フェミニスト批評の道はレオ様主演の『ロミオ+ジュリエット』がきっかけ!? 連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:北村紗衣(武蔵大学准教授)

世の中は、いまだに男目線の考え方で溢れている。その歪みが社会をギクシャクさせているのではないか。でも、「フェミニスト批評」という手法で鮮やかに世の中を斬ってみせる北村紗衣さんとお話ししていると、ちょっぴり楽しい明日の予感がしてくるのです。

 


連載対談 中島京子の「扉をあけたら」
第三十八回

批評眼を持つと
人生はもっと面白くなる。

ゲスト  北村紗衣
(武蔵大学准教授)


Photograph:Hisaaki Mihara

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北村紗衣(左)、中島京子(右)

レオ様がきっかけで、フェミニスト批評の道へ

中島 北村さんのご著書を拝読して、ぜひお会いしたいと思っていました。大学で(きょう)(べん)もとられているので、お忙しい毎日でしょう。
北村 今日も急な会議が入ったせいで、お約束の時間を変更していただき、申し訳ありません。
中島 いえ、とんでもないことです。『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)という書名もユニークですが、サブタイトルを見ると「不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」とある。さてさて、どんな内容なのか。ページを開く前から、興味津々でした。
北村 ありがとうございます。
中島 北村さんのご専門は、シェイクスピアとフェミニスト批評ですよね。そもそもどういうきっかけで、批評の世界へ足を踏み入れたのでしょうか。
北村 小さいときから本を読んだり、映画を()たりするのがとても好きな子どもでした。中学生のころ、初めて自分のお小遣いで観に行った映画が『ロミオ+ジュリエット』だったんです。
中島 北村さんが中学生のころだと、もしかして……。
北村 はい。主演は、レオナルド・ディカプリオ。
中島 やっぱり、お若いんですね。世代の差を感じてしまう(笑)。
北村 舞台設定は現代で、映像もすごく華やか。でも字幕を読むとセリフは昔のシェイクスピア劇のままのような印象だったんです。その対比から、セリフの端々まですごく新鮮に感じて……。
中島 映画の字幕って、字数に限りもあるし、観る方も意味を取るぐらいで追っていることも多いでしょう。翻訳者の方とかじゃない限り、それほどディテールに注目することはないと思うんです。北村さんは、その頃からすでに研究者としての素地をお持ちだったんですね。
北村 どうでしょう? でも『ロミオ+ジュリエット』をきっかけに、シェイクスピアに対する興味が()(ぜん)湧いてきて、研究者になる動機のひとつとなったのは事実です。学生から「なぜ、先生になったんですか」って聞かれると、「レオ様のせいだから」と答えています(笑)。
Img_38080中島 シェイクスピア劇は、セリフの量がものすごく多いですよね。
