吉川トリコ「じぶんごととする」最終回 17. 小説マッチョがオーディオブックで小説を聴く

じぶんごととする 17 小説マッチョがオーディオブックで小説を聴く

作家・吉川トリコさんが自身の座標を定めてきた、あるいはこれから定めようとするために読んだ本を紹介すエッセイ。お久しぶりの更新&最終回です。


 昨年の秋から「しんぶん赤旗」で小説の連載をしている。はじめての日刊連載である。

 新聞連載はたいへんだと話に聞いてはいた。なにせ毎日毎日コンスタントに千文字を吐き出さなければならないのである。新聞の休刊日は月に一度しかない。インフルエンザやコロナにかかったら詰む。

「最遅で前日の夕方に原稿を送ったことがある」

 新聞連載の経験がある友人の作家(お)さんはそう言って豪胆に笑っていたが、とてもじゃないが私にそんな胆力はない。

 理想的なのは連載がはじまる前に最後までぜんぶ書き終えて、完成品を渡してしまうことだ。実際にそうする作家もけっこういるらしい。

 しかし、それはそれで、スケジュールに追われず、仕事を選べる余裕があって、あくせく原稿料を稼がなくても印税で生活できる売れっ子作家にのみ許された方法であって、私のような零細&自転車操業の小説家はそんな悠長なことなどやってられない。

 私の場合、どんなに速くても長編小説を一作書きあげるのに半年はかかる。半年も無収入になってしまうなんて無理です無理無理。というかそもそもの話、新聞連載をするような作家は大きな賞を獲っていたり、超売れっ子だったりする場合が多いのに、なんでまた私のような作家に依頼してきたのか、どうかしてるぜ「しんぶん赤旗」……(ありがとね?)。

 結局、私が連載開始時に用意できたストックは二ヶ月分ほどだった。それ以降は、書いても書いても貯金ができないどころか、むしろ日々少しずつストックが削られていく。文字どおり一日も休むことなく書いた。元旦も雑煮を食ってすぐパソコンに向かった。一日最低でも千文字。できれば千二百文字。筆が速い人からしたら「なんだ、それっぽっちか」と思われるかもしれないが、一日三枚が私には最適解なのである。それ以上書くと筆が荒れるし体力ももたないことが長年の経験からわかっている。

 さらには、中日(東京)新聞で隔週のコラム連載、単行本一冊と文庫二冊分のゲラ作業も並行しておこなっていた。目先の原稿料を追って細かい仕事をいくつかこなしてもいた。

 すると、どうなるか?

 目が死ぬのである。

 毎日冷凍ブルーベリーも食べていたし、ルテインのサプリも飲んでいたし、眼科でもらってきた目薬もさしていた。あずきのチカラのアイマスクも愛用していたし、20-20-20ルールも実践していた。やれることはとりあえずなんでもやってみた。

 それでも昼過ぎぐらいになると目の前がちかちかしはじめ、夕方を過ぎるころにはなにも見えなくなる。目のピントがまったく合わないのである。本もスマホも見られないし、動画や映画を見てもなんとなくもんやりしている。活字中毒とまではいかないものの、なんらかの情報なり娯楽なりをつねに摂取していないと落ち着かない哀れな現代人の私は狼狽した。とにかくなんでもいいからなにか情報をください!

 それで、どうしたか?

 そうだ、オーディオブック聴こう、となったのである。

 とにかくなんらかの情報をつねに脳に注入していないと落ち着かない悲しき現代人の私は、ふだん家事をしたり散歩をしたりするときなんかは Podcast を聴くようにしている。おもに聴いているのは報道番組だが、大久保佳代子さんとか佐伯ポインティさんとか、好きなパーソナリティのおしゃべりやお悩み相談的な軽いものもいくつか愛聴している。

 

 しかし、Podcastというのはよくも悪くも雑談的だったり、最大公約数的に情報を共有するものだったりして、ながら聞きをするには最適だが、論理を積みあげたり展開させていくには限界がある。喋り手の能力の問題ではなく、あくまで喋り言葉と書き言葉の特性のちがいなんだと思う。蛇行する川の流れを追いかけ、その先に開かれたなにかを、凝縮された形で受け取りたいときにはやはり一冊にまとまった本が最適だ。

 早速私はオーディブルアプリをダウンロードし、長いあいだ積読つんどくになっていた新書や人文書がかなりの確率で音声化されていることに気づいた。例をあげると、『暇と退屈の倫理学』『スマホ時代の哲学』『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』『積読こそが完全な読書術である』『農家はもっと減っていい』『沈黙の春』などなど。早速ちぎっては投げ、ちぎっては投げする勢いで聴いていった。すごい! 次から次へと積読が崩されていく! 知や情報が雪崩のように脳に流れ込んでくる! いいぞ、これはいいぞ!

