ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第十回 コロナ禍の葛藤

 

炊き出し相次ぎ自粛

 

 山谷の街を歩いていると、外出自粛が求められているにもかかわらず、よれよれの服を着た高齢者たちが路上に座り込み、缶酎ハイやカップ酒を手に、酒盛りする姿があちこちで見られる。周辺にはタバコの吸い殻も散乱し、どこからともなく小便臭さが漂ってくるのも山谷ならでの日常だ。だが、外国人観光客の姿はまったくと言っていいほど見掛けなくなった。その光景はまるで、外国人で賑わう以前の山谷にタイムスリップしてしまったかのようだ。

簡易宿泊施設が建ち並ぶ山谷地域
 

 そればかりではない。コロナによるもう1つの大きな影響は、山谷地域とその周辺で毎日行われていた炊き出しが、相次いで中止されたことだ。密集、密閉、密接の「3密」による感染リスクを避けるためだが、その動きは3月半ばから顕在化した。炊き出しを行う複数の教会や施設には、中止を知らせる紙が張り出された。東京都によると、界隈で暮らす路上生活者たちは約140人。炊き出しを拠り所にしている路上生活者たちからしたら、中止は死活問題にもなりかねないだろう。
 思い出すのは、昨年10月、台風19号が関東地方を直撃した時のことだ。路上生活者2人が台東区の避難所への受け入れを拒否され、国会でも問題化したことから、台東区が謝罪に追い込まれた。路上生活者ら社会的立場の弱い人たちは、災害などの緊急事態が発生した場合、セイフティーネットの網の目からいつこぼれ落ちるともしれない状態で、常に綱渡り人生を送ることを余儀なくされている。そうした現実が、今回のコロナ騒動による炊き出し中止で、あらためて浮き彫りにされた。
 3月半ばのある夕暮れ時、いろは会商店街の道端で、ビニールのテントをこしらえている小太りの中年男性がいたので、声を掛けた。
「俺は仕事に行っているから、炊き出し中止による影響は特にないよ。俺みたいなのもいるんだよ。炊き出しには行かないで、自分のメシをてめえで食っているようなのが。テントを張っている人よりは、段ボールを敷いて寝ている人の方が困っていると思うよ」
 野球帽をかぶり、黒いジャンパーを羽織ったこの男性は、こう言い放った。
「俺の場合、メシは弁当屋で買っているから。もらい物は必要としていない」
 少しとげのある言葉だ。仮に困っていたとしても、通りすがりのメディアの人間に、窮状を訴えるようなことはしないだろう。それが山谷に生きる男たちの不文律であり、またプライドでもあった。そんな私の胸の内を見透かすかのように、男性は言葉を継いだ。
「炊き出しがなくて困っている人のところに行っても、みんな本音は言わないよ。見栄っ張りだから。仕事していない人ほどそうだ。怠け者と思われるのが嫌なんだよ。話すとしても、他人のことを自分のことのように言ったりする。まず出身地なんて絶対に教えない。親兄弟のことなんて尚更だよ。仕事してるかしてないかぐらいは言うかもしんないけど」
 男性は職安などの公共施設を通じて、清掃関係の仕事に就いていると言った。路上で生活しているだけあってやはり、現場の事情には詳しかった。
「炊き出し以外で困っているのは、図書館が閉鎖されたことだよ。センターの娯楽室は日曜、旗日は閉まる。だから図書館に行くんだけど、そこも閉鎖されたら行く場所がねえんだよ。浅草のウインズも閉まってるから。商業施設は、ホームレスは目立つから行かない。行き場所がないんだよ」
 男性はまるで自分のことのように話した。
 センターというのは、公益財団法人、城北労働・福祉センターのことで、日雇い仕事の紹介や生活、医療相談などを行っている。その地下1階にあるのが「娯楽室」だ。利用時間は、日祝を除く朝から晩までで、テレビや本棚が備えられている。ところがこの娯楽室も、コロナの感染拡大を防止するため、4月3日から当面閉鎖された。憩の場として利用していた路上生活者たちは行き場所を失った。センター周辺には現在、そうした男たちが、時間を持てあまして路上に座り込んでいる。
 その中の1人に、私が以前、取材をしていた石川さん(仮名、61)がいた。当時は浅草界隈の路上で生活していたが、いつの間にか山谷へ移ってきたという。今も路上に段ボールを敷いて生活しているが、襟付きのシャツにスラックスといった小ぎれいな格好をしているため、一見するとホームレスに見えない。週に数日は派遣の仕事に通っているため、意識的に清潔感を保っているのだという。
「炊き出しが減ったから、食費を抑えています。百何十円するおにぎりは、50円のものにして、個数も3〜4個から2個に減らしました。カップラーメンも100円以下のものを買って食いつないでいます」
 石川さんはまだ働けているから、「胃袋に直撃」というわけではなさそうだ。それでも、炊き出しではひげ剃りや石けん、靴下などの日用品が配られるため、自粛による中止が相次げば、そのためのお金を捻出する工夫をしなければならない。
「私はまだいい方ですよ。バイトもできない高齢の野宿者はたばこも買えないからもっと大変ですよね」
 政府は現金10万円の一律給付を発表しており、路上生活者も対象だ。ところが住民登録をしていることが条件で、彼らの実態には即していない。
 石川さんは「給付の条件となっている住民票を持っていない。身分証もないから住民登録できない。10万円は欲しいけど、もらえるとは期待していない」ときっぱり。
 後日、再び話を聞いてみると、石川さんの状況に変化が起きていた。倉庫など密閉された派遣の現場に、感染を危惧した若者たちが働きに来なくなったというのだ。そのおかげで、仕事が回ってきたと喜んでいた。
「コロナバブルですね。現場は高齢者ばかりで、みんなアルコールを持参して消毒しまくっています。密閉空間は気にはなりますけど、お金がないと何もできないでしょ? それに還暦過ぎると恐い物なんてないですよ」
 そう言って石川さんは笑った。

優しい声で話す石川さんは温厚な人柄だ

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