岸田奈美『国道沿いで、だいじょうぶ100回』

岸田奈美『国道沿いで、だいじょうぶ100回』

「だいじょうぶ」100回を言ってあげたい人へ


この本を、届けたい人がいる。

 

あの時、わたしはまだ大学生だった。

学校が終わり、駅から歩いて帰っている途中、叫び声が聞こえた。

そこは家のすぐそばの公園で、お母さんらしき人が、息子の名前を呼んでいた。部屋着のままで、つっかけで、声がかすれていた。

お母さんの前を、逃げるように息子が走っていた。

彼はわたしと同じ年齢ぐらいだったけど、ただならぬ様子だった。すれ違う時、彼がわたしの肩にドンッとぶつかり、そのまま行ってしまった。

 

「ああ、ごめんなさい、ごめんなさい」

 

お母さんはくたびれた顔で、頭を下げて、彼を必死に追っていった。

 

その親子のことは、近所でうわさになっていた。

車いすに乗る母と、ダウン症の弟のいるわたしの家には、当時、ヘルパーさんやリハビリの先生など、いろんな人が出入りしていて、

 

「あれは障害のある息子で、毎日のようにいなくなるらしい」

「しかも、お父さんは家を出てったんやって」

「そんなん、はよ施設に入れたらな、あかんよ」

「お母さんだけで抱えるなんてかわいそう」

 

心配と怒りを半々こめて、話題にしていた。

 

中でもいちばんお節介だった人が、ある日、そのお母さんに助言をしたらしい。はやく福祉に頼るべきだと。

 

でもそのお母さんは、ものすごくていねいに、申し訳なさそうに、断ったらしかった。

 

親切を無下にされた人たちは、今度は濃縮還元100%の怒りで、口々に文句を言っていた。

 

わたしの母だけは、そのうわさを聞いて、怒りも、驚きもしなかった。それが不思議だった。なにを思っているのかをわたしがこっそり聞くと、

 

「その人は、息子さんを探しているうちは、親でいられると信じてるんやと思うよ」

 

泣きそうな顔で、母は答えた。

 

「どんなにたいへんでも、つらくても、親でいられなくなるかもしれへんって思うのは、つらい。わたしやったら、すごくつらい。その人に言ってあげたい」

 

「なんて?」

 

「だいじょうぶよ、って」

 

だいじょうぶ。だいじょうぶ。ぜんぶだいじょうぶ。一緒にいようとも、離れようとも、ぶつかろうとも、抱きしめようとも、どんな道を選ぼうとも、まずはだいじょうぶ。あなたの愛はだいじょうぶ。

 

なんとなくそれは、母がかつて、言われたかった言葉なんだろうと思った。

 

またあのお母さんと、息子さんに会ったら、言ってあげたかった。車いすでは公園まで行けない、わたしのお母さんの代わりに、言ってあげたかった。

 

でも、会えることは二度となかった。

 

言いそびれただいじょうぶが、わたしの中にずっといる。きちんと宛先があって、届かなかったことを悔やんでいる。

 

時折、口から飛び出してしまうだいじょうぶの数々を、本にこめた。宛先は、わたし自身の時もあるけども、あのお母さんに、あのお母さんの気持ちがわかる人に、どうかどうか、届いてほしいなと思う。

 


岸田奈美(きしだ・なみ)
1991年生まれ、兵庫県神戸市出身、関西学院大学人間福祉学部社会起業学科卒業。100文字で済むことを2000文字で伝える作家。Forbes の世界を変える30歳未満の30人「30 UNDER 30 Asia 2021」に選出される。著書に、『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった+かきたし』(小学館文庫)、『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』『傘のさし方がわからない』(ともに小学館)、『もうあかんわ日記』(ライツ社)、『飽きっぽいから、愛っぽい』(講談社)など。

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『国道沿いで、だいじょうぶ100回』
著/岸田奈美

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