連載第1回 「映像と小説のあいだ」 春日太一
小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない――!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『鬼龍院花子の生涯』
(一九八二年/東映/原作:宮尾登美子/脚色:高田宏治、五社英雄/監督:五社英雄)
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「なめたらいかんぜよ!」
宮尾登美子の同名小説を原作に作られた映画『鬼龍院花子の生涯』といえば、喪服姿の夏目雅子がそう言って凄む場面が象徴的に扱われてきた。それだけに、映画を観たことのない人は、このタイトルからして夏目雅子が演じる、この喪服姿の女性を「鬼龍院花子」その人だと思われているかもしれない。
だが、実際はそうではない。夏目雅子が演じる役名は林田松恵。大正から昭和初期に土佐で活躍した侠客として宮尾登美子が創作した、鬼龍院政五郎(仲代達矢)の養女である。「林田」は、政五郎の実の名字だ。
花子(高杉かほり)は、松恵が養女として入った後で、政五郎と妾・つる(佳那晃子)との間に生まれた実子だった。そしてこの花子、タイトルにもなっている人物にもかかわらず、映画では恐ろしく影が薄い。というのも、原作はタイトル通り「花子の生涯」を軸にしているのに対し、高田宏治による脚色は「花子の生涯」を前面には出しておらず、多くの場面を削除している。
そのかわりに、高田は特に二つの要素に焦点を絞り、原作以上に掘り下げた。
まず一つ目は、やくざの抗争だ。原作でも、鬼龍院一家との敵対勢力との抗争は描かれているが、それは縄張り争いによるもの。映画では、それを土佐犬の闘犬をめぐるいざこざに変更、土佐らしい荒々しさが強調されることになる。
また、抗争の当事者に新たな魅力的なキャラクターを創作した。敵対するのは末長組の組長(内田良平)であるのは同じだが、末長は実質的にその妻(夏木マリ)が仕切っているという設定を加え、政五郎を相手にしても一歩も譲らない鉄火肌ぶりを見せつける。また、末長の刺客として三日月次郎(綿引勝彦)も登場、その鋭い切っ先が何度も政五郎を襲う。こうした脚色により、抗争がより迫力満点に盛り上がっていく。
そして二つ目の焦点が、「松恵と政五郎の相克」だ。
心ならずもやくざの家に入り、理不尽な目に遭い続ける――という松恵の設定は双方ともに変わらない。ただ、原作の松恵がひたすら悲惨な運命に翻弄される「無力な女性」として描かれるのに対し、高田はより能動的な人物像へと脚色をしている。
たとえば、幼い松恵(仙道敦子)が女学校に通いたいと思うも、言い出せない場面がある。原作では、正妻の歌(岩下志麻)ら周辺の人間たちにアピールすることで認めさせるが、映画では意を決して政五郎にそれを直接伝えている。また、成長した松恵を酔った政五郎が犯そうとする場面では、原作の松恵は必死に抵抗して逃げる。それに対して映画では自身の首に割れたグラスの破片を突き立て、自ら命を賭けて拒む。ひたすら政五郎を恐れ、自分の想いを表に出すことのできなかった原作での松恵が、映画では自身の意志で政五郎と対峙しているのである。
そして終盤は、この二つの要素が合わさる形で劇的な展開を見せる。それは、ほとんど高田のオリジナルによる創作といえる内容だった。
原作では、政五郎は花子一辺倒で松恵のことは歯牙にもかけない。また松恵も、最後まで政五郎を恐れ、嫌悪し続けた。そのため両者の想いが交わることはない。
一方、映画では高田が松恵を能動的な人物像にしたことで、両者の相克はより浮き彫りになり、その行き着く先として終盤に大きなクライマックスを用意している。
原作も映画も双方ともに、鬼龍院と末長との最終決戦は描かれている。ただ原作では、政五郎が油断しているところを襲撃されるのに対し、ここでも映画は大きく変えた。末長は花子を拉致し、さらに松恵の夫・田辺(山本圭)を殺害。その報復として鬼龍院一家は末長のもとに殴り込むも、待ち伏せを受けて大きなダメージを受ける――という展開になっているのだ。
さらに、ここから松恵と政五郎のドラマの最大の見せ場が始まる。
ここで重要となるのが、「なめたらいかんぜよ!」というセリフだった。『鬼龍院花子の生涯』の象徴ともいえるこのセリフ、実は原作には全く出てこない。松恵は田辺の遺骨を受け取りに、田辺の実家で行われている葬式に向かう。松恵と結婚しなければ、息子は死ななかった――。そう言って遺族は辛く当たり、松恵に遺骨を渡さない、ここまでは――田辺の死因やその時期は全く違うが――原作も映画も同じだ。ただ、原作では遺族の目を盗んでこっそりと遺骨を奪い、奪った後も遺族に露見することを恐れている。それに対し、映画で松恵は遺族を前に啖呵を切り、堂々と遺骨を持ち去るのだ。
この場面で、松恵の吐いたセリフが「なめたらいかんぜよ」。つまり、原作に対してより強く能動的に脚色された松恵像の行き着いたところに、このセリフがあったのだ。
このセリフが意味するのは、それだけではない。
松恵はリルケの詩集を愛し、教師を生業とし、社会運動にも参加する知的な女性で、この場面までは、このような荒々しい言葉を使ったことはない。一方、「なめたらいかんぜよ」というセリフは、序盤から頻出している。それは、土佐のやくざたちが喧嘩の際によく使う啖呵だった。それは、土佐のやくざの荒々しい粗暴さと意固地の強さを表す。
そして「なめたらいかんぜよ」の前に、松恵はこう叫んでいる。「わては高知の侠客、鬼龍院政五郎の――鬼政の娘じゃき!」つまり、この一連のセリフは松恵自身が「やくざ社会の人間」「鬼政の娘」としての自身の運命を受け入れたことを示しているのである。
遺骨を手に入れて鬼龍院家に戻った松恵は、花子奪回のために単身で敵地に向おうとする政五郎の背中に、羽織をかける。激しい相克の果てに、松恵と政五郎の間に「親子の情」が通じ合ったことを表す場面だ。
この場面を経たからこそ、血の繋がらない両者が通い合う一方で、愛情を注いで育ててきたはずの実子・花子に政五郎が裏切られる――という皮肉なラストが効いてくる。原作では花子の拉致はないので、花子の裏切りの描写もまた高田による創作である。
土佐における侠客一家の興亡を描いた原作を使い、高田宏治は親子の濃密な愛憎劇を描いてのけたのだった。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。