【連載第2回】リッダ! 1972 髙山文彦
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では、もうひとつの場所「東九条」はどうか。
奥平の日記は京大入学後の五月八日から書きはじめられ、一九六七年二月二四~二六日、すなわち教養課程の終了時(三回生)までの三年間で終わっている。一年生の五月から底辺問題研究会というサークルにはいり、京大、立命館大学、ノートルダム女子大学、華頂短期大学、日赤看護学校の学生たちでつくる「兄弟会」のメンバーの一員として、京都駅南口の目のまえにひろがる在日朝鮮人を中心とするスラムにはいり込み、学校の勉強についていけない子どもたちや休みがちな子どものために勉強を教え、ハイキングにつれて行ったり、相撲や鬼ごっこをしたり、祭りを催すなどしてセツルメント活動に明け暮れていたことがわかる。
基礎学力の欠乏ゆえに机のまえでじっとしていられぬ子どもたちは、待ちかねたように彼の姿を見つけると、いますぐ遊んでくれと群がりせがんでくる。手を焼きながらも彼は、よく遊んでやっている。
この日記がセツルメント活動のスタートからそれを去るまでの記録であり、「まさに出会った時の彼自身を、私はそのように見たからです」と重信房子が評したあの詩は、セツルメント活動への別れの歌でもあったことはすでに書いた。
しかし、彼は東九条から去ったわけではない。
その東九条のスラムは、終戦から二〇年を経過しているのに、廃材やトタン板などを張りあわせて急づくりした痩せっぽちのバラックが狭い路地にひしめきあっていた。高瀬川が鴨川と合流するあたりのバラックは、ひとたび水勢が増せばちぎれとんでしまうような足場も貧弱なありさまで、生活排水をそのまま垂れ流すものだから川は濁り、悪臭を放っていた。大火も絶えなかった。
彼はそこで、あるひとりの強烈な個性とオーラを放つ一〇歳あまり年上の男と出会い、暴力と言葉の洗礼を全身にあびながら彼のもとで土方に精を出し、頼りにされる存在として成長していった。
時ありて
猫のまねなどして笑ふ
三十路の友の、ひとり住みかな
忘られぬ顔なりしかな
今日街に
捕吏にひかれて笑める男は
(一九六六年一一月一日)
彼はこのように日記に啄木の歌の一節を引き、「大杉」という男の、ある一日の痛切な断面に思いを寄せて、
俺には現実がある
俺はそれを酒場の女にみた
ばくちに体をはるたくましい若者にみた
つるはしをはねかえすかたい土くれにみた
俺の体からほとばしる汗と血にみた
(同年六月一〇日)
と、学問や知識や理論ではけっしてたどり着けない最下層の庶民の生活の根に、ともに肉体労働をすることによってはじめて触れることのできた実感を語っている。
被差別部落出身のこの「大杉」こそ、奥平の若い肉体と精神を根元から揺さぶり、暑苦しいまでの声援を彼に送りつづけた人物であった。私はこの人に会いたくて探しまわってみたが、東九条からはとっくのむかしに消えていて、所在を知る人はひとりもなかった。
「ふたりは顔がよく似ていたんです。彼のほうが身長は奥平さんより少し低かったけれど、差別されて育ってきた人だから向こうっ気がつよくて、一本気な人で、奥平さんのことを大切に思っていました」
奥平の後輩のひとりはそのように話してくれたけれど、この人も奥平の人物像やエピソードについては語ってくれなかった。
どうすればいいのか、私はやるべきことを見失い、東海道本線をあいだにはさんで北側にある崇仁地区へ、あてもなく足を伸ばしてみた。同和対策事業で建てられた背の高い団地が幾棟もならぶそのあたりもまた、古都京都のイメージとはおよそかけ離れたものさびしい風景であった。
ぶらぶらと歩きまわっていてもしかたがない。建って間もないように見える立派な資料館のような建物にはいってみると、ひとりの職員の姿もなく、がらんとした冷たい空間がひろがっていた。奥に向かって声を響かせてみると、奥から初老の男があらわれた。私はきっとこの人は部落解放運動を同地で担ってきた人ではないかと思い、「大杉」のこと、奥平剛士のこと、自分がいまなにを調べているのかを助けを求めるように打ち明けて、彼らと一緒に土方をしていた人を知らないか、と尋ねた。
するとその人は、しばらく考えてから、
「それは私です」
と、少し目を伏せ気味にして言った。
奥平剛士を知っている?
