連載第3回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第3回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない――!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『魔界転生』
(1981年/角川春樹事務所・東映/原作:山田風太郎/脚色:野上龍雄・石川孝人・深作欣二/監督:深作欣二) 

映像と小説のあいだ 第3回 写真1「魔界転生」
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販売:東映 発売:東映ビデオ

「エロイムエッサイム! 我は求め訴えたり!」

 映画『魔界転生』は、天草四郎(沢田研二)の妖術により蘇った柳生但馬守宗矩むねのり(若山富三郎)、宮本武蔵(緒形拳)、細川ガラシャ(佳那晃子)、宝蔵院胤舜ほうぞういんいんしゅん(室田日出男)、伊賀忍者・霧丸(真田広之)ら魔界衆と、柳生十兵衛(千葉真一)との死闘を描いた、超大作時代劇である。

 原作は山田風太郎の『おぼろ忍法帖』(※公開時に映画と同名に改題)。歴史上の出来事を、その裏側でうごめく忍者や剣豪や妖術士たちの奇想天外な活躍、そして無惨な死ともに描き出す、「山田忍法帖シリーズ」の一本だ。

 原作も映画と同様に、この世に未練を残す剣豪たちが妖術により蘇り、柳生十兵衛と戦う――という展開になっている。だが、両者の共通点は、ほぼそれだけだ。

 原作の首領は天草四郎ではく、謎の妖術師・森宗意軒。四郎は、宗意軒による秘術「魔界転生」によって蘇った魔界衆の一人に過ぎない。島原の乱を率いていた宗意軒は、新たに由井正雪を軍師に据え、紀州藩主・徳川頼宣の野心につけこんで江戸幕府への復讐を企む。そして、腕前を自負しながらも不遇をかこち、無念の想いを胸に死を迎えつつある剣豪たちを《「転生」によって欲望を叶えさせる》と言葉巧みに誘い込み、手下にしていく。天草四郎、原作と同じく柳生但馬、宮本武蔵、宝蔵院胤舜に加え、荒木又右衛門、田宮坊太郎、柳生如雲斎の計七人が、これに加わった。

 一方、映画には宗意軒、正雪、頼宣という原作の黒幕的な悪役が登場しないため、全く異なる展開になっている。

 やくざ映画の頃から一貫して「繁栄から取り残された者による、破れかぶれの大暴れ」を描いてきた深作欣二監督と、「アナキスト」を自称する脚本家の野上龍雄。そんな二人が組んだのだから、紀州頼宣という権力者が主導するドラマになるはずもない。映画での天草四郎は、島原の乱での信徒たちの死屍累々を前にして、神に怒り、神に絶望する。そして、悪魔に魂を売り、妖力を手に入れ、幕府に立ち向かう。

 彼は権力者にとってかわる気はない。目的はこの世を業火で焼きつくし、地獄絵を現すこと――。そんな、アナーキー極まりない物語へと大幅に脚色されている。

 深作=野上のアナーキーぶりは、前半から存分に発揮される。原作での宗意軒は政治的な駆け引きもしていたため、その動きはじれったいほどに慎重だった。が、映画の天草四郎はそうではない。原作で長い時間かけても実現できなかった幕府乗っ取りを、いとも簡単に成し遂げてしまうのだ。

 原作では終盤に智謀に長けた権力者として魔界衆の前に立ちはだかった老中・松平伊豆守(成田三樹夫)を早くも暗殺した上に、ガラシャの色香で将軍・家綱(松橋登)を籠絡。魔界衆は天下を取ってしまうのだ。

 だが、彼らは野心でそうしたのではない。望むのは、世界を暴力と破壊のカオスへと叩き落とすこと――。四郎は魔力により天候を操り、農村を飢饉にしてしまう。そして、強訴する農民たちを将軍の巻き狩りにかこつけて虐殺。将軍と幕府への恨みを募らせた上で、自ら一揆を煽動していく。ついには四郎に引き連れられ、江戸城に群衆が殺到する。そうした豪快な戦略は、原作の宗意軒にはない。宗意軒は七人の魔界衆を味方にすると、十兵衛を引き入れるための策謀に終始していた。

 映画のもう一つの柱は、十兵衛と魔界衆との決闘だ。そこは原作と変わらない。ただ、その描かれ方は大きく脚色されている。

 原作は、個々の剣豪たちが魔界に堕ちていく前半は不気味で妖しく、何かとんでもないことが起きるのではという不穏な期待を抱かせる。だが、後半の十兵衛との対決モードになると、魔界衆は途端に卑小な雑魚化してしまう。次々と簡単に十兵衛に倒され、頼宣の家老からも「何もかも役に立たぬ奴」と罵倒される始末だった。

 対して映画での魔界衆は、最後まで幽然さを保ち続け、十兵衛を追いつめ、たじろがせる。敵が強大でないと決闘は盛り上がらない――。それが深作&野上の考えだった。

 十兵衛と魔界衆との戦いを盛り上げるために、大きく脚色された点はまだある。それは、剣豪たちが妖魔に魂を売って転生を決意するに至る、「無念」の中身だ。

 たとえば、原作の宮本武蔵は、どこに行っても満足いく仕官が叶わなかったことへの未練が引っかかり、魔界へと堕ちる。また、但馬は剣より政治、出世の道を選んだことにより、かえって剣客たちに蔑まれる状況になってしまった――ということにコンプレックスを抱いており、本心では柳生の里で一剣士として生きたかった。そこをつけこまれる。

 だが、映画では違う。十兵衛と存分に戦いたい――。但馬も武蔵も、それだけが心残りだったのだ。そのため、転生すると十兵衛との決闘を何よりも臨んだ。十兵衛からすれば、たまったものではない。

 原作の但馬はなかなか十兵衛の前に姿を現さない。十兵衛は父である但馬の死を信じ、終盤まで魔界に堕ちたことを知らなかった。

 それに対して、映画では魔界に墜ちて早々に十兵衛の前に現れて、襲いかかる。その圧倒的な強さの前に、十兵衛は逃げるしかない。

 この強敵にいかにして立ち向かうかが、物語の重要な焦点となり、スリリングさが作品全体を貫く。だからこそ、父と同じく刀匠・村正(丹波哲郎)に妖刀を打ってもらい、その必殺の剣を用いて立ち向かう――という展開に燃えてくる。

 この父子の決闘の描かれ方も、原作とは全く異なるものになっている。原作の但馬は、十兵衛の偽造した口伝書をエサに柳生の寺へ誘き出され、偽物とも知らずに口伝書への執着のために敗れる――という情けない結末だった。

 それに対し、映画では、炎に包まれる江戸城天守閣で幕府の侍たちを片っ端から斬りまくりながら、十兵衛の姿を求め、待ち受ける。「十兵衛、早く参れ! この最高の舞台を彩る、紅蓮の炎の燃え尽きぬうちに!」そう叫ぶ但馬の前に、炎の中から十兵衛が現れる――。焼け落ちる江戸城天守閣で、十兵衛対但馬、そして十兵衛対四郎――と立て続けに壮絶な決闘が繰り広げられた。

 大エンターテイナーといえる小説家による原作が、大エンターテイナーといえる監督と脚本家の手により、全くベクトルの異なる、大エンターテイメント作品として見事に脚色されたのだった。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。

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