『82年生まれ、キム・ジヨン』の翻訳者・斎藤真理子が語る、韓国文学の根底にあるものとは。韓国文学に触れることは、明日の日本を考えるメルクマールになる。 連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:斎藤真理子(翻訳者)

韓国でベストセラーとなり、日本でも「等身大の女性を描いている」と大きな話題となった小説『82年生まれ、キム・ジヨン』。文学的な視点から見ると韓国と日本の距離はぐっと親密になっています。この本の翻訳も手がけ、今や現代韓国文学紹介のトップランナーと言われる斎藤真理子さんに、韓国文学の「現在」についてお聞きしました。

 


連載対談 中島京子の「扉をあけたら」
第三十六回

文学は海峡を越える
ゲスト  斎藤真理子
(翻訳者)


Photograph:Hisaaki Mihara

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斎藤真理子(左)、中島京子(右)

中島 斎藤さんは韓国文学専門の翻訳者として精力的にお仕事をされていて、昨年から今年にかけても多くの翻訳書を出されています。そもそもどういうきっかけで韓国に興味を持ち、翻訳を手がけようと思われたのですか。
斎藤 私たちの学生時代には、まだ第二外国語として朝鮮語がある大学はほとんどありませんでした。隣国ながら、詳しく知る機会もあまりなかった。当時私は明治大学に通っていて女性問題のサークルに参加していたのですが、たまたま隣の部室に、朝鮮語を第二外国語として採用せよという活動をしているグループがいたんです。
中島 私は斎藤さんよりすこし下なのですが、当時はまだまだアジアに目を向ける人は少なかったですね。
斎藤 一九八〇年、私が大学二年生のときに、韓国で光州事件(5・18光州民主化運動)が起こりました。軍隊による徹底的な弾圧が行われ多くの人が殺害されました。当然、日本の学生の間でも大きな話題になった。私も先輩に誘われて、学外の市民グループが行っていた光州事件を考える集会に参加したんです。
中島 韓国は民主化されて、まだ三十数年。ついこの間まで軍事独裁だったなんて、今の日本の若い人たちは信じられないでしょうね。
斎藤 ほんとうにそうですね。その後韓国は、八八年のソウルオリンピックの開催を前にして、民主化へと(かじ)を切っていくわけですが、それより前の八〇年代前半は一体何が起こっているのかよくわからなかった。勉強会を重ねていくうちに、激動する隣国のことをもっと知りたいと思うようになりました。じつは、その集会で隣に座っていた先輩が、さらさらとハングルでメモを取っていたんです。誰も書けないような字を書けるのは、かっこいいなと思った(笑)。朝鮮語に興味を持ったのは、それが具体的なきっかけかもしれないです。
Img_36020中島 かっこいいというのは、純粋な衝動ですものね。でも、そこから翻訳者へと進まれたのはすごいことだと思います。そして斎藤さんたち翻訳者の長年の努力もあって、最近では韓国文学が当たり前のように書店に並ぶようになりました。
斎藤 韓国文学が注目を集めるきっかけになったのは、二〇一六年にハン・ガンさんの『菜食主義者』が英国のブッカー国際賞を受賞したことでしょう。
中島 世界的にも権威のある文学賞を、アジア人として初めて受賞された。まさに快挙ですよね。
斎藤 運がいいことに、日本国内では二〇一一年にきむ ふなさんの翻訳で出版されていました。アジア人の作家が初めてブッカー国際賞を受賞したというニュースが伝わったときに、すぐに日本語訳で読むことができた。それともうひとつ、二〇一五年に第一回日本翻訳大賞をパク・ミンギュさんの『カステラ』(訳 ヒョン・ジェフン/斎藤真理子)が、チェコの小説と並んで受賞した。その二つが大きな契機だったと思います。

 

