【連載第3回】リッダ! 1972 髙山文彦


慈悲深き神よ、支配者の罪をなぜ虐げられた民衆におわせるのか。

 矢内原やないはらただの『続 余の尊敬する人物』(岩波新書、六四年一月一五日、第一六刷)の二一ページの余白にそう書き込んだのは、ほかならぬ奥平剛士であった。
 矢内原がそこに書いているのは、旧約聖書イザヤの預言であって、「連日連夜の宴会に耽りつつ政治を取引し、裁判を歪める官僚、軍人、司法官たち」にたいして神の怒りが爆発、「エホバその民にむかひて怒りを放ち、御手をのべて彼らを撃ち給うた」と、腐敗の元凶である為政者のみならず国民までも殺したあげく、「されどエホバの怒りやまず」、アッシリアの軍隊まで動員して「孤児と寡婦」となった者までをもひとり残らず殺戮する。
 なぜそうするのか。
「彼らはすべて邪悪にして、各々の口は愚を語るから」
 と、イザヤは言う。
 そして、矢内原はこのように章を締めくくっている。
「今にして罪を悔い改めて正義に帰り、滓をきよめ鉛を除き、政治を正しくし裁判を公平にするのでなければ、日本国民に対するエホバの審判は敗戦をもって終らず、敗戦をもって始まるでありましょう」
 初版刊行は敗戦から四年後のことだから、日本じゅうが焼け野原となったあの惨劇の日々を思い浮かべてそう書いているのだろうが、では東九条の悲惨は「エホバの審判」の新しいプロセスであるのか。以後なおも政治が腐敗すれば、東九条は「すべて邪悪にして、各々の口は愚を語る」ものとして、「孤児と寡婦」までをも焼き尽くされるというのか。
 無教会キリスト者の、かくも無責任で荒唐無稽な言説のたれ流しを、彼はキリスト教の歴史を知るために読んだのかもしれないが、中学二年のときすでに彼は、「宗教に頼るやつは自分が弱いからなにかに頼ろうとする、ろくでもないやつだ」などと、クラスは違っていたけれど、社会科の教師から奥平がそう言っていると伝え聞いた同級生がいる。
「宗教についてなんて、考えてみたこともないころです。そんなことを授業中に教師に向かって発言しているのかと、びっくりしました」
 織田峻氏は下関市内で医院を開業している。私は土曜日の午後、待合室で話を聞かせてもらったのだが、奥平の宗教への不信と嫌悪は、一三歳前後にしてすでに確立されていたらしい。
 矢内原の同書は、イザヤからパウロ、ルッター、クロムウェル、内村鑑三について、いわば宗教改革をなしとげた人物を中心にエッセイふうに叙述する内容であるが、イザヤの章にもっとも敏感に反応する彼には、徹底して名もなき民衆側に身を置こうとする態度が感じられ、余白に書き込まれたこの一行によって、矢内原の論旨全体がひっくり返されたような印象をうける。また、それがユダヤ教の聖典である旧約聖書の重要な預言者の話であるだけに、その後パレスチナへ向かう彼の行動を暗示しているようでもある。
 朝鮮人についても、彼は京都ではじめて知ったのではない。彼らとは下関の少年時代から親しく交わっていた。だれも行きたがらぬ彼らの住むスラムへ、すすんで自分から通っていたのである。
 王江小、名陵中、下関西高と、山口県下ではトップクラスの進学校をつねにトップかそれに近い成績であがっていった彼は、秀才ぶるところもなく、人が怖がって避けて通る電灯のない細い夜道をわざわざ選んで歩いたりする克己心のつよい少年だった。朝鮮人部落では勉強のできない生徒に宿題を教えたり、一緒に相撲をとったり、取っ組みあいの喧嘩もしていた、と小中高を同級生として過ごした井上徹氏は言う。
「大洋漁業といったら、下関でいちばんの大企業です。そこの部長さんの息子なのに、彼の服装はだらしなくて、喧嘩ばかりしているから砂だらけだった。喧嘩だけじゃなくて、朝鮮人部落でよく相撲をとっていたんですね」
 同じく小中高で同級生だった柿本雅之氏も、
「平然とした顔で、『このまえ、あいつと魚釣りに行ってきたよ』と言うので、おどろいたことがあります。朝鮮部落の子でしたから」
 と笑みをひろげて、
