連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:阿部公彦(東京大学教授)
2020年度から、センター試験に替えてはじまる大学入学共通テスト。そこでは英語の試験を8種類の民間業者の試験で代用しようという動きがある。業者ありきで推し進められる入試の民営化に反旗を翻している東京大学教授阿部公彦さんに、いま英語教育の現場で何が起こっているのか、お話を伺いました。
第二十六回
受験生を利権の被害者
にしてはいけない
ゲスト 阿部雅彦
(東京大学教授)
Photograph:Hisaaki Mihara
阿部雅彦(左)、中島京子(右)
英語の四技能化は、誰のため?
中島 阿部さんは、ご専門の英文学はもちろん、日本近代文学に関しても魅力的なご本をたくさん出されていて、楽しく拝読しているのですが、今回の『史上最悪の英語政策 ウソだらけの「4技能」看板』(ひつじ書房)は、大学の先生として、政府の英語政策に怒り爆発という感じです。
阿部 これでもずいぶんソフトに書いたつもりなのですが……(笑)。
中島 英語学習には「読み、書き、話し、聞く」四つの技能が必要です、と言われると、たしかにそうでしょうと思うんです。でもその先がおかしい。四技能が必要だから、大学入試の英語は英検やTOEIC、TOEFLなどの民間業者の試験に任せる。論理がひとっ飛びしていて、まったく理由がわからない。
阿部 謎です。東大は入試の出願資格にこの民間試験の成績を提出必須としない、という方針を発表していますが、今回の英語政策の方針を決めたのが「英語教育の在り方に関する有識者会議」。この会議にしても、メンバーの選び方がひどく恣意的で反対意見を言いそうな人はほとんど入れていないし、民間試験の導入を検討する協議会なんて、民間の英語試験業者がずらりと名を連ねているんです。民間試験を導入するかどうかを話し合う会議に、利害関係者がいること自体おかしいでしょう。
中島 本当ですよね。ゴールは学生の四技能習得ではなく、民間業者を大学入試に参入させることなのかと思えてきます。
阿部 もとをたどれば、一九八九年三月に文部省(当時/現・文部科学省)の英語の学習指導要領が、コミュニケーションを重視するという方向に変わったんです。
中島 そんな昔に! コミュニケーションというのは、具体的には会話を優先するという意味ですよね。
阿部 そうです。それから三十年近くその方針で教育してきたけれど、やっぱりうまくいかない。それはコミュニケーション重視の英語教育がだめだったということです。誰が考えても、明白です。
中島 それなのに、今回の改革も「コミュニケーション重視」だと。自民党の遠藤利明議員は「中高六年間も英語をやってきたのに、パーティーでワイワイ英語がしゃべれない。そんな英語教育を直しましょう」という持論を改革の根拠にしています。パーティーでワイワイなんて、日本語でもしないでしょうとツッコミを入れたくなりましたが(笑)。
阿部 遠藤さんは数年前に大学入試の英語をTOEFLで代用しようという提言を出した教育再生実行本部長でした。
中島 民間試験導入という政策が、いかに無知と思い込みに基づいているかということですね。
阿部 三十年やってもダメだった事実にまったく目を向けずに、今回なぜかさらにその方向に舵を切ろうとしているわけです。読み書きやヒアリングならまだしも、スピーキングのテストをどうやって一律に実施するのか。大学入試の場合、毎年五十万人くらいの学生が受験するわけでしょう。
中島 ひとりひとりちゃんと採点しようとすると、ものすごい数の試験官が必要になりそう。
阿部 日本語でも、友だちとの井戸端会議みたいなおしゃべりなら日常的にしていると思いますが、知らない人の前できちっと手順を踏んで論理的に物事を話すのは結構難しい。そのための特別な訓練が必要です。
中島 採点する側にも、相当なスキルが求められそうです。
阿部 仮にスピーキングの試験を導入するとしても、まず日本語でやって、発展段階として英語でやる。それが筋だと思うんです。日本語ですら経験のないことを、いきなり英語でやろうとしている。それで英語力が上がるというのだから、もうちゃんちゃらおかしいとしか言いようがありません。
中島 受験生をおかしな英語政策の被害者にしないでほしい。だいいち、遠藤さんが目指す「パーティーでワイワイ」のようなインフォーマルな会話は、じつは難易度が高いと、阿部さんは書かれていましたね。
