乗代雄介〈風はどこから〉第13回
第13回
「川と歴史を遡ろう」
そんなルールはないのだけれど、この連載ではなるべく色々な都道府県に行こうと思っている。今のところ千葉県がかぶっただけで11都道府県で書いているが、どうしても新しい場所に行けないこともある。何度も書いているようにライター・イン・レジデンスで岡山市に長期滞在することが多いため、今回は2回目の岡山でいってみたい。本当にいいところである。
前回、送ってもらった風景スケッチを頼りに歩いたらすごく楽しかったので、今度もその経験を書こうと思う。スケッチを送ってくれたのは吉備人出版にお勤めの守安さんで、ワークショップ参加者の一人である。吉備人出版は岡山市のいわゆる地方出版社で、地域に根ざした本を沢山作っている。岡山市には1964年から岡山文庫を発行し続けている日本文教出版もあり、さすがユネスコの創造都市ネットワークの文学分野に加盟認定されただけのことはある。
と、普及活動もしたところで、JR山陽本線で岡山駅から2駅の庭瀬駅から出発。庭瀬はかつての城の水堀が農業用水とつながって今も住宅街を幾重にも囲い、それに伴って道もくねくね曲がり、歩くのに楽しい町だ。早朝は庭瀬城と撫川城、二つの城跡を見回るような犬の散歩が目立っていい。何かとこの町を起点にしているが、いつもイエスの「Roundabout」をリピート再生し、3周する頃に足守川に出る。
その名の通り足守という地を流れており、今日の目的地もそこだ。川沿いを北上すれば十数キロだが、寄り道して20キロぐらいだろうか。山陽新幹線の高架をくぐったところで西側に離れると、田圃の先に社叢林がある。妙なのは、大きな岩が木立からこぼれ落ちるようにいくつも見えているところで、寄れば境内に巨石がごろごろ重なって丘を作っている。磐座という言葉が浮かぶが、名前も岩倉神社だ。由緒には、かつてこのあたりが海岸だった頃、吉備津彦命が吉備国平定へ船で向かう時に献上された稲を積んだので「稲倉」と呼ばれるようになったのが、「後年泥砂流れ落ちて」巨岩が出てきたのもあって訛ったとある。しかし、いくら海岸でもこれだけの岩がここにだけ自然に集まったとは思えず、何かしらの人為が及んでいるのだろう。
歩き出した住宅の間にも巨石が転がり、向かう先には古墳が並ぶのだから、古代のロマンも感じられようというもの。住宅街の間の丘陵を伝うように王墓山古墳から楯築古墳までを散策。楯築古墳は弥生時代の大きな墳丘で、環状に並んだ巨大な列石や旋帯文石など、余所ではお目にかかれないものが多い。
足守川に戻り北を目指すと鯉喰神社の案内があり、約1年ぶりに再訪する。『古事記』『日本書紀』にもある吉備国平定については、吉備津彦命が地方賊である温羅を退治したという伝承が残っている。最後、自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた温羅を、鵜となった吉備津彦命が追いかけ捕食したのがこの場所で、後に村人達によって鯉喰神社が建立されたとのことだ。ここでの扱いもそうだが、温羅は憎まれ役というより、今なお人々に親しまれる存在である。この人か鬼かという温羅の伝説が転じて、『桃太郎』の「鬼」となったという説もある。
鯉喰神社は小高いところにあり、これも弥生後期の墳丘のようだ。楯築古墳にあったような巨石もあって実に興味深いが、あまりのんびりもしていられない。と思って足守川に戻り遡上していくと、岡山ジャンクションの手前に田園を見下ろす鳥居を見つけ、我慢できずに足をのばす。石段を上った天満神社の境内には梅が咲き、先ほど回った遺跡や吉備津神社も望むことができ、来てよかったと思った。
往復20分ほどかかり、時刻は11時を回ったところ。足守川にかかる末長自転車道橋を渡り、吉備線の線路を越え、遠くに最上稲荷の巨大鳥居を眺めながら、2年ぶりに備中高松城址へ。秀吉の水攻めで有名だが、今は公園として整備されている。ぴかぴかの資料館を見学したが、北野武の『首』を見たばかりなので、全部そのビジュアルで思い浮かべることになった。切腹によって城兵を救った城主清水宗治は荒川良々が演じていた。
さて、守安さんはここで風景スケッチを一つ書いている。記述を頼りに整備された「公園西端の東屋」へ向かうのは、隠れた史跡を訪ねるようでドキドキする。茎が枯れ残り、水も少ない蓮池の奥にそれは見つかった。「青いベンチ」があって、世代的にサスケの歌が頭に浮かぶ。なぜか iPod にも入っていたのでこの連載のために聴いてみると、冒頭の「クラス会」という言葉の縁遠さにしみじみする。私はもう一生、クラス会に行くことなんかないだろう。同窓会も30歳の時にあったらしいけど知らなかったし。
守安さんは、1月14日15時41分~16時15分の間、ここに座って書いていた。現地で改めて読み、蓮池の向こうにある芝生の広場で遊んでいた親子連れ2組の描写に惹かれる。1組は凧揚げ、もう1組は野球をしていたそうだ。
