麻宮 好『女形と修羅』

満たされるということ
先日、久しぶりに会った旧友がこんなことを言った。
「時折、ものすごく一人になりたいと思うんだよね。でも、子供が家を出て行って、夫が先に死んだらって想像するとやっぱり寂しいなって。人間って欲深だから、今ないものを欲しがるんだろうね」
今ないもの──欠けているもの、と言い換えてもいいだろうか。
でも、この世にすべてを持っている者などいない。誰でも欠けたところがある。
当たり前だが、人間はでこぼこなのだ。それなのに、私も含め、多くの人は自らの凹んでいるところばかりに目がいってしまう。
本作『女形と修羅』の主人公、与一は美貌と身の内の音(リズム感)という、天賦の才能を持ち、女形として成り上がっていく。この与一に関わる主要人物として、佐吉という半畳売りと、直吉という役者の二人が作中に登場する。佐吉は火事で顔にひどい火傷を負い、直吉は疱瘡に罹ったせいであばた面である。
過去の不運により顔に消えない傷を負ってしまった。一見似ている二人だが、心のありようは対照的だ。佐吉は与一に出会い、彼を見守ることに幸福を見出していく。一方、直吉は自分の今の不遇をあばたのせいにし、美貌の与一を妬んで苛め抜く。そんな直吉に心の平安はなかなか訪れない。
この二人の違いとは〝でこぼこ〟のどこに目を向けるかなのだ。
物語の舞台は、文政8年(1825年)の江戸である。だが、人間の本質は今も昔も変わらない。人は自らの凹んでいるところばかりを見て溜息をつきがちだ。それだけならまだしも、自らの不満を解消するために、輝いている他者を貶めることもある。
でも、見方を変えれば、凹んでいるということは、出っ張っているところがあるはずなのだ。
足りない、足りないと嘆くのではなく、あれも持っている、これも持っていると思いたい。そうすれば、心は満たされ、平穏に過ごせるのではないか。
人と我が身を引き比べ、もっともっと、と欲深になりがちな自分を見直す意味もこめて。
どうすれば、人は満たされるのか。
2年ぶりに自著『女形と修羅』を再読し、考えたことである。
麻宮 好(あさみや・こう)
群馬県生まれ。津田塾大学卒業。2020年、『月のスープのつくりかた』で、デビュー。22年に、『泥濘の十手』(刊行時、『恩送り 泥濘の十手』に改題)で、第1回警察小説新人賞を受賞。25年に『お内儀さんこそ、心に鬼を飼ってます おけいの戯作手帖』で、第14回日本歴史時代作家協会賞文庫書き下ろし新人賞を受賞。他著に『月のうらがわ』『龍ノ眼』『天がたり』『筆耕屋だんまり堂』『ひまわりと銃弾』などがある。






