こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「化け猫、かく語りき」
この十円ハゲは、今から三十年以上前にできたものだ。あの頃はまだ、世の中にも昭和の気配が色濃く残っていたように思う。湯を浴びに来るのは一般客だけではなく、背中に桜吹雪を背負っているような目つきの悪い連中や、どこから逃げてきたのかもわからない、身元不明者も多かったのである。祖父の経営方針を引き継いでのことらしいが、彼らを排除することなく、まるごと受け入れていたのは和代の人徳と懐のデカさだと言えよう。
しかし、その中には絵に描いたような荒くれ者も存在していた。ある時、わたしが食べ物をねだったのもそういう男だった。飢えに耐えかねての行動とはいえ、軽率だったと言わざるを得ない。大方、その男は賭け事に負けて、虫の居所が悪かったのだろう。もう何本目かもわからない煙草をすぱすぱと乱暴に吸い続けており、その吸い殻が次々と足元にたまって、小さな山を作っていた。
三回ほど、にゃあ、と鳴くと、男がこちらに視線を向けた。やっと餌にありつけるかもしれない、と希望に胸を膨らませたのも束の間、そこからが最悪だった。男はわたしに気づくと、にやにやと笑いながら何の躊躇もなく、自分が吸っていたタバコの火をわたしのおでこに押し付けてきたのである。逃げようにも、尻尾を掴まれ身動きが取れない。痛みよりも先に、じりじりと体が焼け焦げる音を聞いた。自分の皮膚の焼ける臭いを嗅いだのは、遠い昔に仮住まいの安普請で火事に巻き込まれた時と、先の大戦で空から無数の火が降ってきた時以来だった。
だめだ、殺される、と恐怖に怯えた次の瞬間、数メートル先から、だだだっ、と足音が聞こえてきた。
「虎丸を、いじめるなっっ!」
ここ一ヶ月の間に銭湯に姿を現すようになった、名前も知らない少年だった。気が向くと、わたしに牛乳やら鰹節を与えてくれる。どうやらそれで、わたしを飼ったつもりになっているらしい。
「……んだ、てめえ」
男がゆらりと立ち上がり、わたしから手を離した。地面に蹲ったわたしを庇うように、少年がずいと男の前に出る。しかし、勢いで飛び出してきてしまったであろうことは誰の目にも明らかだった。声をかける以外、何の策も講じていなかったらしい少年が、男の動きにびくっと体を強張らせた。男が暗い目をして、少年に腕を伸ばしかけたその時、
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。