「血走った目玉のデザインが印象的なゲイラカイトはほどよい風を受けてどんどん高度を上げ、10メートルを超えたあたりで幼稚園児くらいの子どもの手には負えなくなったようで、糸巻きを父親が引き継いだ。母親がカメラを構えながらふたりに笑いかけている」「こちらは子どもがふたり。赤いダウンに身を包んだ父親がピッチャーで、幼稚園児くらいの男の子がバッター、小学生のお姉ちゃんが守備についているが、空振り続きでなかなかお姉ちゃんに仕事が来ない。弟が空振りするたびにその場でピョンピョンと飛び跳ねて何かを叫んでいる」
なんともいい光景だ。人っ子一人いない今の広場を見ると信じられないが、親子の遊びや切腹にクラス会まで、私が目にする風景に含まれてしまうのはどういうことか。枯れた芝のわずかな揺れというより震えが知らせる風、雲の流れが微妙に光の量を変える空、守安さんの34分間の記録、聴けば終わる音楽、その全てがそこに時間の存在を信じさせるのだろうか。
水攻めされた際、城内は高さのある場所だけが島のように残り、そこを舟で行き来した。切腹も舟上で、清水宗治の首はそのまま持ち去られため、公園から少し離れた家々の間に胴塚が残されている。胴体だけを孤立した本丸で迎えた家臣たちは、嗚咽のなかで手厚く葬った。その際、介錯人の国府市佑は自分の首を刀で切り、そのまま墓穴に落ちて後を追ったという。
ここからは、ため池の多い集落を上りながら最上稲荷を目指す。吉備高原自転車道にもなっており、気持ちよく歩ける道だ。出会った白猫の気を引こうとしばらくしゃがみこんでも、自転車一台通らない。
境内まで来て門前町の趣を残した長い参道があるらしいことを知り、入口まで下って往復したら、もう13時だ。今回やたらと時間を気にしているのは、目的地の足守に公共の交通機関がないからである。歩くことは問題ないのだが、今日締切の仕事があるので、あまり遅くなると大変である。
それでも最上稲荷を擁する龍王山を、八畳岩から奥之院、龍王池のある龍泉寺と遠回り気味に歩いたあと、西側へ下ると、足守の町の方までゆるい段々畑が続いている。早い春の草が控えめに彩る道を、はっぴいえんどの「田舎道」を聴きながら下る楽しさに仕事のことも忘れてしまう。
足守は緒方洪庵の誕生地である。江戸時代後期の医師で蘭学者、大坂に適塾を開いて福沢諭吉らを輩出した。高校生の時に手塚治虫の『陽だまりの樹』で読んでからずっと、えらい人だと思っている。立派な像にご挨拶して〈洪庵みち〉を進めば、末長自動車道橋以来の、足守川との再会となる。
対岸にある近水園は、足守藩主木下家の大名庭園だ。守安さんが同日14時09分~14時52分に行った二つ目のスケッチから「シイノキの下の木製のベンチ」「目の前の遊歩道の先には池が」などの記述を頼りに場所を特定する。ちなみに、私の方は16時過ぎである。日が経っていないのもあって、足下の「無数のドングリ」もそのままで感動する。再び、描写をお借りする。
「池の奥には、宮路山を背景に、水辺に張り出すようにして建てられた数寄屋造りの吟風閣がみえる。この建物は京都御所の造営の際に残った資材でつくられたと聞いた。地元のお祭の際には琴の演奏会が開かれたり、お茶会の会場になったりする。家族連れらしい3人組が吟風閣の前に立ち、部屋のなかを覗き見るように並んで背伸びをしている」
守安さんが目にして書き留めた人の細やかな仕草が、私の見る景色に浮かんで重なる気がする。こう読んでいて、備中高松城址も含めてみんな家族らしい3人組だったことに気付く。偶然というほどのことでもないけれど、こういう現実にはまま起きることが、小説内に書き起こせば作為の香をまとうことについて、最近はよく考える。
小説というのは、現実をなめた気分で書かれ、現実をなめるなという気分で読まれるのかもしれない。しかし、「こんなこと現実では都合よく起こらない」と読者が思う時、それはそれで現実をなめているのである。私は主に歩き回ることで、都合のいいことが現実にいくらでも転がっていることを実感してしまい、自分が書く時ぐらいは、小説にその気分を取り戻したいと思うようになった。
足守藩は一国一城令のため城を構えることができなかった。藩政を行った陣屋を囲んでいた小さな堀は今も残る。向かいは小学校で、放課後の校庭で子供たちが思い思いに遊んでいた。武家屋敷や商家の残る町並みから足守川へ出て、今度は流れを追いかけ帰らねばならない。岡山市街とをつなぐバスは2004年に休止され、運行再開の目処は立っていないようだ。心苦しい決断であったのは、今もバス停が残されていることからもわかる。
帰り道、犬を散歩させている方に話しかけられた。その家の3代目のコーギーであるマル(まる?)は私の手をペロペロなめ、カメラを構えればお座りして、かわいらしい。他にも何人かの方と話をしたが、私のことは当然として、誰も岡山市のユネスコ創造都市ネットワークへの加盟のことをご存知なかった。文学が何をするものかはわからないけれど、あったって悪いものではないだろう。普及活動に精を出しながら足守駅まで来た時は、18時を回っていた。
写真/著者本人
乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。23年『それは誠』で第40回織田作之助賞を受賞し、同作の成果により24年に第74回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』などがある。