阿部 そもそも西洋には歴史的に公の場で口頭でいろんなことを決めてきた伝統があるんです。ギリシャやローマの時代に、レトリックをふんだんに使ったパフォーマンスを人前で行う技術が発達した。その技術が後世に伝授されてきました。二千年以上の歴史の延長上に、今のパーティーワイワイがあるんだと思います。
中島 それは面白い考察ですね。
阿部 西洋では、印刷技術が発達した十七~十八世紀頃には、まず宗教関係の本がたくさん出版されました。次いで出されたのがマナーの本なんです。マナーの中でも一番重要視されたのは人前でどう話すか。あまり病気の話をするなとか、自分の奥さんや召し使いの話ばかりするなとか。プライベートなことをしゃべるべきではないというルールが書いてある。西洋社会では、その頃にコミュニケーションのマナーの一環としてプライベートとパブリックを区別するようになったのだと思います。
中島 なるほど、欧米の政治家は演説がうまいはずです。それにひきかえ日本の政治家は……。
阿部 海外の首脳の演説は、そのまま書き起こしてもある程度ちゃんとした文章になっています。日本の政治家の演説は、そうはいきません。
中島 書き起こすまでもなく、グダグダな話し方をする人が多いですから(笑)。
阿部 現在の英語は、ギリシャ・ローマ時代以来の話し言葉レトリックの伝統の上に築かれています。話し言葉が先で、書き言葉のほうが後に来た。たとえば、話し言葉だと口から発した瞬間からどんどん音が消えていくでしょう。だから、わかりやすく列挙したり、繰り返しが多くなるんです。英語の場合、書き言葉にも繰り返しが多い。対して、日本語は必ずしも話し言葉のレトリックをベースにした書き言葉ではありません。漢文をもとに発展してきたのが日本語の書き言葉だったので、ポイントは雄弁さよりも簡潔さにある。明治の言文一致運動のときに問題になったのも、漢文調からどう離脱して、書き言葉をしゃべり言葉に近づけるかということでしたから。日本人は文章を読むときとしゃべるときは別のモードなんです。だから英語風に繰り返しや列挙を使って拡大していくようなタイプの文章は、饒舌体と言われたりしてちょっと軽く見られる。
中島 しゃべり言葉と書き言葉が違うという感覚自体が、英語にはない。とても日本語的なものなんですね。それはすごく面白い。そんなところにある文化の違いを知ることにも、意味があると思います。
ピンポン英会話なんて、誰もできない
阿部 今回の「四技能」に対する疑問に戻すと、日本人は書き言葉と話し言葉を分けて考えるけれど、英語は言文がかなり一体となっている。だから読むことを通してしゃべるリズムも身につけられるし、もちろん逆もある。ネイティブスピーカーの人に「いま日本では訳読文法派と英会話派が対立して、血で血を洗う戦いになっている」と話すと「えっ? その二つ何が違うの」って、驚かれます(笑)。
中島 英会話派からは、訳読や文法は悪者扱いですが(笑)、文法をわかってないと、ちゃんとしたスピーキングはできないんじゃないでしょうか。
阿部 英語ではもともと一体化しているものを、なぜまるで違う領域の知的活動であるかのように言うのか。まったくナンセンスです。たしかに六十年ぐらい前には、英会話なんて必要ないという偏った風潮がありました。極端なコミュニケーション軽視です。これも日本的な「言」と「文」の不一致のあらわれだったのでしょう。特に大学の英文科などでは、英語をペラペラしゃべりたいという人は、何となくさげすまれていた。
中島 “ペラペラ”という音に、どこか馬鹿にしたニュアンスが含まれていますよね。
阿部 当時は英文の本がちゃんと読めなければ、知的ではないという時代。そうした英語教育の方法に対する反発が非常に強くなった結果、この三十~四十年はコミュニケーション重視に逆振れしたのでしょう。たしかに当時の読解偏重は度が過ぎていた。誤っていたと私も思います。が、今度は反対に偏りすぎている。
中島 そうですね。どうしてそんなに対立しなければいけないのかよくわからない。ネットに、ある英語の先生の意見が載っていたのですが、とにかく英語をいったん和訳することほど害のあるものはない。英語で考えなきゃいけない。英語で話しかけられたら、ピンポン玉を打ち返すようにパーンと答えられなきゃいけない。そういう練習をしなきゃいけないと。
