ヘレンハルメ美穂『アフガンの息子たち』
水面にかすかなざわめきを残して消える石
タイトルは『アフガンの息子たち』冒頭章の一節です。この小説は私にとって、読む前の予想と本を開いてからの印象がまったく異なる作品でした。アフガニスタンからひとりきりで難民として逃れてきた少年たちと、彼らが入居している施設の職員の物語。その背景にあるのは、2015年に中東やアフリカ、南アジアから膨大な数の難民がヨーロッパに流れこんだ、いわゆる〝難民危機〟です。
あの時期のことはいまもよく覚えています。私が住んでいるスウェーデン南部の都市マルメはデンマークとの国境付近に位置しているため、いつも使っている駅は、スウェーデンをめざして南からやってきたのであろう人々でごった返していました。駅のそばに急ごしらえの受け入れセンターができ、難民への連帯を示す大規模デモがさかんに行われましたが、時が経つにつれてその熱も冷めていき、それまでにはなかったデンマーク国境でのパスポートチェックが導入されもしました。あの日々を経て、スウェーデンの難民政策は大きく変わりました。
当時のざわついた雰囲気を思うと、この小説の静けさがはじめは意外でした。文章は淡々としているし、たっぷりと取られた余白が沈黙を感じさせる本です。が、読みすすめるうちに、行間にこめられたものが少しずつ見えてきました。少年たちの壮絶な過去、彼らが抱えている不安や悲しみ、ときおり見せる子どもらしい甘え。職員たちの一見事務的な対応の奥に隠された葛藤と迷い。制度の限界の中でせめて心を寄せたい、力になりたいとは思うものの、そう思えば思うほど無力感に襲われる。世界の構造が変わらないかぎり人々の苦しみは終わらない。それは、いまなお戦争のやまない2024年のこの世界で、一般市民である私たちがみな痛いほど感じていることではないでしょうか。
とはいえ、この小説から伝わってくるのは現実の残酷さだけではありません。少年たちの日々には穏やかさもユーモアもあります。なにかの縁で目の前にいるひとりに寄り添えたなら、それで世界は変わらないにしても、その人の世界は変わる可能性がある。物語がもたらす救いが、無力感にとらわれた心を静かに癒してくれる。それは偽りの癒しかもしれませんが、なければだれも前には進めません。
たとえ現実世界の海にそのまま沈んで消えてしまったとしても、読んだ人の心にはかすかな波紋を残していく、つるりと美しい小さな石のような小説です。
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『アフガンの息子たち』の著者エーリン・ペーションさんから
日本に届いたインタビュー動画です。
ヘレンハルメ美穂(Miho Hellén-Halme)
国際基督教大学卒、パリ第三大学修士課程修了、スウェーデン語翻訳家。S・ラーソン『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』、N・ナット・オ・ダーグ『1793』など、訳書多数。
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著/エーリン・ペーション 訳/ヘレンハルメ美穂