連載第22回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『ミスト
(2007年/原作:スティーブン・キング/脚色・監督:フランク・ダラボン/配給:MGM

〝Promise you won’t let the monsters get me. Ever ,no matter what.〟
(吹き替え版訳「僕を絶対に怪物に殺させないで。絶対、何があっても」)

 舞台はニューイングランドの田舎町。妻を家に置いて、息子のビリーとスーパーマーケットへ買い物に向かった画家のデヴィッドだったが、店内にいる時に突如として街全体が深い霧に覆われてしまう。そして、霧の中では謎の凶暴な怪物たちが蠢いており、人々を襲って無惨に食い殺していた。外部とは電話も無線も通じない。

 人びとは店内に閉じ込められる。やがて、そこにも怪物が侵入。なんとか撃退するも、各々の精神状態は極限を迎えつつあった。そうした中、この事態を「神の罰によってもたらされた世界の終焉」と訴え続けた排他的キリスト教信者のカーモディ夫人を、恐怖に駆られた人々が信奉するようになり、狂信的なグループが形成されていく。

 以上が、スティーブン・キングの小説『霧(原題:The Mist)の概要だ。その映画化作品である『ミスト(原題は小説と同じく『The Mist』)』も、設定や大まかな展開に違いはない。

 だが、大きく異なる点もいくつかあり、これが原作をさらに凌駕する衝撃作たらしめている。

 まず挙げたいのは、店内にいる軍人の人数が原作の二人から映画は三人に増えている点だ。実は、この霧は近くの軍事基地で発動された「アローヘッド計画」によるもので、その実験の結果、異次元との境界が破れ、次元を超えて怪物たちが乱入してきてしまったのだ。全ての悲劇は軍の責任によるもの。その良心の呵責に耐えかねた二人の軍人は、店の倉庫で首を吊って自殺してしまった。

 ここまでは、原作も映画も変わらない。ただ、映画には軍人はもう一人いて、彼は別行動をとっていたために生き残ることになる。この、「生き残った三人目」が映画版で新たに付け加えられたことが、物語上で重要な意味をもたらした。

 彼は人々の憎悪の対象となり、カーモディ(マージャ・ゲイ・ハーデン)の一派から猛烈な集団リンチを受けた挙げ句に、「生贄」として外に出されて怪物に無惨に殺されてしまうのだ。彼が追加されたことで、カーモディ一派の集団ヒステリーの狂気をより強烈なものとして際立たせたのである。

 効果は、それだけではない。原作でも生贄に関しては触れられているが、それは「彼女たちが生贄の儀式を始めるかもしれない」という不安に基づく予測のみだった。それに対して映画では、実際に残虐な行為に奔ったことで、デヴィッド(トーマス・ジェーン)らカーモディに反発する面々の中に生じる「次は自分たちの誰かになるかもしれない」という恐怖を、より切迫感あるものにしていた。

 デヴィッドが最も恐れたのはビリー(ネイサン・ギャンブル)が標的にされることだった。そして、このビリーの描かれ方も、原作とは大きくことなっている。原作のビリーは年相応にパニックを起こし、泣きわめいてばかりいた。それに対して映画のビリーは物分かりがよく、父の言いつけによく従い、落ち着いている。そんなビリーが劇中でただ一つだけ、デヴィッドにねだったことがある。それが、冒頭に挙げたセリフだ。

 このたった一つの願いが、最悪の悲劇の伏線となる。

 デヴィッドたちは店内からの脱出を図る。だが、それはカーモディの知るところとなり、両陣営は乱闘に。その中で、たえずデヴィッドと行動を共にしてきた副店長のオリー(トビー・ジョーンズ)が発砲、カーモディを撃ち抜く、その混乱を突いて、デヴィッドたちは店を出た。途中、オリーたちが怪物に襲われ、自動車にたどり着いたのはデヴィッドとビリーを含めた五人だけだった。デヴィッドは、妻の安否を確認しに自宅へと車を走らせる。

 ここまでの終盤の展開は、映画も原作と同じだ。だが、その結末は大きく異なる。

 以降は、映画のラストをネタバレすることになる。未見の方は、是非とも先に映画を観てから続きを読んでいただきたい。

 原作では倒木のためにデヴィッドは家に帰ることができなかった。そして、ガソリンの続く限り当て所のないドライブを続けるところで、物語は終わる。もしかするとただの妄想かもしれない、ほんのわずかな希望を託して。つまり、原作では彼らの結末は明示されていないのだ。

 映画はそうではない。そこからさらなる過酷な運命が、デヴィッドを待ち受けている。

 デヴィッドは家に帰りついた。だが、そこで目にしたのは、怪物の襲撃により無残に変わり果てた妻の姿だった。やがて車はガス欠になり、動かなくなる。

 デヴィッドの手にはオリーの落とした拳銃が。残り弾数は4発。ここで、先に挙げたビリーとの「約束」が効いてくる。彼らに残された選択は、銃で死ぬか、怪物に襲われて死ぬか、のみ。デヴィッドは怪物の手で無惨に死ぬのは自分だけでいいと判断。ビリーを含めて4人を射殺する。

 意を決して車を飛び出すデヴィッド。そして、霧の中にいるはずの怪物たちに向かって〝Come on!〟と連呼した。だが、霧の中から現れたのは怪物ではなかった。それは戦車だった。霧は晴れて怪物たちは消えていた。

 軍が全てを解決していたのだ。崩れ落ちて慟哭するデヴィッドともに、物語は終幕する。軍の救援トラックには「幼い子供たちが待っているから」と、周囲の反対を振り切って早々に店を出ていった女性の姿があった。

 デヴィッドに課された運命は、原作に比べてあまりに過酷だ。ただ、これは「理不尽な目に遭った男の、悲惨な物語」かというと、必ずしもそれだけではない。

 それは、自業自得的な側面も無きにしも非ずだからだ。

 たしかに、怪物による被害も大きい。だが、人々が理性を保ち、協力し合っていれば、スーパーで避難生活を送りながら救助を待つことができたのだ。それはカーモディとその信者たちだけの問題ではない。デヴィッドもまた同様なのだ。一見すると「勇気ある行動」に思えるその判断の全てが、実は多くの犠牲者を生む結果を招いていたことに気づく。「デヴィッドが果断に動かずに、少し落ち着いて待つことができれば――」映画版は、そんなケースが連続している。そして、それが最悪の形で現われたが、あのラストといえる。

 だが、「個々が冷静でいれば」という話は、あくまで拙い理想に基づいた結果論に過ぎない。

 剥き出しの恐怖に直面した時の人間の弱さ、エゴ。文明が崩壊しようという時に浮き彫りになる、理性の脆さ。そして、極限状態における個々の局面に対する判断の困難さ――。映画版におけるあまりに皮肉な結末は、そんな人間の精神をリアルに突きつけていた。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。

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