【連載第2回】リッダ! 1972 髙山文彦

リッダ! 1972 第2回


第一章 夜の谷を越えて

 重信しげのぶふさがはじめておくだいらつよに会ったのは、一九七〇年の夏の盛りであった。ある重要な任務を負って彼女は東京を離れ、大阪にいることもあれば京都にいることもあった。逮捕状が出ているわけではなかったが、潜伏生活と言ってよい日々を送っていた。
 それは八月のことだったと思う、と刑期を終えて二一年ぶりに社会にもどってきた彼女は言った。
 よく蒸し風呂にたとえられるように、その年の京都の八月の最高気温は、いちばん高い日で三五・五度、いちばん低い日で二七・四度。周囲を低い山々にかこまれているものだから、滅多に風が吹かず、盆地の底にたまった熱気と湿気がなかなか逃げていかないのだ。
 左京区北白川久保田町の一隅に、奥平剛士の住まいはあった。すぐそばを白川疎水が東西に流れていた。東へ行けば、あっという間に銀閣寺。そのまま南へ折れる疎水沿いを行けば、桜並木が涼しげな影を落とす哲学の道を経て、南禅寺にいたる。西へ行けば疎水は急に北へカーブして離れてゆくが、そちらとは反対側に目をやれば緑の懸崖が立ちあがり、山稜をなしている。大きな牛が寝そべっているような、なだらかな起伏をなす吉田山は、標高一二一メートルと聞けばたいして高くはないと思うけれども、平坦な街並みに突然ぽっかりと島のように浮かびあがるさまは、その向こうに大文字、さらに遠くに比叡の山々を置いて、神秘的でのどかだった。
 吉田山を左手に見ながら今出川通りを西へ行けば、じきに両側に京都大学のキャンパスが見えてくる。路面電車がのんびりと走っていた。「北白川」の電停から乗れば造作もなくひと駅で「農学部前」に着くのだが、学生たちはたいてい歩くか自転車に乗って近隣の下宿やアパートから通ってくる。キャンパスをとりかこむ塀や門には、行動と決起を呼びかける立看板が競いあうように乱立し、高さ三一メートルの煉瓦れんがふうタイル張りのクラシックな時計塔には、チェ・ゲバラの肖像写真が高く掲げられていた。ゲバラは三年まえの一九六七年一〇月、ボリビア革命の途上で政府軍に生け捕りにされ、銃殺されたのだ。
 九月二八日で二五歳を迎えようとしていた彼女は、明治大学二部文学部史学地理学科を卒業し、前年四月に政経学部に学士入学していた。文学部時代に教育実習を終えていたが、多くの友人たちがヘルメットや角材を置いて就職していったようにはできなかった。もう一度教師になるためにやりなおそうと学士入学してみたものの、ここでもそうはいかなくなった。
 頼みとしてきた赤軍派のリーダーたちは、ほぼ全員逮捕されるか辞めるかしていなくなってしまった。それまでもっぱら救援対策や財務といった合法活動に従事してきたのに、急激な人員不足から非合法活動までも担わざるを得なくなった。海外に革命の拠点づくりをしようという国際部の任務がそれで、責任者のひとりとなった彼女は、東京にいればいるで嫌がらせのように公安警察につきまとわれ、いつまた逮捕されるやもしれぬ危険な状況にあった。そうした事情もあったし、国際部がめざす世界革命のための国際根拠地づくりの対象をパレスチナに求めようとしていたこともあって、相談に乗ってくれる仲間たちのいる関西へ生活圏を移していたのである。
 その日彼女は、関西在住の友人につれられて京都市内をカンパ集めに歩いていた。京大出身の医者など三人ばかりに会わせてもらったところ、思いのほか赤軍派への批判も聞かれず、根掘り葉掘り尋ねられることもなく、あっさりとカンパをもらうことができた。それで時間が余ってしまった。まだ陽は高かった。
 そういえば、と友人は言った。京大工学部の七回生で奥平剛士という男がいる。最近、交通事故に遭って賠償金をもらったばかりのようだから余裕があるはずだ。行ってみようか。
 その青年は、これまで三度逮捕(いずれも不起訴処分)されている彼女のようには表立った活動歴もなく、ほとんど公安警察からはノーマークらしい。