北村 研究を始めてからわかったのですが、シェイクスピア劇にセリフが多いのには理由があるんです。まず、舞台には全くセットがありません。ほとんど背景がない所でお芝居をするから、状況をしっかり言葉で説明する必要がある。しかもシェイクスピアがよく公演を行っていたグローブ座は、一説によると、ぎゅうぎゅう詰めにすると三千人近くも収容できたと言われています。
中島 すごい。そんなに大きい劇場だったんですね。
北村 今みたいなオペラグラスもない時代でしょう。後ろの方の人は、舞台上で演者が何をやっているのか、ほとんどわからない。だからセリフでいろんなことを説明しなければならなかったんです。
中島 舞台を観に行ったのに、まるでラジオを聴くみたいですね。
北村 そうなんです。学生たちにも、シェイクスピア劇は、大相撲のラジオ中継みたいなものだと思ってね、と冗談まじりに話しています(笑)。
中島 その研究の成果が最初のご著書『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち─近世の観劇と読書』(白水社)に結実するんですね。
北村 シェイクスピアが今でも研究され、世界中で上演され、読まれ、映画やテレビドラマになっているのは、多くの無名の人々が劇場でシェイクスピアを楽しんできた経緯があるからです。ところが、それについて書かれた歴史のほとんどが男性目線のものばかりだったんです。女性は、学問や批評の歴史の中で軽視されてきたんですね。だから、シェイクスピア劇を楽しんだ女性ファンの研究をしてみようと、十八世紀なかばくらいまでに書かれた本の書き込みを八百冊ほど調べました。
中島 すごい!! もちろんすべて英語ですよね。ふつう一生かかっても読めない! 私も日本の近代文学を読むと、どの作品も男の人目線で書かれていることに、すごく苦手感があったんです。デビュー作の『FUTON』は、田山花袋の『()(とん)』を妻目線で書いたものなんですが、最初に『蒲団』を読んだときには、もう違和感がいっぱい。語り手は、「妻は教養がなくて、夫の小説を読もうともしない。子どもを育てることしか考えていなくて、アヒルのようにドタドタ歩く。それにくらべて、私を頼って田舎から上京した芳子は、新しい女で自分の文学がわかる」みたいなことを書いている。でも、じつはこの妻は、夫よりも物事がよく見えてたんじゃないかなと思ったんです。そんな感想がデビュー作の執筆動機につながったんですね。だから、すごく共感しながら北村さんの批評を読ませていただきました。
北村 中島さんも、同じだったんですね。私も中学生とか高校生ぐらいになると、本を読んでいて妙に引っ掛かるなと思うことがだんだん出てきたんです。でも、それがなにかわからず、もやもやしていました。そんな時期に出合ったのが、ボーボワールの『第二の性』です。読書家だった大おばが残してくれた蔵書の中の一冊でした。有名な本らしいから読んでみようと手にとっては見たものの、当然歯が立たない(笑)。
中島 『第二の性』に挑もうとしただけでも、普通の高校生じゃありませんよ(笑)。
北村 大学では文学を研究したいなと思っていて、自分のやりたいことはなんだろうと考えていたら、「何となく男性目線がしっくりこないんだ」とこれまでずっと引っかかってきた違和感の正体に気がついたんです。難解だったボーボワールともつながった。そこからフェミニスト批評へと入っていきました。
中島 お話を伺っていると、北村さんの中にあったフェミニストの種が、レオ様や大おば様の蔵書など、偶然の出合いから(ほう)()したんだということに驚きました。

