ニホンゴ「再定義」 第6回「四季」
さて閑話休題。次に紙魚エビさんのお父さまの境地については、私がなり替わってシミュレーションするのは難しい。やるとさすがにウソになる。冷静に分析してみると、ここで価値があるのは「どれほど論破されても、真にたいせつなものは非論理的にゆずらない」という開き直りの凄さで、映画『ターミネーター』終盤で初代ターミネーターT-100がみせた機械を超えた粘り腰を思い出させるものがある。というか、その「真にたいせつなもの」については、「論理を超えて皆と共有できているハズだからオッケー!」的な、妙な自信が感じられるのだ。実はこれは、地味に重要なポイントかもしれない。
ということで「日本には、四季があります」問題、超端的に整理してみると、
・論理的におかしい表現だが、情報化ツッコミ時代には敢えてアホのふりをしていた方が戦略的に正しい場合があり、この表現はそういう意味でも正解!
・とにかく感覚的に「日本の四季はスゴイ!美しい!」というのはなんとなく正しいっぽい。どれほどツッコミがあっても結論は変わらないだろうし、自分もそれに賛意を示していいよね。
という、論理と非論理とお気持ちの流動的な集合体であり、そもそも「なんとなく正しいと思われている」観点を構築する集合意識っぽいものに強力に支えられているので、いくらおかしい表現であろうと、根本的に修正が不可能っぽいのだ。
これは実に興味深い言語的状況といえる。また結論の説明にて終盤に向かうほど「っぽい」が連発されることで、むしろ蓋然性が増してしまうインチキくささが実にたまらない。そもそも問題提起を行った教養的主観からすると実に不本意な結論ではあるが、論理を突き詰めたらこうなってしまった以上、仕方ないのだ。もう飲むか泣くしかない。
では私個人は日本の四季について、特にその特徴をどう考え感じているのか、といえば。
それぞれの季節に日本らしいまたは日本独自の魅力的な文化や習慣があって、それらを体感し、味わうことこそが、「四季」という言葉の佇まいにふさわしいと考えている。この文化性は長い年月をかけて形成され、多くのポイントで「日本の美意識」に直結したものであり、その豊かなエッセンスをもっとキャッチコピーに積極的に活かせばいいのに、と感じる局面が少なくない。季節性に呼応した生活文化体験というのは、国際的な観光資源として大いに魅力的な要素でもあるし。それは、私自身のインバウンド観光領域業務で得た皮膚感覚的な実感でもある。
そんなわけで、「日本には、四季を活かした魅力的な生活文化があります。ぜひ見に行こうよ!」というのがいちおう改良版キャッチコピー案なのだけど、しかしここまで来ると「日本には、四季があります!」という、意味破綻的なキャッチコピーの直球的インパクトが、一周回って魅力的に感じられてきてしまうから不思議だ。皮肉なことに、海外に向けて発信する観光キャッチコピーとしては、むしろそちらのほうが刺さるような気がしなくもない。
そうか! あの問題ありありキャッチコピー誕生の裏には、実は、そもそもそのような深謀遠慮があったのか……って、いやいや無い無い絶対無いってそれ(笑)
(第7回は8月31日公開予定です)
マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。