阿部 面白いですね。日本語ですら、ピンポン玉みたいにやりとりするのはむつかしい。そうだ、コミュニケーション英語が目指しているものを「ピンポン英語」と名付けたらどうでしょう(笑)。日本人には、英語圏の人は、しゃべるのがすごく速い、というスピード幻想があるんです。だから、グローバル化されたいまの世を生き抜くビジネスパーソンは、このスピードに遅れてはいけない。そんなロジックでスピードを売りにしたピンポン英語教育が依然として流行しています。それも私は、間違っていると思うんです。
中島 えっ、違うんですか? 私も少しだけアメリカで暮らした経験がありますが、最初はみんな早口で何を言っているかわからず苦労しました。
阿部 英語圏に行くと、とにかくリスニングができない。それは、話すスピードに付いていけないというより、もっと別のことだと思うんです。だって英語圏の人が日本人より言語処理能力が異様に速いということはありえない。だからスピードが原因だと日本人が感じているのは、単に聞き方のこつだと思うんです。
中島 ご本にも、日本語は高低のアクセント、英語は強弱のアクセントでできている。リズムが違うから習得がむつかしいんだと書いてありましたね。
阿部 英語圏に住むと、半年ぐらいたった頃に突然英語がわかるようになると、よく言うでしょう。それは英会話のスピードに対する処理能力が上がったわけではなく、英語的な会話の音のリズムに体がようやく慣れたということなんです。
中島 そんなふうに言語の特徴から教えてもらうと、英語に対するハードルが低くなる気がします。
阿部 読めないとか書けないというのは、しょせん机上のもの。辞書を引いたり、人に教えてもらうこともできる。でも周囲の人の会話を聞き取ることができないと、自分の存在そのものの足元が崩れるような根源的な不安に襲われると思います。
中島 自分がそこにいる世界が把握できなくなるわけですから、英語に対するコンプレックスがさらに強くなりますね。
阿部 でも、それは自分の英語力とイコールじゃなくて、リスニングの問題なんです。私の考えとしては、語学はまずはリスニングから。一言もしゃべれなくても周りの人が言っていることがわかるようになれば、一体感があるし、パーティーに参加しても、ワイワイした気分になれます(笑)。
実用英語は、AIに代替される
中島 語学なんていうのは、その国で育てば、誰だってしゃべれるようになると言う人もいるじゃないですか。でも、その国で育つということは、なんにもしゃべれないまま、お母さんやお父さんがしゃべっていることをずっと聞いている。
阿部 それも、全人生をかけて。
中島 すごく長い時間聞き続けて、やっと「パパ」とか「ママ」とかの単語を発するわけでしょう。
阿部 まったく言葉に関する認識が浅薄だなと思います。わたしは「英語教育の在り方に関する有識者会議」にも、作家や哲学者、言語学者などを入れるべきだと思うんです。残念ながら入っているのはほとんど業者ですが……。でもこれは文科省だけではなく、日本の公共事業の典型的なやり口なんです。割と最初から出来レースみたいになっている。役人たちもみんなそれに慣れっこになっているから、なあなあで済ましちゃう。
中島 でも、今回は教育の問題です。対象は未来を担う子ども、若者なんだから、次元が違います。
阿部 しかも共通テストだけではなく二次試験まで民間試験にする方向に持っていこうとしているんです。そうすると大学入試は完全に民営化される。つまり教育を一種の利権争奪の場にしようという政策です。業者さんだってそんなことは望んでいないのに、政治のほうがそれをけしかけている。利権を生み出すことで、お金が政治家に戻ってくるようなシステムをつくろうとしているわけです。
中島 それによって英語ができるようになればまだいいけれど、正反対の方向に向かっているのは、日本にとってもう悲劇でしかない。国際競争力も落ちるし、国力が失われていく感じがすごくしますね。
阿部 もうひとつ根っこにある大きな問題は、「言葉なんてものは、とにかくやりとりができりゃいいんだ」という読み書きに対する軽視。つまり「知」に対する侮蔑です。今回の入試改革の隠された目的は、一種の階級化を引き起こそうとすることではないかという気がするんです。一般国民は英語の非常にベーシックなスキルだけ身に付ければいい。知的な英語力は要りません。あなたたちは読み書きをする必要がないんですというメッセージを明らかに出している。それは英語に関してだけではなく、恐らく国語にも及びつつある。英語のことは完全にその一部で、その向こうにある巨大なトレンドは見逃せないと思います。