ついこの間まで同性愛は違法だった

中島 ところで冒頭でのご著書では「批評はテクストを丹念に読むことから始まる」とお書きになっています。私はカズオ・イシグロの作品のファンで『わたしを離さないで』も何度か読み返しているのですが、主要な登場人物のエミリ先生とマダムについて、北村さんがご指摘されているようなレズビアンのカップルとして描かれていたということには、まったく気が付きませんでした。
Img_38032北村 エミリ先生のことをやたら「ストレート」という言葉を使って表現しています。日本語では「生真面目(きまじめ)な人」という意味で訳されますから、気づかないかもしれませんが、「ストレート」には「同性愛者ではない」という意味もあります。読者のミスリーディングを誘うような書き方をしていて、最後にエミリ先生がマダムのことを「ダーリン」と呼ぶところでレズビアンだったことを明かす。カズオ・イシグロらしいテクニックだと思います。日本語版ではその箇所が明確に訳されていないのも、わかりにくい理由です。レズビアンであることをあまり明示してもいけないので、訳者の方はさらっと流したのだと思うんです。
中島 なるほど。そんなしかけが隠されていたんですね。今度原文で読み直してみます。作家は、わかる人はわかってくれと思って書いているけれど、すべての読者がわからないといけないとは思ってはいない。だからこそ、読み込んで発見する喜びがあるんですね。
北村 批評家は原作にない展開は持ち込めませんから、ひたすらここがおかしい、ここがつまらないと、突き詰めて考える必要があります。小説家の方は、クリエイティブな自由度が高いなと、いつもうらやましく思っています。
中島 私も批評家の方の読み方に対して、すごく新鮮な興味を持ちました。重箱の隅だけではなく、あらゆるところをつついてみる。するとその作品に隠されていた意外なものが現れてくる。それこそ読解の(だい)()()であり、本質なんだと思います。
北村 批評には、厳しいルールのゲームを攻略していくような面白さがあります。よくわからないなと思ったことをひたすら考える。それが何かわかったときの達成感が、さらなる深みを目指す原動力になっているのかもしれません。また批評だと、わかり方が一つではなくて、例えば自分がこうわかったとしても、別の先生は違うふうに理解しているかもしれない。私も学会などで自分以外の人の考え方も聞くと視野がぐっと広がって、さらに面白くなります。
中島 深く読んでいる同士ならではの意見交換ですね。興味深いです。逆にフェミニスト批評という枠をはめて読むと、そこに閉じ込められてしまうような不自由さはありませんか?
北村 私はフェミニスト批評を専門にしていますが、それ以外の切り口も普通に使います。今回の本は一番得意なフェミニスト批評を使っていますが、必ずしもすべてフェミニスト批評で読み解かないといけないわけではないので、特に不自由さは感じていないかなと思います。
中島 そうすると、自分の中にいろんな読み方のスキルみたいなものがあって、この作品はこういうふうに読むと面白いんじゃないかと、常に考えていらっしゃるんですね。批評を使うと、嫌いなものも面白く読めると書かれている意味がわかりました。これは、人間関係にも応用できますよね。
北村 確かに(笑)。
中島 ご著書で、取り上げられていた題材の中で特に興味深かったのが、ホモソーシャルの話です。
北村 映画の『バニシング・ポイント』を批評した章ですね。
中島 残念ながら映画自体は観ていないのですが、北村さんの批評を読んで、フェミニストという視点から見ると、この映画の中の男性二人の関係はこう読み解けるんだと、すごく興味がわいてきました。
北村 盲目のDJがラジオを通して、悪徳交通警察隊に追われるドライバーをひたすら応援するという話です。しかも二人は、一度も会ったことがない。
中島 DJは警察無線を傍受しているから、ドライバーの様子を知ることができるけれど、ドライバーはラジオから聞こえてくるDJの声だけ。二人の間には、対話の方法はないんですね。でも次第に、両者の間に通じ合うものが生まれてくる。そんなホモソーシャルな関係が腐女子にはたまらないと、北村さんは分析するわけです。
北村 ホモソーシャルというのは、恋愛や性的な意味合いを持たない同性間の結びつきのことで、ホモセクシュアルとの間には明確に線がひかれています。
Img_38058中島 だからこの映画ではゲイのカップルが出てくる場面は、嫌な感じの表現になっているのだと。作り手には、二人の関係がゲイ的だと読まれたくないという意図があったのでしょうか?
北村 多分それもあると思うのですが、この映画は一九七一年の作品です。欧米では最近まで、同性愛は認められていなかった。当時、同性愛=堕落だと考えられていました。そういう時代性もあると思います。主人公がゲイのカップルにひどい目に遭わされそうになるシーンがあるのですが、ちゃんと逃れられる。堕落した悪いことから逃れて、清らかなままでラストまでいきますということを、何となく暗示しているんだと思うんです。
中島 そうですよね。LGBTに関しても欧米は進んでいるという、ありがちな固定観念があって、ついゲイもレズビアンもあたりまえに市民権を得ているように思ってしまうんですが、違うんですよね。たとえば大ヒットした映画『ボヘミアン・ラプソディ』でも、フレディ・マーキュリーが生きたのは、ついこの間まで同性愛が違法だった時代。そういう背景を改めて知ると、映画に対する見方も変わってきますね。
北村 卒論指導をしていると、最近の学生はLGBTブームを経ているので、昔はアメリカやイギリスでも同性愛は違法で、逮捕されたりしていたんだよと話してもピンとこない人が多い。若い人たちに歴史的なコンテクストを知ってもらうという意味でも、昔のことを描いた映画を観るのは、すごく有益だと思っています。

