ニホンゴ「再定義」 第7回「萌える」

ニホンゴ「再定義」第7回


 と、いうことで。

 私がここで思い出すのは、ドイツ語でミンネ(Minne)と呼ばれる、中世ヨーロッパの騎士道文学に窺える恋愛観だ。ちなみにこれは基本的に男性主観からのみ語られるもので、21世紀基準ではそれ自体が巨大なツッコミどころになるのだが、まあそれはさておいて。

・恋愛対象は貴婦人であり、しかも既婚者であれば完璧。
・なぜなら、踏み越えてはいけない障壁が高いほど試練として素晴らしいから。
・ホントは恋愛感情なんだけど「そうではない」という建前を堅持したまま文脈を収拾しきることに意味があり、悦楽の極みがあり、それこそが騎士道精神の本懐!

 以上が要点となる。いささか即物的に見えるのは致し方ないが、私にとって、「萌える」心的メカニズムの根源にあるのはこの騎士道精神的な何かだ、というのがしっくり来る。つまり、何らかの障壁の存在とそれを躱す欺瞞性が、むしろ情動をターボ加速するという面が重要であり、ゆえに「萌え」は魅力的であり蠱惑的なのだ。

 そう、私が既存の「萌え」解説に物足りなさを感じていたのは、萌えがなぜ妙に魅力的で人心を惹きつけてしまうのか、という、あのダイソン掃除機じみた吸引力についての考察がおもいっきり欠落しているか曖昧模糊としていたからでもある。

 とはいえ、これで追究完了ではない。

 先述したメカニズムの説明だけでは、弱い。定義めいたものとしてあまりに弱い。騎士道文学的な道理で満足しきっている私の脳内のキャメロット円卓の騎士たちの前に、なんの脈絡もなく古代インドの賢者キャラが出現して「あのー、皆様、梵我一如というコトバをご存じか?」と、騎士道精神の「本音と建前乖離の相乗効果」の原理をパワーで上回る「宇宙的原理と個人的原理の相克」のヴェーダ由来の深すぎ原理を説いて価値観を上書きし、その結果、最強騎士ランスロット卿は王妃グィネヴィアとの道ならぬ恋をあやういトコで諦めて、円卓の騎士たちの悲劇的分裂はうまいこと回避されてしまうのであった。…うむ駄目だ。こんなに観念哲学性があっけなく解法として強力に通用してしまっては駄目だ。いくら絵空事とはいえ内面的リアリティに欠けるのだ。

 そこで再リサーチしてみるに、たとえばBLや百合系コンテンツの逸品にて、ある重要な特性が浮上する。セクシャル情動的なタブー感情と神聖っぽい何かの衝突、およびその自覚の衝撃である。これは登場人物の同性愛的な自覚がまだ希薄な物語導入部を盛り上げるのに必須な内的プロセスであり、ある意味、真に重要なものがここにいろいろ集約されているといって過言ではない。なぜBLや百合が良質なヒントをもたらすのかといえば、なんだかんだいって説明抜きで進行可能な異性間恋愛・性愛よりも格段にハードルが高く、いわゆる伝統的な恋愛を「超えた」文脈設定と表現が必要となるからだ。ちなみに神聖っぽいというのはキリスト教系の神秘体験によくある「創造主」周辺に由来するっぽいやつではなく、もっとローカルな「スピリット」的な何かと認識したほうが適切だろう。

 さらにいえば、この領域ではいわゆる性的関係を結ぶ以上に、相手を愛でるという行為が、至上の心的・魂的表現として描かれているのが大きなポイントだ。それは性的突破に至るようで至らないような、呪術的な魂の錬成行為でもあって実に見のがせない。ちなみに「貢ぐ」を「愛でる」と勘違いさせる罠が現世現実には数多く存在し、実際そこを取り違えると生活破綻に一直線である。どうかお気をつけを。

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