連載第20回 「映像と小説のあいだ」 春日太一
小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『ジョーズ』
(1975年/原作:ピーター・ベンチリー/脚色:ピーター・ベンチリー、カール・ゴットリー/監督:スティーヴン・スピルバーグ/製作:ユニバーサル・ピクチャーズ)
〝I’ll drink to your leg.〟(DVD吹き替え訳「お互いの足に乾杯」)
映画『ジョーズ』はスピルバーグ監督初のメガヒット作にして、その後、現在に至るまで多くの動物パニック映画が作られ続ける契機となった一本である。
舞台はアメリカ東海岸にあるリゾート地・アミティ島。海水浴シーズンを前にした平和な島の浜辺で、女性の死体の一部が打ち上げられる。それがサメに襲われたものだと知った警察署長のブロディ(ロイ・シャイダー)は、海岸を閉鎖しようとする。だが、それでは町の唯一の収入源といえる海水浴客が来なくなるため、市長らに押し切られて情報は隠蔽された。そして、第二・第三の被害者が出るに及び、ブロディは海洋学者のフーパー(リチャード・ドレイファス)、ハンターのクイント(ロバート・ショウ)とともにサメ退治のため海へと出る。だが、目の前に現われたのは、彼らの想像を超えた巨大なサメだった──。
これが映画の大まかな設定と展開で、ここは原作も同じだ。ただ、実際に両者を比べてみると、その印象はずいぶんと異なる。
細かい時系列やサメによる被害の顛末にも違いはあるのだが、何より大きく異なる点がある。それは、映画が「サメに立ち向かう男たちの闘い」に焦点が絞られているのに対し、原作はそれだけではないということだ。
それがよくわかるのが、「サメによる被害」と「サメ退治」の場面の割合だ。映画は「サメ被害」パートと「退治」パートが、前後半で綺麗に二分された構成になっている。一方、原作は全275ページ(早川書房刊の単行本初版)のうち、サメ退治に向かうのは205ページからだ。つまり、「退治」パートは全体の1/4のみに過ぎない。
では、退治パートがすくない分、原作では映画に対してどこが詳しく描かれているかというと、それは島の人間模様だ。たとえば、映画ではサマーシーズンの重要性を表立って語るのは、ほぼ市長のみ(暗黙で他の島民もその雰囲気はあるが──)だ。それに対して、原作では島民の共通認識として色濃く描写されており、村八分やネガティブな情報の隠蔽についての詳しい記述もある。ブロディもその片棒を担いできた経緯があり、映画には登場しない地元新聞社の記者とともに隠蔽に関わってきた。
さらにサメによる被害が発生してからも、町長(原作では市長ではない)に最初の情報隠蔽を指示した黒幕の正体に関するミステリー、そこから明らかになる不正事件といった、島内のドロドロした部分にかなりの記述が割かれているのだ。つまり、原作は「人間の欲望がサメによる被害を拡大させた」という部分に主眼が置かれ、サメ退治以上にそうした「人間の欲望」の描写が詳しいのである。
一方、そうした要素を映画は全てカットしている。市長に「欲まみれの悪」という役割を集約させつつ、観る側の興味を前半はサメへの恐怖、後半は対決のカタルシスへと絞り込んでいるのだ。
そうした脚色を通して、映画と原作で全く異なる立ち位置となっているのが、海洋学者のフーパーだ。
映画では中盤にフーパーが島を訪れて以降、「ブロディとフーパーのバディもの」として物語は展開していく。これ以上の被害を出さないために孤軍奮闘するブロディにとっての心強い相棒。それが映画でのフーパーの立ち位置だ。
だが、原作にはそうした描写は全くない。そもそもフーパーが訪れた段階から、映画のブロディは最初から歓迎しているのに対し、原作のブロディは出会ってすぐにフーパーに敵愾心を抱いているほどだ。ブロディが初めてサメの探索に海へ出る際も、映画の同行者はフーパーとなのだが、原作は部下のヘンドリックスだ。