「中学になると、在日朝鮮人の子どもたちが一気に入学してくる。鉄屑を集めて生計を立てる家庭が多かった。彼らは生活が苦しいので、給食が余ったりすると我先にもって帰ろうとするんですが、そういう姿を見て日本人の生徒のなかには、授業中でも、『朝鮮人はチョーセンに帰れ』と差別意識を丸出しにして言う生徒がいた。そんなふうだから、わざわざ彼らと遊んだりする日本人生徒はひとりもいない。ところが、奥平君だけは違ったんですね。自分が親分になって徒党を率いるようなことはないんですが、相手が朝鮮人だからといって避けるようなことは全然なかった」
 同氏は付け加えて、このように言った。
「中学二年の地理の授業で中東地域の話が出たとき、奥平君はものすごくよく中東の地名を知っていて、びっくりしたことがあります。あとで地理の女性教師がクラスの担任に、奥平君はどうしてあんなに中東地域に詳しいのか、と話しているのを見た記憶が鮮明に残っています」
 ということは、朝鮮の歴史にしても、中東の歴史にしても、ある程度勉強して知っており、宗教を否定する考えかたについても、友人たちが語ってくれたような情緒的な言葉だけで成り立っていたのではないと思われる。
 井上氏は奥平と一緒にラジオづくりに熱中する仲だったから、学校外でも、もっとも親しい友人のひとりであったかもしれない。奥平は同氏の家によく通った。額が盛りあがっているので、奥平のことを「タコ」と呼ぶ間柄だった。小学校高学年のころ、近くの市立図書館につれだって行ったとき、「おれはここにある本は全部読んだ」と、児童専用の図書室で彼がそう言うのでびっくりしていると、大きな図書室のほうへつれていかれ、閲覧テクニックを教えてもらった。もうすっかり大人たちが読む本を、彼はここで堂々と読んでいたのである。
「家の二階には図書館なみに本がそろっていました。座敷に書架がいくつもあって、本の重さで一階の天井が歪んでいるほどでしたから。小学生のときから成績はトップ。お父さんは京大農学部出の大洋漁業の部長。下関ではエリート中のエリートです。豊前国中津藩の家老の家系だと教師たちは言っていましたが、たしかにプライドの高いところはあったけれども、ぼくが彼を馬鹿にするような冗談を言っても、笑って受け流すような、いいやつでした」
 そして同氏もまた、奥平は朝鮮人の生徒たちとも分け隔てなくつきあっていた、と言うのである。
「中学のときのことです。在日の人たちがたくさん住んでいる地域があって、彼らはとても貧しい生活を強いられていた。朝刊を配り終えてから自分でご飯を炊いて、それから学校に出、終われば夕刊を配る。そういう生徒もいたんですね。名陵中は金持ちの家の子どもが多かったから、なかにはカツアゲされたり、リンチをうける者もいましたが、奥平君は自分から朝鮮人部落に飛び込んでいって、すっかり彼らと打ち解けていました。彼らはぼくらの名前を呼び捨てにするんですが、奥平君のことだけは『奥さん』と呼んで、とても慕っていた。敬愛される存在だったんですね」
 だから、と同氏は言う。
「虐げられた人を、彼は子どものころから放っておけなかった。大洋漁業でもたくさん朝鮮人が働いていたので、家族ぐるみのつきあいもあったかもしれない。彼の関心がパレスチナへ向かうのも、わからなくはないんです」
 この人も奥平の「宗教否定」に、おどろいたひとりである。井上氏の場合は直接本人から、「宗教なんて意志の弱いやつが頼るものだ」と聞いている。
 下関というところは、幕末から維新後にかけて深いかかわりのある港町であり、天下国家を論じる人びとが貧富の壁を越えてあたりまえにいた。戦後は遠洋漁業の基地となり、大洋漁業が本社を置いた。町は潤沢な財政を誇るいっぽう、朝鮮戦争の前後には密航や密貿易の舞台ともなった。この土地における朝鮮人部落の詳細については述べずにおくが、大陸や半島との歴史的なつながりは、この地の人びとに広い視野と近代的な個人主義を早くからもたらした。
 そうした独特の風土が、保守思想のみならず左翼思想の若者たちをも育てたのだろう。奥平が通った県立下関西高(一年の一学期の途中から岡山朝日に転校)の同級生には、東大へすすみ反帝学評議長となった三井一征、安田講堂に立て籠もり逮捕された島泰三(のち世界的な霊長類学者)、一年先輩には連合赤軍の同志リンチ事件で殺害された山田孝がいる。