韓国のフェミニズム小説が、日本でも話題に

中島 そして韓国小説ブームを決定づけた作品が、二〇一八年末に刊行された『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ/訳 斎藤真理子)です。韓国では社会現象になるほどの大ベストセラー小説だとお聞きしました。
斎藤 以前からなにかいい作品があれば紹介してほしいと編集者に頼まれていたんです。そこにこの作品が登場した。儒教的な家父長制や男尊女卑の時代を経てなお現代にはびこる女性蔑視の風潮。韓国の女性たちがどんな苦労をしてきたのかを、文芸という枠ではとらえきれないような独特のスタイルで描いています。この作品は、日本でもフェミニズムに関心のある人たちの間で話題になると思い企画を立ち上げました。翻訳して出版の準備をしているときに、財務省の福田淳一事務次官(当時)の女性記者に対するセクハラや、伊藤詩織さんのレイプ告発などがメディアで大きな話題になり始めた。
中島 世界中で、女性たちがハラスメントに対して声を上げた#Me Too 運動などとも重なったんですね。
斎藤 そして、東京医科大や順天堂大学医学部の不正入試が発覚しました。
中島 女子受験者の得点が一律に減点されて男子学生を優遇していたという、とんでもない事件ですよね。女性医師が結婚や出産で離職すれば、系列病院の医師が不足するおそれがあるという、旧態依然とした理由で。日本社会の女性差別体質が露呈した事件です。
斎藤 順天堂大学に至っては、女性のほうがコミュニケーション能力が高いから面接に有利なので、得点を低く補正した、というとんでもない言い訳が報道された。その発言と同時ぐらいに『82年生まれ、キム・ジヨン』が発売され、カンカンに怒っていた女の子たちの共感を得たんだと思います。
中島 ある意味、待たれていた邦訳だった。
斎藤 じつは日本のK‐POPファンたちはこの作品のことを、よく知っていたんです。RED VELVETというグループのメンバーであるアイリーンがファンミーティングで最近読んだ本を聞かれて『82年生まれ、キム・ジヨン』と答えたんです。韓国のアイドルは、みんなよく本を読みます。アイリーンは、「読んだ」と言っただけで感想も述べなかったのに、その発言を聞いた男性のファンが、アイリーンがフェミニスト宣言をしたぞとバッシングし始めた。韓国でのフェミニストは、日本とはちょっと違い、社会にもめ事を持ち込む人のようなマイナスイメージが強かったので、彼女をディスる行為を写真や動画に撮って、インスタグラム(画像共有サービス)に上げる男性がいたんですね。そういう背景もあって、日本でも彼女がいじめられるきっかけになった本はいつ出るの、という声は高まっていたんです。
中島 出版直後の日本での反応はどうでしたか?
Img_36104斎藤 日本では、男性読者にディスられることもなく、「これは男性こそが読むべき本」などと、とても好意的な反応が多いですよ。
中島 主人公のキム・ジヨンが、そんなに激しい人じゃないから、同情を寄せやすいのかもしれません。フェミニズム理論で理詰めに責め立てるようなタイプではありませんものね。
斎藤 韓国では、キム・ジヨンが情けないから嫌だという感想を持つ人もいるぐらい。私が読んでも、韓国の女の子はもっとはっきり意見を言うよね、と思うほどもどかしい。でも、あえてそういうキャラクター設定にしたのだと、著者のチョ・ナムジュさんも書いています。チョ・ナムジュさんは一九七八年生まれですから、キム・ジヨンは四歳年下。彼女たちは、自分たちの世代よりもはっきり物を言わない世代なのだと言っています。でも、それは時代がそうさせているのだと。胸にたたんでいる人の声は、肉声でも聞こえないし、活字にもならない。だからこそチョ・ナムジュさんは、あえてそこをクローズアップしたのかなと思います。
中島 そのたたみ方が、やや、日本女性っぽいというか……。
斎藤 似ていたと思うんですよね。日本の読者でも、泣いちゃったっていう人が、多くて。みんな我慢していたんだねと思うと、なんだか申し訳なくて……。
中島 日本の女性作家もずっと書いているテーマではあるのですが、書き方はこんなにストレートではない。日本では問題意識がはっきり出る小説は、文学的ではないと嫌われる傾向もあって。
斎藤 わかります。韓国でも同じです。『82年生まれ、キム・ジヨン』も、社会的な意義、政治的な意義は、非常に大きいが美学が足りないと批判されました。でも、チョ・ナムジュさんは、そういう意見は真正面から受け入れた上で、フェニミズム作家と呼ばれることに抵抗はないと発言しています。自分の役割を(つか)んだら、そこからはぶれない。肝が据わっている作家だなと、感じます。
中島 すてきな方ですね。私も機会があればお会いしてお話を聞いてみたくなりました。なぜ、この作品が韓国の読者の心をとらえたのだと思いますか。
斎藤 今、韓国で「あなたはフェミニストですか」とアンケートを行うと、YESと答える人が予想以上に多い。何年か前と比べると、相当増えているという調査結果を見たことがあります。でも社会全体としては、フェミニストという言葉にまとわりつく空気はまだ否定的なものが多い。そんな中、自分たちの娘にはこういう思いをさせたくないと『82年生まれ、キム・ジヨン』を評価する男性たちも増えてきた。韓国のある国会議員は、この本を自腹で三百冊買って、全議員に配ったそうです。
中島 お父さん世代の、男性議員が。日本にはそういう度量のある議員さん、いないですよね。ぜひ見習っていただきたいです。
斎藤 しかもその議員さんは、一冊一冊に「キム・ジヨンをハグしてください」という意味のメッセージをつけていたそうです。自分の娘のことのように、彼女のことを考えてあげましょうというニュアンスで、韓国人らしいとっても情のある表現です。
中島 いろんな意味で日本とは違うなあ。
斎藤 そういう良心的知識人に一定の支持が広がる一方で、韓国社会の中で確固たる居場所のない若い非正規雇用の男の子たちの中には、女どもの機嫌を取るために政治に利用していると、反感を(あらわ)にする人もいます。持つものと持たざるもの、どちらにも言い分はあるし、いい悪いでかたづかない。韓国社会のいろんな層の利害がぶつかるその真ん中に『82年生まれ、キム・ジヨン』が登場した。その意味を直視して考えることが、これからの韓国社会にとっても重要なのだろうと思います。