 しかし、どういうわけか小説にはまったく食指が動かないでいた。長いあいだ積読になっているあれもこれもオーディブルには揃っているのに、なんとなく聴く気になれないのである。

 私の著作にも何冊か音声化されているものがあるし、スタジオ見学に行ったことだってある。「文芸あねもねR」というチャリティー朗読企画で声優の井上喜久子さんと故・田中敦子さんとも長らく連携をとってきた。読み手や制作者の創意工夫を間近で見てきたからこそ、オーディオブックや朗読というものは、小説とは別の、独立したひとつのジャンルだという意識があるのかもしれない。

 それにくわえ、「音声で聞いても読書のうちに入らない」「楽してる」「ズルしてる」「紙の本で読んでこそちゃんとした読書」というゴリゴリの読書文化マチズモが、私のなかに根強く存在していたのだろう。

 厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、──5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。

 
 第169回芥川賞を受賞した市川沙央『ハンチバック』の一節である。

ハンチバック

『ハンチバック』
市川沙央
文藝春秋

 本作も長いあいだ積読してあったのだが、この原稿を書くにあたって聴いてみることにした。「寝たきり同然の重度障害者」の主人公によるこの独白に、「本好き」を自認する傲慢な私はぶん殴られ、恥じ入るような気持ちになった。オーディオブックで聴いていたからかろうじて我慢できたけど、紙の本だったら我慢できなかったかもしれない(炭治郎構文)。

 本好きを自称する人たち、おもに出版業界界隈には、「紙の本こそ至高」とか「本は書店で買うべき」とか「図書館で借りたり古本で買ったりしたことを作者には言わないでおくのがマナー」とか「本をたくさん読んでいればいるほど偉い」とかいったような規範が存在する。

 もちろん人によってグラデーションはあるし、規範から自由でいられる人もいるだろう。上から強い圧で押しつけられると「なるほどそうか!」と単純に思い込む、飼い慣らされた家畜根性が抜けない私はいまだにこの規範に染まっているようなところがあるんだけれども、これらひとつひとつを精査していくと、結局のところ「出版業界(作者や出版社や書店)に金を落とすこと」を奨励してるだけなのでは……?という気がしないでもないでもない気がしてくる。資本主義キエエエエエエ――――!

 そりゃ私だって、できれば新刊書店の実店舗で本を買いたいと思ってる。書店を応援したいという気持ちはつねにある。そうはいっても最近は特殊な資料を必要とする小説を書いていることもあって、近所の小さな書店に必要な本が置いてないことが多く、都心にある大型書店に行く時間を捻出するのもむずかしいことがある。というかこのごろ本の寿命が年々短くなっていて、いざ必要となったときに新刊で出回っていないことが多すぎる(「だから新刊は早めに買いましょう!」って言ってる業界の人もちらほらいるけどなんだかな……)。時間がないときはネット書店や電子書籍を利用してしまったりするし、新刊をばかすか買えるほどの金銭的な余裕もないので図書館も利用するし、古書店だって利用する。そのたびにうっすら罪悪感にかられ、まちがってもSNSで発信しようとは思わない。

 待って、でもそんなのおかしくない? 図書館利用は市民の権利だし、思春期にブックオフのような新古書店の助けがなければ、そもそも私はこれほど本を読むようにはなっていなかった。犯罪を犯しているわけでもないのにどうしてこそこそしなくちゃいけないの? それはね、おまえのなかに根づく読書文化マチズモ規範のせいだよ! 出版業界を覆う不景気と資本主義のせいだよ! どーん!

