武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」4. 喫茶ネムノキ
家だと集中して本が読めないし、一人ではすぐに気が散ってしまってやっぱり読めないから読書に付き合ってほしい、と言う修太に連れられて、商店街の中ほどにある喫茶店へやって来た。店のドアを開けると内側にとりつけられたドアベルが軽やかな音をたてた。おにぎり徳ちゃんのドアにも同じベルがついていたような気がする。白い壁に、柔らかなミントグリーンのソファが映える。六つほどあるテーブルの上にはそれぞれ小さなグラスに造花ではなく、本物の花が活けられていた。
「ここ、同級生の坂本って奴の家なんだ。料理とコーヒーが親父さんの担当で、お母さんが店長してるの」
窓の外には「喫茶ネムノキ」という木製の看板がかけられていた。
「今日のお礼に、なんかおごるよ。うまいんだよ。カレーもナポリタンも」
修太の本を選ぶついでに雄士も文庫本を一冊買ったので、一緒に読むことにした。
「俺、ビーフカレーとアイスティー。雄士さんは?」
聞かれてメニューを眺めると、ランチのページに載っているパスタやサンドイッチの写真がどれもなかなか美味しそうだ。
「じゃあ、ミックスサンドとコーヒーにしようかな」
「そんなんでいいの? おごるよ?」
いくらなんでも年下の高校生にハンバーグだのカレーだのをご馳走になるわけにはいかない。修太は、読む本が無事に決まったことですっかり上機嫌らしく、店の奥に歩いて行って、注文を伝えると、二人分の水のグラスとおしぼりを持って戻ってきた。しばらくして、雄士のサンドイッチと修太のビーフカレーを運んできたのは、女の子だった。テーブルの上には、やけに大きなカゴつきの自転車を押す男の子の人形が飾られていて、料理の皿を運んできた女の子は、そのカゴの中にくるくると巻いた伝票を入れた。
「こちらを後ほどお会計の際にお持ちください」
長い髪を頭の高い位置でぎゅっとポニーテールにしているその子が、夕方に商店街の近くで柴犬の散歩をしているところを雄士は何度か見かけたことがあった。
「修太がここで勉強するなんてめずらしいね」
彼女の言葉に修太が胸を張る。
「読書感想文、ちょっと手伝ってもらっててさ。あ、この人ね、近所に住んでる雄士さん。こっちは同級生の坂本桜。小学校から一緒なんだ」
雄士が頭を下げると、桜はにっこり笑って、「初めまして」と雄士に言った。
桜にとって、自分は初めましてだったのか。微妙に残念な気持ちとほっとした気持ちが入り交ざる。夕方の道で何度か見かけただけの相手なのだ。そりゃあ初めまして、だろう。目の端にちらりと「バイト募集中」という貼り紙が映った。
『簡単な調理の補助、ホール、清掃。時給1300円。未経験者、学生OK。賄いつき。』
「あ」
思わず声が出た。賄いつきのアルバイトだ。いやでもまずは落ち着いて食べてみよう。味が大事だ。雄士はサンドイッチのお皿から、一切れを取った。ポテトサラダがやわらかな白パンからあふれそうなほどたっぷり挟まっている。一口食べてみて、思わずうん、と頷く。
「サンドイッチすごく美味しいですね」
水のピッチャーを手にテーブルに戻ってきた桜が、微笑んだ。
「良かった。両親が喜びます」
「雄士さん、カレーもうまいんだよ」
そう言いながら、修太は、さっき書店で買ったばかりの本をカレーの皿の横に置いた。
「感想文は、とりあえず章ごとに感じたこととか気になった部分を書きだしていってみようか」
雄士の言葉に、修太はトートバッグから付箋も取り出す。
「あ、ごめん。先に食べよう。冷めちゃう」
雄士の言葉に、うっすと頷くと修太はスプーンを取り、カレーをもりもり口に運び始めた。あっという間にお皿の上が空っぽになっていく。
「うまかった!」
修太がぽんと手を合わせると、奥から桜の母親がプリンを二つ載せたトレイを持ってやって来た。
「修ちゃん、なんか宿題頑張ってるんですって? えらいね。これ、おまけ」
桜とよく似た顔で笑う彼女に、雄士は思い切って声をかけた。
「あの、ここで働かせてもらえませんか」
きょとんとする桜の母と修太である。
「料理に関しては初心者ですが、ホールならできると思います。履歴書は改めて持ってきます。面接を受けさせていただけませんか?」