中島 最近、やはり「教育改革」の一環で、高校の国語の教科書から近現代の文学が外されると聞きました。大騒ぎしてみんなで止めないと大変なことになってしまう。まさかとは思いますが、国は“バカ”な国民をつくりたいっていうことなのでしょうか。
阿部 思考力や判断力は邪魔でしかない。言うことを聞く従順な国民をつくりたいんです。TOEICは企業の人がよく使いたがる英語のテストですが、アメリカ版TOEICのサイトには「使える労働者を揃えるための道具」だという内容が堂々と書いてある。TOEICは、もともと従業員英語。企業に使われる人のための英語なんです。それをいくら強化しても自分で主体的に判断する英語はとても身に付かない。
中島 とすると、日本政府にとって、もう大学はアカデミズムの世界ではないと。
阿部 本当に危機的だと思います。極論ですが、このままだと大学は社畜生産工場になってしまいます。
中島 この間、フランスに帰る姉を見送るために成田空港に行ったら、コンビニの店員さんが自動翻訳機を使っていたんです。中国の人に対して「このカードを使うにはあなたではなく、あなたの娘さんのパスポートが必要です」と話しかけると、機械が瞬時に訳して、相手も納得していました。
阿部 すごいですね。
中島 今後こういう現場では自動翻訳機がどんどん使われていくことになるでしょう。AIが発達して翻訳の精度もどんどん上がっていく。これこそ究極の実用英語。いま政府が目指している英語の到達点ですよね。
阿部 少なくともコミュニケーション英語を推進しようとしている人たちは、そういうレベルの実用英語を目指していますね。
中島 テクノロジーによって代替可能な英語なら、そこに学習という努力は必要なくなりますね。
阿部 まさにそこが問題なんです。いまの日本ではあきらかに「知」の権威が失墜しています。言葉でも、自然の摂理でも、何かを無性に知りたくなるのは、たとえば神のことを知りたいと思うのと同じ気持ちだと思うんです。どんな時代になってもそういう神聖な気持ちは消えないし、それが心の豊かさであり、人間文化を支えるものだと思うんです。だから、どんなに大衆化して「知」の権威が失墜したとしても、襟を正す瞬間は訪れると思うし、それがないと倫理やモラルも成り立たない気がします。
中島 いまの日本は、だいじなものを見失っていると感じます。人は、実利だけではまったく説明のつかない、いろんなもやもやをいっぱい抱えて生きている。言葉が豊かであれば、そのもやもやの正体を言語化することもできるし、誰かに伝えることもできる。それが「知」に対する欲求にもつながっていく。言葉の豊かさを失うというのはすごく危険な状況なんだと、気づいてほしい。利益誘導型の政策によって犠牲になるのは、これからの日本を支えていく子どもたちなのですから。
構成・片原泰志
プロフィール
中島京子(なかじま・きょうこ)
1964年東京都生まれ。1986年東京女子大学文理学部史学科卒業後、出版社勤務を経て独立。1996年にインターンシッププログラムで渡米、翌年帰国し、フリーライターに。2003年に『FUTON』でデビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞受賞。2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞受賞。2015年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ作品賞、柴田錬三郎賞を受賞。『長いお別れ』で中央公論文芸賞、2016年、日本医療小説大賞を受賞。
阿部公彦(あべ・まさひこ)
1966年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授。大学では英米詩を中心に教えている。東京大学文学部卒、同修士をへて、ケンブリッジ大学でPh.D.取得。2018年より現職。日本文学の評論や創作もおこなっている。1998年に「荒れ野に行く」で早稲田文学新人賞を、2013年に『文学を〈凝視〉する』でサントリー学芸賞を受賞。
豪華執筆陣による小説、詩、エッセイなどの読み物連載に加え、読書案内、小学館の新刊情報も満載。小さな雑誌で驚くほど充実した内容。あなたの好奇心を存分に刺激すること間違いなし。
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初出:P+D MAGAZINE(2018/10/20)