 

 しかし、「読書マッチョだから」という理由だけでは、小説を音声で聴くことへの忌避感の説明にはならない。だって新書や人文書はむしろありがたく耳から聴かせてもらってるんだから。自分でもきもいとは思うのだが、やはり小説をどこかで「聖域」ととらえているのだろうか。うっ、さすがにいくらなんでもそれはちょっときしょすぎないか。

 先にも書いたとおり、新書や人文書が、蛇行する論理の流れを追いかけながら知や情報を得るためのものだとしたら、小説には別の機能を求めているからではないだろうか。もちろん小説だって基本的には蛇行する物語の流れを追いかけるものではあるし、設定や登場人物などの情報を含んだものでもある。なかには、知が含まれている場合だってある。

 だが、私が小説に求めているのは行間である。小説の読者が百人いれば百通りの小説観があると思うが、私はゆたかな情感を湛えた行間をこそ味わいたいのである。そうして行間は、音声では「読む」ことができない。

 もっと言うと、私は小説を音楽だと思っている。音楽なのであれば、まさに耳から聴くオーディオブックや朗読はうってつけではないかと思われそうだが、自分で演奏するのと他人の演奏を聞くのとではぜんぜんちがうように、小説もまた自分のなかで音を鳴らすのと、別のだれかがが読みあげたものを聴くのとではぜんぜんちがう。人間の声というのは多くの情報を含むものだ。プロの俳優や声優ともなれば、そこへ自由自在に感情表現を乗せられる。文字で読む小説とはべつの、独立した表現物だと感じるのはそのせいだ。

 もちろん観客としてそれを楽しむのも一興ではある。だが、小説に関してはなぜかむくむくと支配欲が湧いてきて、演奏するのも私、タクトを振るのも私、ここでたっぷりと行間をうたわせたいと思えば、私のさじ加減でいくらでもうたわせられる、ゴリゴリのマッチョスタイルで楽しませていただきたくなってしまうのである。あとなんだっけ最近よく耳にするようになった認知特性の視覚優位とか聴覚優位とか言語優位とか? それでいうと、たぶん私は言語優位なので、目で文字を読むのが得意なんじゃないかと勝手に思っているんだけど、その話をここではじめると主旨が変わってくるから強引に話を元に戻すとして、そう、だからつまり私にとって小説は音楽なのである。

 意味を取ること、情報を得ることよりも、音楽として心地いいかで小説の好き嫌いを決めているようなところがある。文章が旋律として気持ちよくないと読む気がしないのはそのせいだし、逆にいうと、文章さえ気持ちよく鳴ってくれればストーリーはそこまで面白くなくてもいい。「面白い」はむしろ邪魔な要素、場合によってはストレスに感じることさえある。ストーリーの面白さでぐいぐい読ませるタイプの小説より、ソフトストーリーと呼ばれるタイプの小説が好きなのはそのせいだ(後者のほうが「いい」文章を書く作家が多い気がするのもある)。ものすごく偏った嗜好だということは承知している。

 

 おのれの読書文化マチズモを反省しているように見せかけて、思いがけず小説マッチョっぷりを開陳するはめになってしまったが、もう後には引けない。ここからは実際に私が耳で聴いた小説の話をしようと思う。

 先に引用した『ハンチバック』は、一文一文がボディーブローのように効いてくる小説だからか、オーディオブックでも聴くことができた。むしろオーディオブックだから耐えられたけど、紙の本で読んでいたら耐えられなかった(二回目)。

 ただし、本作には終盤にかけて大きな飛躍があって、途中から振り落とされてしまい、しかたなくKindleで読み返すはめになった。

 小説における飛躍とは、言ってみればクソデカ行間である。言語優位のせいでうまく処理できなかっただけで、聴覚優位だったらうまいこといっしょにジャンプできたのかもしれないが、ここでその話をはじめると論旨がぼやけるから横に措いておくとして、その後、ものはためしに何冊か、目についた小説を音声で聴いてみて気づいたことがある。

 売れている小説は、音声で聴くのにちょうどいいということだ。

 売れている小説の多くは、「読者ファースト」で書かれているので飛躍や行間が少なく、シンプルでわかりやすい。登場人物の心情も造形もなにもかもすべてを言葉にして説明してくれるので、聞いていて振り落とされることがないのだ。それでいて雑味がなく叙述が洗練されているから、退屈させることもなく不快にもならずいい塩梅で最後まで聞かせてくれる。なにより目にやさしい! ありがとう! うれしい! 大好き!