 そこは下宿とかアパートというのではなく、一風変わった住まいだった。
 疎水に架かる小さな橋のたもとまで来たとき、「雲助」という居酒屋がまず目にとまった。あとで知ったことだが、奥平グループのたまり場だという。橋を渡った先は下宿屋を兼ねる民家やアパートが軒をつらねる住宅街で、京大、同志社、立命館の学生が多く暮らしていた。
 友人はH家という一軒の家のまえで立ち止まり、勝手知ったように敷地内にはいって、門の左手に立つ小屋のまえに立った。それは納屋かなにかを改造したような板張りのなんとも粗末な造りで、戸板を手で引っ張って友人はなかにはいっていった。トイレや物置などによく使われる、金属のフックを小さな輪っかに引っ掛けるだけの簡単な内鍵を見て、不用心だなあ、と彼女は微笑ましくもあった。
 室内は六畳の和室と二畳ばかりの板の間に流し台という簡素なつくり。足の踏み場もないほど雑然としたありさまに、
「山小屋みたいね」
 と、彼女は思わず小さく声に出してしまった。男臭いというか、三歳下の京大生の弟と同居しているので、蒸せかえるような真夏の熱気には、ふたり分の若い男の汗や体臭がしみついていたに違いないのだが、彼女は全然気にならなかった。
 ちょうど訪れたとき、奥平剛士はランニングシャツ一枚で板の間に坐り、「お釜だかお鍋だかを磨いていた」らしい。きっと山登りから帰って来たばかりだったのだろう。磨いていたのは、飯盒はんごうやコッフェルの類だったのではあるまいか。男所帯らしく蒲団が隅にたたんで押しやられ、たくさんの本とともに、キスリングやシュラフといった登山用具が雑然と置かれていたはずだ。弟は外出中で、彼はひとりでいた。
 一九四五年生まれの奥平剛士は、七月二一日で二五歳になったばかりだった。重信房子と同年である。大洋漁業のエリート社員である京大農学部出身の父と専業主婦の母とのあいだに山口県下関市で生まれ、県立下関西高校を経て父親の転勤で岡山市に移り住み、県立岡山朝日高校から京大工学部電子工学科に現役合格した。東京オリンピックが開催された一九六四年のことである。
 従兄の菅沼清(剛士の実父の兄の息子)によれば、岡山県内トップの進学校であった岡山朝日での成績はつねに五番以内にはいっており、担任からは東大へ行けとすすめられたが、父親の助言で京大にしたのだという。「なぜ東大に行かないのかという話はありましたが、私は京大ぐらいにしたらとすすめたことはある。大学でまた勉強の虫みたいになるのはつまらんから、少しのんびりすることも考えろ、と言いました」と父親も話している(奥平剛士遺稿集研修医委員会編『天よ、我に仕事を与えよ』作品社)。
 教養課程で一度留年し、専門課程では二度留年しており、いまは四年生だったが、関西流の呼びかたをすれば七回生ということになる。
 友人が話しかけても流し台のほうを向いたまま仕事の手を休めず、ちょっとだけこちらに首をねじって話を聞いていたが、それからすっと立ちあがり、磨き終えた道具を棚にしまった。
 身長は一七〇センチを少し超えるくらい。ボクサーみたいな体つきをして、ランニングシャツから露出した肌は、もう何年も炎天下になじんできたように褐色に光っていた。肩や腕の筋肉が盛りあがっている。
「なにをやってるんですか?」
 と、重信房子はいつもの調子で明るく声を投げた。
「土方やっとる」
 と、彼はぶっきらぼうにこたえた。
 じつはカンパのお願いで来たのだと言うと、
「ちょっとまえなら金はあったんやが、みんな呑んでしもたわ」
 と、いかにも豪快に「ワッハッハ」と声をあげて笑うのだ。
 それからようやく、こちらに向き直り、
「こんなとこ、女の人なんて来たことないで」
 と言った。
 足の踏み場もないこんな汚ないところへよくも来たものだとでも言いたげに白い歯を見せて笑う彼の顔は、よく体を使っている人のそれらしく小さく引き締まり、黒くて光沢のある頭髪が広くて聡明そうな額に斜めに流れていた。その顔を見た瞬間、彼女は、