バーレスクから()る、多様性の本質

中島 書籍や映画、演劇の他に、「バーレスク」も取り上げられているんですね。仲のいい編集者の方が、最近バーレスクにはまっていると言ってましたが、じつは私、それまでそういうものがあることも知らなかったんです。北村さんのバーレスク評を読んで、とても面白そうだな、これは一度観に行かなきゃと思いました。
北村 ぜひ、ご一緒しましょう。私もイギリスで初めて観たときは、周りの観客、それも女性たちが大喜びしている意味が全然わからなかったんです。なぜこんな謎のショーが女性たちに人気なのか。探ろうと、通っているうちに見事にはまってしまったんですけれども(笑)。
中島 俗に言うストリップとは違うんですよね?
北村 脱衣を伴うセクシーなショーというカテゴリーでは同種かもしれませんが、バーレスクは、バレエやベリーダンス、お笑いや空中ブランコなどいろんなパフォーマンスが組み合わされたステージが展開されます。わずか五分くらいの間に、しかも服を脱ぎながら、ここまでいろいろな演目ができるのかと、毎回驚かされます。
中島 しかも完璧な美しい肉体の人だけではなく、様々な体の人がパフォーマンスを行うそうですね。
北村 ものすごく大きい人から痩せている人まで、いろいろな方が登場します。どんな体でも見せ方によっては、驚くほど美しく見えるんです。
中島 それこそが、多様性の本質かも。実際に目の当たりにしたら、すごく感動すると思います。
北村 バーレスクを観ると、普段私たちが美しいなと思っている体は、すごく限られた見方だったんだと感じます。
Img_38002中島 人間は誰でも美しい、そう()(れい)(ごと)を聞かされても、心の中ではチッチッと舌を打っているようなことがありますよね。でも批評と同じで、この角度から、こういう視点で観ると全然違うでしょうというのは、すごく新しい発見だなと思いました。
北村 日本では芸術的に美しく見せるものが多いのですが、私がイギリスで観たときには、驚くほど巨体の人が出てきて、風変わりなパフォーマンスを行っていました。さまざまな国から来たいろんな体形や容貌の人たちが、自分たちの文化を持ち寄って独自のパフォーマンスを行う。それによってバーレスクが変化し、すごく面白くなってきたんだと思います。日本にもいろんな国の人が増えてきているので、これからもっと多様な文化を持ち寄って、日本では考えられないようなショーを行う。そういう風景がどんどん見られるようになると思います。
中島 お話を伺っていて、見方が変わるというか、自分の中のこうだと思っていた固定観念みたいなものが壊される感じがします。だんだん(とし)をとってくるとものの見方が固まってくるので、このまま北村さんにめちゃくちゃ壊されてみたい感じがしてきました。
北村 まず、生のバーレスクを鑑賞するところからですね!(笑)
中島 バーレスクは一度廃れて、近年復活したということですが、なにか原因があったのですか。
北村 映画などでも激しい性描写が許されるようになったので、バーレスクの刺激が物足りなくなったのかもしれません。しかし九〇年代ぐらいになると、過激なだけの性表現に少し飽きた人たちが出てきた。バーレスクなどレトロな文化を面白いなと思い、表現の中に取り入れ始めます。あからさまに見せないようにすると、いろいろな工夫が必要になります。そういう表現手法が観客に刺さり、ネオバーレスクとして復活してきたのだということです。
中島 世界中のあらゆるものがインターネットを通してバーチャル体験できる世の中ですが、こういう素晴らしいショーの情報が伝わると、純粋に生で観てみたいという人が増えてくるでしょうね。
北村 ライブエンターテインメントはオンライン配信が出てきたら終わるんじゃないかと、みんな心配していました。しかし、一向にそういう気配がない。演劇や音楽をやっている人は、安心してよいと思います。
中島 (拍手!)実体験に勝るものはないんです。さぁ、ネットを捨てて、街に出よう!(笑)
 

構成・片原泰志

プロフィール

中島京子(なかじま・きょうこ)

1964年東京都生まれ。1986年東京女子大学文理学部史学科卒業後、出版社勤務を経て独立。1996年にインターンシッププログラムで渡米、翌年帰国し、フリーライターに。2003年に『FUTON』でデビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞受賞。2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞受賞。2015年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ作品賞、柴田錬三郎賞を受賞。『長いお別れ』で中央公論文芸賞、翌年、日本医療小説大賞を受賞。最新刊は『キッドの運命』。

北村紗衣(きたむら・さえ)

1983年北海道士別市生まれ。専門はシェイクスピア、フェミニズム批評。東京大学大学院修士課程修了後、キングズ・カレッジ・ロンドンにて博士号取得。現在、武蔵大学准教授。シェイクスピアや舞台芸術史、フェミニスト批評を専門としている。ウィキペディアの執筆者・編集者(ウィキペディアン)であり、「英日翻訳ウィキペディアン養成プロジェクト」などに携わる。著書に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(第14回女性史学賞)、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』。

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