こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』最初の1篇(+α)まるごとためし読み!
「さきちゃん」
その日の休み時間、廊下で偶然さきちゃんを見かけた。さきちゃんはクラスメイトと三人で、何やら盛り上がっている様子だった。二人とも、私の知らない子だ。やばい、とか、神、とかいう単語だけが断片的に耳に飛び込んでくる。さきちゃんが好きだというアニメの話だろうか。
しばらくの間、さきちゃんが自分から振り返ってくれるのを期待してみたけど、待てど暮らせど、さきちゃんがこちらに気づく気配はなかった。さきちゃんが笑うたびに目の前で揺れる二本のおさげが、段々他人のそれのように思えてくる。
「次、理科室じゃない?」
「やば、急がないと」
そうこうしているうちに、予鈴が鳴った。クラスメイトに促され、さきちゃんが歩き出す。あっという間に遠ざかっていく背中に、勇気を出して声をかけた。私の声が小さいせいか、さきちゃんはなかなか振り返ってくれない。
「さ、さきちゃん。さき、ちゃん」
泣きそうになりながら、名前を呼び続けた。
「さき、呼ばれてるよ」
友達にそう言われて、さきちゃんがようやく立ち止まった。
「なんだ、依子か。ごめーん、気付かなかった」
さきちゃんはそう言ってちょこんと肩をすくめ、私に向かって小さく舌を出してみせた。
「ごめんね、依子。うちら、これから移動しなくちゃなんだ。なんか急ぎ?」
そう言われて、自分が何のためにさきちゃんを待っていたのかすら、わからなくなった。別に用事があったわけじゃないのだ。ただ、さきちゃんと喋りたかった。今度一緒に帰ろうと伝えたかった。それだけなのに。
「あの、えっと。その、トト。そう、トトに会いに来て欲しくて。トト、さきちゃんのことずっと待ってるから。あ、すぐにじゃなくていいんだけど。いやでも、どっちかっていうとすぐの方がいいかな、うん。実はその、さきちゃんに見せたいものがあって……」
「依子、ごめん」
さきちゃんが、たまりかねたような顔で私の言葉を遮った。今日マジでもう時間ないわ。またこっちから、連絡する。じゃあね。笑顔で手を振り、そそくさと私のもとを去っていく。あまりに鮮やかなその切り返しに、私は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
ごめーん、気付かなかった。
そう言ってこちらを振り返った、さきちゃん。その時の仕草には、覚えがあった。ちょこんと肩をすくめて、舌を出して。ああ、私、また嘘を吐かれた。でも今度は、それを喜んでいいんだっけ。
……こ。
あの時とは、決定的に何かが違ってしまっている。その「何か」がなんなのか、私にはわからない。
……りこ、よりこ。
また、誰かが私の名前を呼んだ気がした。
『依子、聞こえているか?』
トト? トトなの?
思わず辺りを見回してみたけど、トトの姿を見つけることはできない。テレパシーだ。トトが直接精神に語りかけてくる。
ねえ、さっきのもトトだったの? みんなが宇宙人だって教えてくれたのも。
なかなかトトの声が聞こえない。これも宇宙人の攻撃だろうか。
『こんなところで何をしている。早く宇宙人を倒しに行かなくては』
そうだ、私は人類の生き残りで、トトは改造手術を受けた不死身のパートナー。武器を持て、銃を構えろ。レーザービームで、敵の核を撃ち抜け。一刻も早く、宇宙人を殲滅しなくては。早くしないと、地球が、この世界が滅ぼされてしまう──。
肩にどん、という衝撃を受けて、私は廊下の真ん中でよろめいた。はっとして瞼を開けると、クラスメイトの濱中さんが、いぶかしげな顔をして私の顔を見つめていた。
「邪魔なんだけど」
濱中さんは小さく舌打ちをして、行こう、ひかり、と後ろを振り返った。それを聞いた伊藤さんが、うん、と頷く。二人とすれ違った瞬間、伊藤さんと一瞬視線がかち合った、ような気がした。私の勘違いかもしれない。
あの人、ひとり言のボリュームおかしくない?
え? そうかなあ。
そうだよ。だってなんかちょっと──。
そこまで聞いて、電源コードを引き抜くように、意識を切断した。これ以上、傷つかなくてもいいように。これでもう、大丈夫。自分に言い聞かせている間に、濱中さん達の背中が遠ざかっていく。濱中さんの言葉に伊藤さんが何と答えたかまでは、よく聞こえなかった。
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。