 

暴力の記憶を空気のようにまとって書く

Img_36049中島 最新作であるハン・ガンさんの『回復する人間』。読んでいて何度も心が痛くなるような、そして重いものを渡されたような感じがしました。
斎藤 『回復する人間』は、そのタイトル通り身体的な病気や大きな怪我、精神的なダメージ、立ち直れないような人間関係の亀裂、そういうものから回復する過程を描いた短編集です。十年に(わた)って書かれた作品を編集したものですが、どの作品にも同じテーマが貫かれている。(すご)みと繊細さを兼ね備えた描写力がすばらしいのです。
中島 確かにこの小説には、登場人物の傷を作者がいったん引き受けてしまっているような覚悟を感じます。
斎藤 ハン・ガンさんご自身にも闘病経験があるからなのか、傷を負った人たちの描写にひしひしとくるものがあるんですね。『菜食主義者』もそうでしたが、ハン・ガンさんの小説に出てくる登場人物には、けっこう極端な行動を取る人が多い。そして登場人物の傷を作家自身が引き受けて、そこをいったん閉じてしまう。閉じ方の生命力が強いので、そこから希望にむかって開かれていくときのパワーも非常に強い。そういう魅力のある作家だと思います。
中島 ハン・ガンさんに限らず、韓国の小説や映画には直接的に肉体が傷つけられる感覚を描くことが多いように感じるのですが……。
斎藤 確かに、痛覚がありますよね。小説にしろ映画にしろ、そこには身体性のようなものを感じます。ひりひりするような刺さりかた。ハン・ガンさんの作品に代表されるこの痛覚が世界に通じる痛覚になった。それが韓国文学が世界文学の仲間入りした理由ではないかと思います。
中島 韓国文学に通底するその痛覚は、何に起因するものなのでしょう。
斎藤 韓国社会が受けてきた、圧倒的な暴力の記憶だと思うんです。例えば、植民地時代の記憶。言葉を奪われ、民族のプライドを奪われる。植民地というのは、精神的な暴力装置です。それを例えばおばあさんの世代が経験したとすれば、お母さんの世代は、同胞が南北に分かれて戦った、悲惨な朝鮮戦争を経験している。そして、さらに軍事独裁政権下での弾圧。暴力の記憶って、一代じゃ終わらない。韓国の人々の心の奥底には、重層的な暴力の記憶が積み重なっているんです。それは民主化されたからといって、かんたんに消えるものではありません。
中島 韓国の人々の中で、暴力の時代は決して終わっていない。
斎藤 人はもちろん、土地そのものの記憶になっているのでしょう。三十~四十代の作家も、暴力の記憶を空気のようにまとって書いています。それを通過した上での、痛覚であり生命力だと思うんです。

 

徴兵制は誰もが巻き込まれる“大きな物語”