 本人がどの程度意識していたのかわからないが、ともかく彼は中津藩家老の由緒正しい家系を継ぐ者として周囲からは特別なオーラをまとった存在として見られており、そうでありながら、いや、だからこそかもしれないが、服装は砂まみれで汚れていることのほうが人には目立った印象として残っており、だれも行こうとしない朝鮮人部落へみずから通い、「奥さん」と呼ばれて敬愛され、成績はつねにトップクラス、若年にしてすさまじい読書家であり、かつ宗教否定論者。そしてもうひとつ付け加えておけば、生徒会否定論者であった。
 織田峻氏は生徒会長選挙に立候補したとき、「教師の管理のもとで自立した活動なんてできはしない。生徒会は教師の手駒として使われるだけだ」と奥平から意見されたが、立候補して当選した。このように彼には体制をかたちづくる権力者への反感や批判がつねにあり、したがって井上氏以外に友人は少なかったが、いつも校内では彼の言動がよそのクラスにまで教師によって伝えられ、「奥平はなんと言っている?」と教師たちまでが彼の意向を気にした。最大公約数を求めず、といって最小公倍数を求めるのでもなく、弱い立場にある者のほうと親しいという特異な日常の態度が、より彼を周囲から神秘的な存在とした。
「名陵中には、一定レベル以上の学力をもった生徒たちがけっこういるわけです。彼らと集まったときでも、奥平君はどう考えているんだろうと、そういう話になる。単独者であることのイメージが近寄りがたいオーラをまとわせて、彼は教師からも一目置かれ、ぼくらからすれば仲間をつくろうとしない一匹狼の彼は、神々しい存在でした」
 と、織田氏は言う。
 私は岡山朝日高校の同級生や教師には会いに行かなかったが、彼の少年期を知る人たちに(ここに登場しない人をふくめて)、いずれも共通するのは、彼を毛嫌いしたり、つき放したりせず、それどころかほかの同級生や担任教師をこころよく紹介してくれ、彼への理解をひろげていこうとする開放的な精神性にあった。
 京大にすすみ、東九条に通いつめ、セツルメント活動を熱心にやり、そして肉体労働というコミュニケーションツールを手にした彼は、少年期にそうした経験を自覚的に積んでいたからこそ、東九条スラムでもだれとも垣根をつくらず、鉄拳まじりの荒っぽい薫陶をうけてきたM氏にさえも畏敬される存在となった。
 あの火事を経験し、生まれてはじめて「理性の限界」を思い知らされたとき、目に映る炎には、いくつもの故郷の仲間の顔までがあらわれては消えていったことだろう。その炎のなかに、彼は自分のなかに流れる「同じ血潮」を発見し、矢内原忠雄の言う宗教的運命論のだらしない言葉の羅列を炎のなかに投げ捨てたのだ。
「アニキが書いてるやろ? あのとおりやねん」
 Y氏は一歩踏み込んで、そのように言った。
 特殊で複雑な人間関係や政治的関係の坩堝るつぼで自分も生きてきて、そしてなにかをつくりあげようとすると火事が起きてすべてを平らにしてしまい、なにごともなかったようにバラックがまた建ちならぶ。笑いかけた顔も凍りついてしまうようなイタチごっこの悲喜劇のくり返しに、Y氏も苦しんできたのだ。
 奥平はセツルメント離脱後、民青にはいったが、共産党という組織がどういうところか見定めようとした行動だったらしく、半年ほどで見限っている。彼らが蛇蝎のごとく嫌うトロツキーとその関連書籍を集中的に読むのはそのときからで、彼は暗殺されたトロツキーに真の革命家の姿を見出しているが、しかしそれでもまだ彼の全体から言えば一部でしかなかったろう。相変わらず東九条を足場に肉体労働をつづけ、またしても一九六七年八月のあの大火事を経験し、上映運動の挫折を経験したとき、ふたたび仰ぎ見る炎のなかに、彼は「同じ血潮」を見ただろうか。
 どこか遠くへ、もっと遠くへ、まだ見ぬ最下層の苦しんでいる民のいるところへ、その炎は彼を運んでいくような気配がある。
「革命の本体は、ぼくらや。学生とは違う」
 と、Y氏は言うのだった。
「しかしアニキは、ぼくらと同じ苦しみのなかに身を置いたんやね。火事が起きて灰になる。一夜にしてバラックが建つ。廃品回収して、また同じ生活がはじまる。そして、また火事が出る。子どもたちはいつまでも貧しくて、字もろくに読めへん(※)。アニキは子どもたちとよく遊んでやっていた。勉強も見てやっていた。無条件に子どもが好きやったんやね。そういうふうに生きてきて、あのアニキは、もっときびしいところへ自分の身を置こうとした。それがパレスチナ――」