むしろ、原作でのフーパーはブロディにとって「憎き相手」といっていいほどだ。それが決定的になる展開がある。実はブロディの妻・エレンとフーパーは過去に接点があり、夫との結婚に後悔を感じつつあったエレンは、自らフーパーにアタックをかけて不倫関係になるのである。そして、後にそのことに気づいたブロディはフーパーに激しく怒る。
海開きに対するフーパーの対応も、映画と原作は全く異なる。映画は、市長がサメに賞金を賭け、多くの漁師たちがサメ狩りに出かけていった。彼らは大きなサメを仕留め、ブロディを含めて誰もがこれで解決したと喜ぶ。だが、フーパーだけは、もっと大きいサメのはずだと疑いを抱き、ブロディもその考えを信用した。そして、二人で海岸閉鎖を主張し続けている。
それに対して、原作には漁師たちによるサメ狩りの下りはない。その代わりに、海岸閉鎖を主張し続けるブロディに向かって、フーパーはさまざまな理論的な根拠に基づいて「サメは去った」と主張、町長らとともに海開き賛成派に回るのだ。
さらに島民たちからのブロディ家への嫌がらせもあり、映画では数少ない味方だったフーパーやエレンとの距離も遠い──といった具合に、原作では終盤までブロディは孤独な闘いを強いられることになったのだ。そのため、映画よりも原作の方が圧倒的に印象は重苦しい。
それは、終盤のサメ退治のパートになってからも同じだ。三人はクイントのオンボロ舟でサメ退治に出るのだが、クイントは当初、フーパーの乗船を拒否していた。そこは映画も原作も変わらない。が、映画のブロディがフーパーの同行を認めたのに対し、原作では嫌がっている。一方のフーパーも、原作ではクイントやブロディと打ち解けることは最後までなかった。
そこが、映画と原作の大きな違いだ。映画でも、サメとの闘いを通してしばらくは、クイントとフーパーは対立していた。だが、最終決戦を控えた夜、それが一変するのだ。三人は酒を酌み交わし合う。そして夜が深まるにつれ、クイントとフーパーは互いにこれまでサメと対峙してきた時の武勇伝を語り出す。
この時、フーパーは足をテーブルに乗せ、ズボンの裾をまくる。するとそのふくらはぎには、大きな傷跡が。それは、かつてサメに襲われた時のものだった。すると、クイントも足をテーブルに乗せ、ズボンをまくる。クイントにも同じ箇所に、サメに襲われた傷跡があったのだ。
そして、クイントは破顔一笑し、酒の入ったグラスをフーパーに向け、こう言う。
〝Drink to your leg.〟(お前の足に乾杯だ)
それに対するフーパーの返しが、冒頭に挙げたセリフだった。
これは原作にはない、映画のみの場面だ。原作のフーパーはあくまで理想主義の理論家でサメと直接の対峙をしたことはない。それに対し、映画のフーパーは歴戦の強者で、そのためにクイントに自身と同じタフガイとして認められ、観客もまたそのように認識することになった。
その後の映画でのフーパーの描写は、もはや生っちょろい学者ではない。自身の用意した折に入って水中に潜り、サメと対峙しようというフーパーの選択は原作と同じだ。だが、映画ではそれを止めようとするブロディに対して〝You got any better suggestions?〟(他に手はあるのか?)と毅然と言い放ち、実に凛々しい様を見せてくれる。これも原作にはないセリフだった。
こうした描写を経ることで、映画の終盤はよりカタルシスあふれる展開となっている。
原作のラストで、フーパーは海中でサメの襲撃を受けて死亡、クイントもサメに一撃を命中させるも喰われてしまい、ブロディだけが残る。原作の最後まで、ブロディは孤独な存在だった。
映画も、ブロディだけが残るのは変わらない。ただ異なるのは、サメを仕留めたのはブロディの銃弾だったことだ。そこには、大切な仲間たちを奪ったサメに対する怒りが込められていた──。そして、実は生き残っていたフーパーとともに泳いで海岸へ向かうところで終幕する。
映画『ジョーズ』は、単なる動物パニック映画ではない。熱い仲間たちの織り成す、ロマンあふれる海洋冒険活劇だった。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。