 ただし、いま売れている小説のなかにも、行間で読ませるタイプのものが紛れ込んでいたりするから注意が必要だ。たとえば有吉佐和子の『青い壺』は音声で聴いてもなんだかよくわからないまま終わってしまった。紙の本も積んであるのでいずれ再チャレンジしようと思う。村田沙耶香『世界99』は平易な文章で書かれており、オーディオブックで聴いていてもついていけそうな気が一瞬するのだが、なにか、とんでもなく禍々しいものが耳から脳に差し込まれるかんじがして、途中で怖くなってやめてしまった。こちらもいつか文字で再チャレンジします。

 構築的で複層的な小説を音声で聴くのはいかにも向いていないかんじがするが、ためしに聴きはじめた『罪と罰』はいまのところいいかんじである。オーディオブックでなければ読んでみようとも思わなかったはずなので、とてもありがたい。あと、昔は共感性羞恥に悶え苦しんで読み進めることができなかった『赤毛のアン』も音声だと不思議とすっと入ってくる。ほとんどがアンのおしゃべりだから音声と相性がいいのかもしれないし、単に私がアンよりもマリラに近い年齢になったからかもしれない。

 

 売れている小説には売れているだけの理由があるのだと、耳から聴くことで吞み込めたのは大きな発見だった。もとの小説の情報量が多いうえに、声という情報──読み手の演技や呼吸などが乗っかるので、情報の洪水のようになるのだが、言葉数や情報が少なく行間で読ませるようなタイプの小説より聴きやすいというのは意外といえば意外ではある。

 同時に、やはり私が小説に求めているのは「わからなさ」なのだなと改めて思った。他者性と言い換えてもいいかもしれない。「共感できる」ことがよい小説の条件のように言われてひさしいが、むしろ私は小説に共感なんていらないから、わからなさに振りまわされたいと思うほうだ。「弱者に寄り添う」なんて言葉もこのところよく耳にするようになったけれど、「弱者」が置かれた状況をわかりやすく伝えるフィクションも必要だと思う一方で、それ一辺倒になってしまうと、いや別に寄り添わなくていいから「弱者」を他者として読者に差し出してくれよと思ってしまう(その意味で『ハンチバック』はゴリゴリの他者だった)。

 理解できないものを無理やり嚙みくだいて理解した気になるのはめちゃくちゃ気持ちのいいことだ。なんとなく自分がいいものになったような気がするし、一段高いところに昇ったような気になれる。しかしやっぱり、そればかりくりかえすのはあまりに拙速で危ういと感じる。理解できないものを理解できないものとしてそのまま抱え込み、安易な共感や同情や義憤に頼らずじぶんごととする。そんな胆力のある小説をこそ、私は文字で読みたい。

 なんということだろう。これだけ文字数を割いておきながら、「小説を小説として楽しむにはやっぱり文字で読むのがいちばん」というクソマッチョな結論に達してしまった。自分でもちょっと信じがたい。各方面にむかって差し障りのありすぎることを書いてしまった気がするが、今後、私が業界から抹殺されたらおそらくこのエッセイを書いたせいです。

 紙の本に固執せず、これからも私は電子書籍やオーディオブックを併用していくだろうし、そのときどきで図書館も古書店もネット書店も、もちろん町の書店も利用していくだろう。これだけゆたかな選択肢が用意されているのは、いま現在、私が健常者だからであって、死ぬまで享受できるとはかぎらないことも忘れずにいたい。どんな形だろうと、本とのつきあいを続けていくことだけはたしかだ。

本連載は今回で終了です。ご愛読ありがとうございました。
文庫オリジナルでの刊行を予定しています。お楽しみに!


吉川トリコ(よしかわ・とりこ)

1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。2021年「流産あるあるすごく言いたい」(エッセイ集『おんなのじかん』所収)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。22年『余命一年、男をかう』で第28回島清恋愛文学賞を受賞。2023年『あわのまにまに』で第5回ほんタメ文学賞あかりん部門大賞を受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』シリーズ、『コメディ映画で泣くきみと』『あわのまにまに』『裸足でかけてくおかしな妻さん』など。近著に自宅を建てる経緯をつづるエッセイ『小説のように家を建てる』。
Xアカウント @bonbontrico


 

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