※奥平の一九六四年五月二七日の日記に、「字を知らないことは驚くばかり。また、教えた字をぱっとかくして、もう一度書いてみろというと、もう書けない」とある。

 この人は奥平の死後、どのように生きていったのだろうか。
 彼はずいぶんと辛抱づよく、時間をかけて、若い仲間とともに、利権化した部落の土地や組織どうしのいがみあいを粘りづよく調整し、町づくりの新しいリーダーになっていった。除名騒動もあったけれども、彼は東九条のみならず、父母が育った崇仁でも被差別部落民の記念碑的事業であった解体寸前の建物をその瀬戸際で残すことに成功し、貴重な史料を保存した。行政から見捨てられ「〇番地」と呼ばれていた鴨川西岸のバラック集落を、これも関係団体と辛抱づよく話しあって解消し、八八戸の安全な集合住宅を完成に導いた。
「自分たちの運動の最大の成果やった」
 と、Y氏は、奥平にも見てほしかったとでも言いたげな目をして、このように言う。
「自分たちのことは自分たちでする。そういう自立した運動の経験は、とても大きかった。その東九条の運動史のなかに、奥平のアニキがいたんやね。自分の身を捨ててまで、虐げられた人たちのために闘う。そして、そのとおり死んだ。アニキの行動は、ぼくらにとっても大きな経験になっている」

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪われたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に(な)げつくる心を――
しかして、そは真面目(まじめ)にして熱心なる人の常に(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙をすすりて、
そのうすにがきしたざわりに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

「ココアのひと匙」石川啄木

 私たちの主人公の像が結ばれてきたようだ。
 彼は啄木が歌ったようなテロリスト像からは、とても遠いところにある。少なくとも彼は、革命家になろうとしたのであって、テロリストになろうとしたのではない。だれもが国の圧政に悲しみや怒りを懐くだろう。彼にも悲しみや怒りはいくつもあったのだ。しかし、だとしても、「奪われたる言葉のかはりに/おこなひをもて語らむ」としたことは一度もなかったろう。
 孤独に耐えるタフな精神力、それを支える充実した体力と教養。年上のMにもこびへつらわず対等な関係を築き、セツルメントと訣別してからもスラムを離れず、ついに単独者として彼らと同じ苦しみのなかに身を置いた。むしろ彼の身体しんたいには、だれからも奪われることのない「言葉」と「経験」が満ちて、それを堅実に思想化し具現化しようとした一青年として記憶されるべきだろうと私は思う。
 彼はたしかに「真面目にして熱心なる人」ではあるが、「奪われたる言葉」の代償として「われとわがからだを敵に擲げ」つけるような、そんなしみったれた情緒の持ち主ではない。むしろ逆に、そうした内なるセンチメンタリズムを最大の敵として排そうと涙ぐましい努力を重ねてきた。理論構築のために万感の書物を読んだが、理論に終わることを拒否し、しかし理論においても同時代の者以上に自己を磨きながら、革命家の覚悟と戦略と裏切りと虐殺の歴史をツルハシを振るう筋肉と細胞にしみ込ませてきている。強大な支配権力にたいする革命戦争や解放闘争に個人の「かなしき心」など一片もはいり込む余地などどこにもないと、東九条での長い経験からつくづく思い知らされているのだ。
 革命とは、差別され虐げられた人びとの幸福実現のための闘いであり、身を捨ててのぞまねばならぬ壮大なプロセスなのであるから、自分はそのための犠牲の道具のひとつになろうと、彼は歴史と経験から学びとっていた。いまスラムに身を置く彼からすれば、ベトナム戦争とは革命戦争であり、アメリカ軍の大量破壊兵器によって殺戮され破壊される国土や人びとが、東九条と重なって見えていただろう。
 はじめは研究者になろうとこころざし、左翼運動からはなるだけ離れていようと思っていた未成年は、スラムに来て大きく変わった。正直でまっとうな人間でありたいと望めば望むほど、彼の逡巡と別離はむしろ自然の歩みであったろう。もうじき若さを失い、虚偽の世界に埋もれていく自己の未来を恐れるこのような実直な青年にとって、身を捨てて生き尽くす時間はそう長くは残されていなかったのだ。
 奥平がこの世を去ったあと、M氏はセツルメント学生たちを全面的に排除し、共産党の地区大会に乗り込んで糾弾演説をおこない、除名された。それからしばらくして東九条を去った。九州へ行ったと聞いているが、いまはどこでどうしているか皆目わからない。
 師を失ったY氏は、必然的に自立を促された。私はもっと詳しくこの人のことを語りたい誘惑にかられるけれども、ここまでにとどめておこう。
 重信房子がはじめて奥平剛士に会ったとき、「この人はなにか大きな決意のようなものを秘めている」と直感したのは、彼のなかに生々しい人間世界の「経験」と「共感」が蓄積されていたからである。

(了)

※本章では、前川修氏、馬原鉄男氏とあわせて山本崇記氏『住民運動と行政権力のエスノグラフィ』(晃洋書房)を参考にした。
※私の文章からY氏を特定するのは容易だろう。だがY氏とは個人ではなく複数の集合体であるかもしれないと付言しておこう。奥平剛士の「歴史的評価」につながると確信して私は詳述した。どうか「Y氏」にはご容認いただきたい。

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