こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』最初の1篇(+α)まるごとためし読み!
いつだったか、さきちゃんが急にピクニックに出かけよう、と言い出したことがある。あれは確か、小学校の卒業式を間近に控えた、三月のある日のことだった。
といっても、持ち物はおばさんが淹れてくれたポットの紅茶とレジャーシートだけの、急ごしらえのピクニック。河川敷は寒さのせいか他に人の気配はなく、辺りはとても静かで、私達が腰を下ろしたレジャーシートの分だけ、世界から切り離されたみたいに思えた。出かける前はあんなに渋々だったトトも、よたよたとうれしそうに辺りを駆け回っていた。
『……宇宙船に乗ってるみたい』
私がそうつぶやくと、さきちゃんは、これが? とおかしそうにレジャーシートの端をつまんでみせた。依子はほんとに変わってるね。
『じゃあこれから、ここがほんとに宇宙だと思ってみよう』
さきちゃんに言われるがまま、私達はレジャーシートに寝転がり目を瞑った。そうだ、これはレジャーシートの形をした小さな宇宙船だ。選ばれし二人にしか操作できない、特殊な宇宙船。これに乗って地球を飛び出し、人類の滅亡を企む宇宙人を倒す。地球には帰って来れないかもしれない。でも、さきちゃんと二人ならきっと大丈夫。宇宙の果てまでだって行けるだろう。ちっとも怖くない。
『わ、まぶしい』
自分から言い出したくせに、さきちゃんはいつのまにか、私より先に目を開けていた。
『なんか、お腹空いたね』
そう言って二人でリュックを漁ってみたものの、他に持ってきたものといえばくしゃくしゃのレシートと、中身が空になったポケットティッシュ、それからフルーツキャンディのゴミだけ。
『ママにクッキーでも焼いてもらえばよかったな』
さきちゃんの言葉に、今度私が焼いてくるよ、と返した。だからまたここに来よう。私ね、最近料理始めたんだ、父さんに任せきりじゃいけないと思って。もうすぐ中学生だし。まだサラダくらいしか作れないけど……。するとさきちゃんは、無理しなくていいよ、と言ってくすりと笑った。
『あたし、お腹壊したくないもん』
ひどい、と口を尖らせる私に、だって依子不器用じゃん、とさきちゃんが笑って、そんな私達を少し離れた場所からトトが、不思議そうな顔で見つめていた。
瞼の裏に広がる自分の中の暗闇と、宇宙は似ている。そう考えると、宇宙もそんなに遠くない気がした。この青空の向こうに繋がっている宇宙よりも、ずっと身近な手の届く宇宙。そこにも星は瞬いているのだろうか。
「いらっしゃい」
ピンポンを鳴らして、返事があるまで深呼吸を三回。中から鍵ががちゃんと外れる音がして、マンションの扉が開く。満面の笑みで私を出迎えてくれたのは、さきちゃんのお母さん──おばさん、だった。
「あら、久しぶり。はいどうぞ、入って、入って」
さき、早く出て来なさい。依子ちゃんが来てくれたよ。おばさんが呼ぶのを聞きながら、家の中へと一歩踏み出す。
『今週の土日、空いてる? ママが遊びに来ないかって』
中学校に入ってから父さんが持たせてくれたスマホに、そんなメッセージが届いた。さきちゃんからの連絡を心待ちにして、数日が経った頃のことだった。ママが、というのはちょっとひっかかったけど、すぐにそんなこと気にならなくなるくらい、舞い上がってしまった。
さきちゃんがなかなか部屋から出てこないので、おばさんが家の中に通してくれた。リビングには、小麦粉とバターのあまいかおりが漂っている。おばさんが私の耳元で、今日は四角いケーキを焼いたの、と囁いた。
「依子ちゃんに食べてもらいたいなと思って。これからもうひとつ、焼くつもり。あとでさきの部屋に持っていくから、楽しみにしててね」
ありがとうございます、と頭を下げると、おばさんは、えらいのねえ、さきにも見習ってほしいくらい、と言って笑っていた。
おばさんは、いつもとてもやさしい。家に遊びに行くと必ず手作りのお菓子を出してくれる。揚げ立てのドーナツや、はちみつのかかったホットケーキ。かぼちゃプリンにおしるこに、ホットミルク。いっぱい食べてね、学校でもさきをよろしくね。それがおばさんの口癖だった。
しばらくして、さきちゃんがようやく私の前に姿を現した。
「なんかごめんね、わざわざ来てもらっちゃって」
あたしもトトのことは気になってたんだけどさあ、と言って、さきちゃんはへらりと笑ってみせた。さきちゃんの私服姿を見るのは二ヶ月ぶりだった。ぶかぶかの蛍光色のパーカーに、ぴたっとしたジーンズを合わせている。
「……ううん、いいんだ。私がさきちゃんに、会いたかっただけだから」
すると、さきちゃんがぎょっとしたようにこちらを見返した。何かおかしなことを言っただろうか。さきちゃんは、私がさきちゃんを見ていることに気づくと、すぐに視線を外して自分のスマホをいじり始めた。
久しぶりに足を踏み入れたさきちゃんの部屋は、以前とは随分インテリアが変わっていた。ぱっと目に入っただけでも、本棚の漫画とカラーボックスに並べられたフィギュアが随分増えている。棚の隙間に見慣れない背表紙の本を見つけて、思わず手を伸ばすと、勝手にさわらないで、と怒られてしまった。慌てて腕を引っ込め、ぐるりと部屋を見回す。天井には、アニメキャラが描かれた大きなポスターが貼られていた。たしかあの、青色の髪の毛をした男の子のキャラクターがさきちゃんのお気に入りだったはずだ。以前さきちゃんが、めちゃくちゃおもしろいから、と言って貸してくれたその漫画を、私は最後まで読み切ることができなかった。
『依子も好きなものとか、見つければいいのに』
漫画を返した時、さきちゃんに言われた言葉だ。でも私は、いまだにその意味がよくわからない。好きなものを見つけなさい、という台詞は学校でもよく聞く。好きなものって、見つけようとしないと見つからないものなんだろうか。私の好きなものはさきちゃんだ。そういう好きと、さきちゃんの言っている好きは、違うんだろうか。もしそうなら、私にはそんなもの、一生見つからない気がする。
一度会話が途切れてしまってから、さきちゃんはずっとスマホに目を落としている。少しでもさきちゃんの注意を惹きたくて、わざとらしいとは思いつつも、あ、そういえば、と声のトーンをひとつ上げた。
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。