しく、かつ明快に反性差別的言辞ではなかろうか。(ただし、『国家』という本全体は性差別とは別に、たとえて言えば人間を「金の種族」「銀の種族」「鉄と銅の種族」の三種に分けるという、ある意味きわめて差別的要素もある本なのだが……。)

個を見ることの難しさ

同時にこれは、「平均値で見てはならない」という、明白な宣言でもある。男女の性差に関する平均値を出して、「だから男は……」とか「だから女は……」とか言う人が、現代でもたいへん多い。冒頭に述べた「Me Too」現象でも、男性が女性にセクハラ行為をしたという報告が多く、それはたしかに事実なのだろう。たぶん世間で行われているセクハラ行為の数というものは、男性が女性に対して行うものが圧倒的で、またその背景に女性蔑視もたしかにあるにちがいない。しかし、それを数値化してセクハラ頻度といった項目で平均値を出し、「だから男というものは、もれなくセクハラをするものである」という結論に至ってしまうと、これはまた別の差別になってしまう。おわかりですよね? これと同じで、「SM小説家はもれなく女性差別をするものである」という結論もまた、やはり一種の差別なのである。

したがって、大切なのは結局、「個を見る」ということになるのではないだろうか。「男というもの」「女というもの」「SM小説家というもの」という概念を立てずに、できるだけ「この一人の男」「この一人の女」「この一人のSM小説家」という個人を見つめていくことである。そうしさえすれば、無用な差別は減るはずだ。

ただし、この「個を見る」ということが、実はたいへん難しい。個を見るためには、安易な概念化そのものをできるだけ拒否しなければならないが、既に述べたように、概念化というものはたいへんに便利なものである。というよりも、人間が現実を認識するときに、どうしたって付いて回るのが概念化というもので、山を見て「ああ、あれは山だな」とぼんやり思った瞬間に、もはや概念化は生じている。つまり、「なんだか土が高く盛り上がっている何か」を、「山」という概念で把握しているわけである。

人間は永遠に差別を生み出す?

差別の根本には、概念化がある。しかし、人間は概念化からは逃れられない。とすれば、たとえ一つの差別が世の中から消えたとしても、また別の差別が生じてくる、ということになりそうだ。おそらく、人類の全歴史を通じて、今ある差別を解消しても解消しても、次々にまた新たな差別が現れるということになるだろう。そして、それに対する異議申し立てもまた、尽きることはないだろう。

人間の歴史とは、新たに生まれる差別と、それに対する異議申し立ての連続ということになるのかもしれない。

一SM小説家として

最後に、一SM小説家として(SM小説家の代表としてではない)、性差別についてのわたしの意見を述べておこう。端的に言うと、現実の日本の社会で女性蔑視や男女差別がはびこると、わたし、たいへんに困ります。なぜか。

わたしのSM小説に登場するマゾヒストは、気高く誇り高い人物でなければならない。その気高い誇りがサディストによって無惨に踏みにじられるところに、一種の美を見出したい、というのがわたしの希望だからである。したがって、そのマゾヒストが女性である場合、「女性は男性に従属して当然」といった性差別社会に唯々諾々と甘んじているようでは、設定自体が成立しなくなってしまう。わたしのヒロインは社会で自立し(これは別に職業を持っているという意味ではない)、きらきらと光り輝いていなければならない。そうでなければ、(わたしの妄想の中で)踏みにじられる尊厳や誇り自体が、初めから存在しない、ということになってしまうではないか。

というわけで、一SM小説家として、わたし美咲凌介は、実社会でのあらゆる性差別に反対していきたいと思います、はい。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
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初出:P+D MAGAZINE(2018/01/22)

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