中島 斎藤さんは、韓国での女性バッシングの根っこには、徴兵制があるからだろうとも発言されていますね。
斎藤 日本の男性には、兵役がありません。だから、自分たちがすごく損をしながら女性や子どもたちを守ってやっているんだ、という意識を持たなくてすんでいる。誰だって、兵役は嫌です。しかし韓国の人にとって、徴兵制は誰もが関係している“大きな物語”ですから。
中島 兵役拒否は懲役刑ですものね。特権階級の人の中には、両方とも逃れられる人もいるかもしれないけど。
Img_36072斎藤 身体的理由での兵役免除もあるし、確かにお金や権力にものをいわせて逃れる人もいます。ただ、兵役を終えて一人前の男だという雰囲気が社会にありますから、彼らにはコンプレックスもあると思いますね。一方で、若い女性たちに聞くと、兵隊に行きたくないんだったら行きたくないときちんと運動を起こして主張すべきじゃないかという意見も出てきています。それに対して、すごくもやもやした思いが男の人の中にはあると思うんです。もし兵役が、徴兵制ではなく志願制になったら、韓国の社会は劇的に変わると思います。
中島 南北統一は政治体制や経済格差などのさまざまな問題があって難しいけれど、徴兵制に関しては各所で議論が始まっていると、韓国の友人に聞きました。
斎藤 南北統一には、途方もないコストがかかります。南北の経済格差は膨大と言われる中、韓国側がどれぐらい経済的な犠牲を払わなければいけないのか。性急な統一より平和共存、相互交流を深めていく中で徐々に門戸を開いていけばよいではないかという議論はずっとされています。
中島 でも徴兵制については、変えられるなら変えたい人が多いということでしょうか。
斎藤 もちろんほとんどの人が国民の義務として受け入れていますが、同時に、常に議論がなされてきました。大学に入学して二年生に進んだ頃、二年間の兵役が課せられる。兵役を終えて復学し、卒業するときはもう二十五歳ぐらいになっているわけでしょう。二十代の貴重な時間を国が奪ってしまう。
中島 国の経済にとっても、文化にとっても大きな損失ですよね。
斎藤 兵役を終えた男性が公務員に就職する際に有利になる優遇措置があった時代もありました。でも、キム・デジュン(金大中)政権のときに、それは女性差別だという批判が出て優遇措置を廃止したんです。男性側からしてみると、女性たちは軍隊にも行かないで何の不満があるんだという感覚があって、それがフェミニズムへのバッシングにつながっているのだと思います。冷戦構造が崩壊してから、徴兵制をなくした国は多い。なぜ韓国だけ、という不満を持っている若者は多いと思います。
中島 韓国にはキム・ジヨンのような女性差別がある一方で、日本のメディアではナッツ姫のような女性のイメージも強いのですが。
斎藤 韓国では少数の財閥が経済を独占する割合が大きいですよね。そんな支配層の中に女性がたくさんいるんです。ナッツ姫は大韓航空の創業者一族の娘です。大企業の奥さん、娘さんたちはよく、文化財団などを作ってトップに座る。表舞台にもどんどん出てきて派手に振る舞います。一般市民は良い感情は持ちません。
中島 キャラ立ちするのでバッシング対象になりやすい(笑)。
斎藤 確かに(笑)。階級社会と徴兵制が、日本と韓国の大きな違いですね。日本も今後どうなるかはわからないですが……。
中島 韓国には徴兵制がなくなり、日本で復活なんてことにならないといいけど(笑)。
斎藤 それはないでしょうが、まあ、何が出てきてもおかしくないぐらい日本は変わっていると感じます。
中島 オリンピックで旭日旗を揚げようと言ったりする日本の状況は異常です。そんな中で、韓国文学がじっくり読まれているのは、救いだと感じていて、K‐POPも韓流映画もですが、文化交流の意義深さを改めて考えさせられました。韓国の文学に触れることは、ただ隣国の文化を知るだけではなく、明日の日本を考えるメルクマールになるのだと思います。
 

構成・片原泰志

プロフィール

中島京子(なかじま・きょうこ)

1964年東京都生まれ。1986年東京女子大学文理学部史学科卒業後、出版社勤務を経て独立。1996年にインターンシッププログラムで渡米、翌年帰国し、フリーライターに。2003年に『FUTON』でデビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞受賞。2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞受賞。2015年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ作品賞、柴田錬三郎賞を受賞。『長いお別れ』で中央公論文芸賞、翌年、日本医療小説大賞を受賞。最新刊は『夢見る帝国図書館』。

斎藤真理子(さいとう・まりこ)

1980年に大学のサークルで朝鮮語の勉強を始め、91~92年、ソウルへ語学留学。2015年『カステラ』(ヒョン・ジェフンとの共訳)で第1回日本翻訳大賞。訳書『こびとが打ち上げた小さなボール』(チョ・セヒ)、『フィフティ・ピープル』(チョン・セラン)、『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ)、『回復する人間』(ハン・ガン)など多数。韓国を語らい・味わい・楽しむ雑誌『中くらいの友だち』(韓くに手帖舎・皓星社)創刊メンバー。趣味は編物。

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豪華執筆陣による小説、詩、エッセイなどの読み物連載に加え、読書案内、小学館の新刊情報も満載。小さな雑誌で驚くほど充実した内容。あなたの好奇心を存分に刺激すること間違いなし。

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