「この人は男に好かれる人だ。女の人なんて眼中にない人なんだ」
 と思ったという。
 この直感が間違いではなかったことを、のちに彼女ははげしく知ることになる。ふたりに永遠の別れが訪れるそのときまで、彼はそのようにありつづけた。
 肉体労働をはじめたのは一回生の九月ごろから。以来、七回生のいまにいたるまで一度も離脱することなくつづけていた。
 京都駅南口の目のまえに、東九条という地域がある。そこは在日朝鮮人を住民の大半とするスラムであり、被差別部落出身者も暮らしていた。奥平剛士は大学入学後、底辺問題研究会というセツルメント活動に取り組むサークルにはいり、その活動先である東九条に通うなかで、地域活動のリーダーのひとりであった三〇代のある男と出会い、土木作業員として生計を立てている彼のもとで肉体労働に励むようになった。
 被差別部落の出身であるその人物は、身長が一七〇センチあるかどうか。一九七〇年の日本人男性三〇歳の平均身長が一六五センチを少しこえるくらいだったから、大きいほうではあった。土方で鍛えた屈強な肉体、はげしい気性、そして情け深かった。勤勉で弁も立つうえに喧嘩っぱやく、仕事にたいしては手を抜かなかった。彼は「東九条青年会」という部落青年の集まりをつくり、生活のあれこれに困っている人びとからいつでも相談をうけて解決にあたろうとする「よろず屋会」のリーダーでもあった。
 蜂の巣のように密集するバラックの町が火事で焼けるたびに京都市当局ときびしく対峙し、日本共産党の青年組織日本民主青年同盟が主導するセツルメント活動にたいしても、子どもらの宿題をみてやる程度の自己満足で東九条のなにがわかるものか、と学生たちに容赦なく批判をあびせた。彼は学生たちにとってスラムの喜怒哀楽の化身であり、学生という期間限定の薄青い善意を打ち砕く恐ろしい存在であったろう。おそらく一九歳の奥平剛士は、そうした彼の懐に飛び込み、自分の限界を越えようとした。それで彼の指導のもと土方をするようになり、酒とホルモンと議論と鉄拳の洗礼をあびながら成長し、やがて土木の現場でも殴り合いでも本人を上まわるようになった。
 ヘルニアで彼が働けなくなってからは解体業を営む老夫婦の工務店で働くようになり、それは一棟につきいくらで解体するという請負仕事であったから、もはやアルバイトの域をこえて「奥平組」と呼んでもいいようなひとつの組をなしていた。見積りから図面引き、工程管理、現場監督まで一手に引き受けて、老夫婦に感謝された。もういっぱしの土方の大将だったのである。
 彼はまた山によく登った。週に一度のペースで北山一帯から比叡にかかる山々に出かけ、ときに登山道をはずれて藪漕ぎをするようなしんどい登りかたを自分に課していた。夏休みには白馬岳を最高峰とする後立山連峰を単独で縦走したり、春休みにはまだ雪の残る滋賀の比良山地を山スキーで縦走したりしている。どういうわけかよく雨に降られ、濡れ鼠のようになって帰って来ることがたびたびあったが、このH家の離れにいるときも筋力トレーニングとストレッチを怠らず、冬場には耐寒訓練のつもりでもあるのか、窓を開け放ってランニングシャツ一枚で過ごしていた。
 両親が暮らす岡山へ帰省するときは、片道二二〇キロメートルの距離を一昼夜以上かけて自転車で往復した。
 このようにして彼は、日ごろから肉体の鍛練を怠らなかった。

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「リッダ! 1972」アーカイヴ

髙山文彦(たかやま・ふみひこ)

1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。

採れたて本!【デビュー#08】
こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』