「知ってます。……いや、知っておりました。一緒にMさんのもとで働いてましたから」
遺稿集にある「大杉」というのは仮名であろうとは思っていた。下の名前も書いてないのだから。いま目のまえにいる人は本名を口にした。世間にさらしてはならないだろうと考えてMとしておくが、Mと一緒に働いた奥平の後輩からもそのように聞いているので、これが本名であることに間違いはないだろう。
名前を出してくれるなと言うので、この人についてもY氏と呼ぶことにするが、
「そりゃあ、すごい人やったでえ」
と、Y氏は言うのだった。
東九条で生まれ育ったY氏は、奥平とともにMのもとで土方に汗を流していたという。Mは「東九条青年会」という解放運動組織のリーダーで、Y氏も同運動に深くかかわり、いまでは崇仁地区の再開発にもかかわって、同地区の今昔を伝える教育活動のリーダーになっていた。奥平剛士より五歳下の一九五〇年生まれだというから、奥平が二〇歳のときこの人は一五歳。少年ゆえに鮮烈な経験があったようだ。
「アニキ……奥平のアニキことを話すなんて、はじめてや」
と、Y氏は言った。
「はげしい人やったんです、Mさんは。喧嘩っぱやいし、弁もたつ。度胸もピカイチや。差別をうけて育ってきたから、悔しい人でもあったんやけどな。中学生らが道端でシンナー吸っとるやろ。そういう子らがごろごろ東九条にはいてたんやね。それ見つけると、おまえらそんなもんやめえ言うて、シバくんや。もう二度としませんと泣いて謝るまで帰さへんねん。東九条の解放運動のリーダーが、あの人やったんですわ」
私は「アニキ」と言ったY氏の顔を、まじまじと見ていた。
「自分も学校は小学五年までしか行ってないねん。家の近くの段ボール箱をつくる工場に丁稚奉公に出たんですわ、一時間一一円でな。それから十代後半にセツルメントの連中からマルクス・レーニン主義を学ぶようになるんやけど、そのなかに奥平のアニキがいてたんです。講師をしたこともあったね。そりゃ、すごい人やったでえ、あのアニキも……」
Y氏は親しみを込めて、やはり「アニキ」と言うのだった。
「忘れるなんてできへん。相当シバかれましたよ、あのアニキもMさんにな。いちばん最初は、ぶん殴られて高瀬川に投げ込まれてんねん。それでもアニキは、あんな細い体してるのに、殴りかかっていくねん。自分が勝つまであきらめへんのです。一緒に土方やって、一緒にホルモン食うて、酒飲んで、しこたま議論を吹っかけられて、それでまたシバかれるやろ。悔し涙と血で顔をクシャクシャにして、もう来ないんやないかと思ってたら、つぎの日も朝いちばんにだれよりも早く現場に出て、ツルハシを振るってる。そういう人やった、あのアニキは。それでMさんにすっかり頼られるようになって、ぼくもアニキについて行ったんです。土方の場面でも、ものすごい仕事のやりかたすんねん」
そしてこの人は、あの空港襲撃事件について、このように言うのだった。
「ぼくは、ずっとこう思ってる。奥平のアニキは、京都パルチザンとか赤軍とか、そういうところからアラブに出て行ったんやない。あのアニキは、われわれの東九条から出て行ったんや。世界でいちばん虐げられてるのがパレスチナの人たちや。アニキはその世界最底辺の人たちとの連帯を目指して、東九条という最底辺のスラムから出て行って、闘って死んだんです。あの事件のことは、ぼくは車のラジオで聴いた。その日の晩にMさんから電話が来て、アニキの名前がぽんと出た。ええっ、と、ほんまにぼくはショックやった。ほんまにあのアニキ、命をかけたんやなと……。ただのテロリストで片付けてほしくない。アニキのことは歴史的にきちんと評価してほしいと思うねん」
このときはじめて私は、彼の肉体を見たと思った。
<第3回(第二章)へ続く>
1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『鬼降る森』『水平記』『エレクトラ』『どん底』『大津波を生きる』『宿命の子』『ふたり』などがある。