☆特別対談☆ 森見登美彦 × 辻村深月[15年目の原点回帰]
辻村深月の文体論と森見登美彦の物語性
──デビュー15周年のタイミングで、森見さんは誰も最後まで読んだことのない幻の本を巡る『熱帯』を、辻村さんは現代の婚活事情を題材にしながら現代人の肥大した自意識に斬り込んだミステリ『傲慢と善良』を刊行されました。お互いの作品をどのように楽しまれましたか?
森見
まぁ〜、怖かったです。
辻村
嬉しい(笑)。
森見
この本の前に、『ドラえもん』も出されているじゃないですか(※辻村が脚本を手がけた映画のノベライズ『小説映画ドラえもん のび太の月面探査記』)。そちらでは『のび太の大魔境』だとか『のび太の宇宙開拓史』とか、僕たちが子どもの頃に観ていた大長編の要素もちりばめつつ、実に『ドラえもん』らしいお話を書かれていた。その後で『傲慢と善良』を読んだこともあり、お話といい文章といい辻村さんらしい、というか辻村さんそのものという感じがしました。
辻村
『ドラえもん』で心を温めておいて、次は心をえぐるんだ、ということですよね(笑)。
森見
本領発揮だぞ、と。例えば主人公の男の子に向かって、女友達が彼の婚約者の「本性」について言い放つシーンがありますよね。主人公が「あ、あ、あ……」という感じで言葉がなくなるところで、自分も息が止まりそうになりました。辻村さんの文体は、主人公の息遣いにピタッと寄り添うというか、スーッと主人公の心の内側に入りこんでいって、その人物の体験の質をものすごく自然に、立体的にかたち作ってしまう。だから読み手は、主人公の内面そのものを疑似体験できる。お話の構成自体は、シンプルじゃないですか。
辻村
そうですね。前半ではカードを伏せてそこに何が書いてあるのかなと想像させ、後半でカードをめくるという二部構成を敷いています。
森見
構成のシンプルさを考えると、これだけ迫力ある小説に仕上げるのは至難の業だと思うんですよ。辻村さんの文体があればこそ、と感じたんです。こんなふうに人物の内側をきめ細やかに、かつ自然に織り上げていく文体というのは、僕にはまったく一生、手の届かない領域です。
辻村
森見さんの文体は、読み終えた後に体に残るというか、思考をする時に森見さんの文章っぽくなる。ものすごく作家性のある文体をお持ちの方だなと思い続けています。その森見さんに、文体のことを褒めていただけるのは光栄ですね。
森見
自分は最近、特に『熱帯』あたりでは、世界の側に意識が向かいすぎて、人間がどんどん希薄になっていっていた。人間というものを濃密に描く『傲慢と善良』を読んで、おおいに反省しました。
辻村
おこがましい言い方に聞こえたら申し訳ないんですが、私は自分を「自他とも認める秀才タイプ」だと思っているんですね。天才の人たちには圧倒的に敵わない。私が思う天才の一人が、森見さんなんです。文体や作品内容はもちろんのこと、森見さんが『夜行』とか『熱帯』とかを出して、その年の話題をさらっていくのを見ると、「あぁ、天才は数年に一回出したものでみんなの心を持っていけるんだ」と羨ましくなるんですよ。森見さんにしか書けないあの物語を、みんながずっと待つ。年に何冊も出している自分はつくづく、天才になれずもがいている秀才だなと、実はコンプレックスを刺激されているんです。
森見
いやいや、このクオリティで年に何冊も出している辻村さんのほうが天才でしょう‼
辻村
私は求められることをしてしまう、つまらない人間なんですよ。律儀に締め切りを守ってしまうところも、天才とはほど遠いです。破天荒な作家への憧れがありました。
森見
天才の定義がちょっと変わってきたような……(笑)。
辻村
でも、そういった天才への憧れも、15年の間にだんだん折り合いがついてきました。私は優等生から逃れられないタイプですが、自分には無理だとわかるからこそ、天才のどこがすごいかも人一倍わかるし、そこから学べることも多い。秀才には秀才なりの戦い方があるんですよね。そこにプライドを持ってやっているところがあります。
森見
僕は最近、井伏鱒二の全集を読んでいるんですが、我々がよく知っている代表作以外にも、すさまじい量を書いてることに圧倒されます。自戒を込めて言いますが、量をないがしろにしてはいけない。量の上に、質が生まれるんです。