「修ちゃんのお友達?」
「はい。今、大学一年です」
「夏休み期間中に働きたいということ?」
「後期が始まってもこちらさえ構わなければできるだけ入りたいと思います」
桜の母は、しばらく考えてからこう聞いた。
「サンドイッチ、美味しかったって?」
「はい、とても」
雄士が頷くと、桜の母は満面の笑みを浮かべた。
「うん。採用!」
そういうわけで、雄士のアルバイトはあっさりと決まり、あっという間に一週間が経った。夏休みの間は、週四日。朝八時から午後四時まで。とちゅうの休憩時間に、モーニングから一つ、もしくはランチから一つ好きな賄いを選ぶことができる。食費がこんなに浮くなんてラッキーだ。午後になるとたいてい修太がやって来るので、休憩ついでに感想文の進捗を確認してやる。修太は、現国が苦手だと言っていたけれど、彼の書く文章は的を射ていて読みやすい。疑問に思うことも、感想もひとつひとつが新鮮だ。これなら憧れの若菜先生にも褒めてもらえるかもしれない。
喫茶ネムノキでは、夕方になると、ふっと客足が途絶える時間があり、そういう時は、窓際の一段高い所にぽつんと置かれた小さな水槽のそばの席で、本を読む。水槽にはテレビの形をした赤い置物が沈んでいて、周りには水草が綺麗に植えてあった。
「あの中って何かいるんですか」
明るい娘の桜とはまったく似ておらず、かなり無口なマスターが顔を上げ、こくりと頷く。マスターから何かを指示されるということが今のところほとんどないので、雄士はどうしてもわからないこと(たとえば領収書の書き方とかストックの砂糖の収納場所とか)を教わる以外は、ほとんど自分の勘で動いているのだが、特に注意もされない。
「ウーパールーパーが住んでいるよ」
めずらしくマスターが続けて言葉を発した。
「へぇ」
「人懐っこい子だからそのうち雄士くんのことを覗きに顔出すんじゃないかな」
ウーパールーパーが人懐っこい生き物だとは知らなかった。ついでにもうひとつ気になっていたことをチャンスだとばかりに訊いてみる。
「あの、店名のネムノキというのはなんですか?」
「質問が多いと緊張するなぁ」
緊張しているようには到底見えないのんびりした顔で、マスターはふふと笑う。
「ネムノキっていうのは夜になると葉が自然に閉じて垂れ下がって寝る木のことなんだよ」
「へえ」
そんな木があることも雄士はまったく知らずにいた。
「眠る時に葉っぱが閉じるってなんか面白いでしょ。俺の親父が昔からなんでだかネムノキが好きでね。店名にまでしてずっとこの店やってきたんだけど、五年前に腰、悪くしちゃってさ。それまで僕、普通に会社勤めだったしずいぶん迷ったんだけど引き継いだんだよ。だってなんかこの店、可愛いでしょ」
わかります、と言って雄士は、ぐるりと店内を見回した。白い壁。ミントグリーンのソファ。ごく小さなボリュームで流れるどこかの国のラジオ。ぺたりぺたりと思い出したように壁に貼られた数枚の古い絵はがき。雄士は、各テーブルを拭き、ペーパーを補充してまわった。ここで働き出してまだたったの一週間だが、小さな世界を居心地良くしつらえるというのは、かなり自分に合っているようだ。テーブル上の小さなグラスを集めてきて、ひとつずつ中を洗って清潔な水で満たし、新しい花をさして戻す。なんだかとてもいい。
「雄士さん、ばあちゃんがおかず用意して待ってるから帰りに店に来いって」
だいぶ感想文の宿題が進んだらしい修太が片付けをしながら奥のテーブルで立ち上がった。
「じゃあ後で寄らせてもらう。お会計ですね」
深緑色のカフェエプロンは雄士が働き出すにあたって桜親子が用意してくれたものだ。ポケットにメモとペンを入れ、気になることはこまめに書きとめることにしている。この夏は、もしかすると結構楽しくなるかもしれない。レジに向かいながら、そんなことを雄士は思った。
(次回は2月28日に公開予定です)
1980年神奈川県生まれ。『諸般の事情』『驟雨とビール』などのZINEを発表後、2024年『酒場の君』(書肆侃侃房)で商業出版デビュー。
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