ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第十回 コロナ禍の葛藤
「パトカーや救急車を呼んでいた」
小菅さんと初めて会ったのは、今から3年ほど前のことだ。その時に小菅さんが語った素直な思いが、印象に残っている。
「生活保護費から宿泊代をもらうのは、まともな仕事ではないなあと思っていました。区から支給されるお金がそのまま懐に入るのには、やはり抵抗がありました」
福祉宿にとっては耳が痛い話かもしれないが、実はカンガルーホテルの前身の老舗旅館「小松屋」も、かつてはそうだった。
小松屋は創業約100年。小菅さんの祖父母が明治後期か大正時代に入ってから創業したと言われるが、正確な時期は分からない。
小菅さんの祖父母は三重県出身だ。檀家だった浄土真宗の寺院が東京へ引っ越したため、一緒に上京したという。当初は南千住で下駄屋を営んでいた。やがて山谷へ移って旅館「小松屋」を始めることに。その後、大正12(1923)年の関東大震災、続いて戦時中の東京大空襲で二度にわたって焼失したが、昭和28(1953)年に再建された。木造建築の2階建てで、部屋数は12部屋。以来、2014年までそのままの姿で営業を続けたが、バブル崩壊以降は、仕事を失った生活保護受給者のたまり場と化した。最後の5年間は、カンガルーホテル本館との掛け持ち営業だった。
コロナ禍で対応を迫られたカンガルーホテル経営者の小菅文雄さん
小松屋の後期について、小菅さんはこう振り返る。
「日雇い労働をしていた宿泊者たちが、仕事がなくなって宿代を払えず、生活保護を受給するようになったんです。酒が入ると、日頃のストレスを発散させようと暴れる人もいましたし、不正受給っぽい人もいました。階段を転げ落ちて窓ガラスに突っ込んで負傷するなどのトラブルも起き、パトカーや救急車を頻繁に呼びました」
中には犯罪集団の一味だと自慢げに語る宿泊者もいて、旅館内にはいつしか不穏な空気が流れ始めていた。
「そういう人たちのお金で経営を続けることにやましさを感じたっていうか。それで生活保護受給者を対象にした旅館を閉めることにしたんです」
そうはいっても宿泊客を直ちに追い出すわけにはいかない。そこで小菅さんは、各区役所に相談し、問題を起こしがちな生活保護受給者を次々と別の施設に移送してもらった。そうして2014年春、創業100年の老舗旅館に歴史の幕が下ろされることになった。
その跡地には、カンガルーホテルの別館が建てられ、2016年冬にオープンした。あくまで一般の観光客をターゲットにしていたため、本館とともに生活保護受給者は受け入れなかった。過去の苦い思い出も重なり、それがカンガルーホテルの揺るぎないポリシーでもあった。ところが今回のコロナ騒動で一転、小菅さんは生活保護受給者を受け入れざるを得なくなった。
「1泊2300円まで値下げしてしまったら、本当はやっていけないんです。月々のローンの支払いには及ばない。少なくとも3000円ぐらいはないと。でもホテルの空気が止まるよりはと思いまして。運転資金が尽きないよう延命措置です。生きていくためには仕方がありません」
看板を出した日以来、生活保護受給者の宿泊客は少しずつ増えている。今後コロナが収束し、一般の観光客が戻ってきたとしても、生活保護の宿泊者とフロアを分けるなどして対応したいという。
「ホテルの倒産が相次ぐ中、この窮地を救ってくれた生活保護受給者を追い出すつもりはありません」