連載第24回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第24回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『殺人狂時代
(1967年/原作:都筑道夫/脚色/小川英・山崎忠昭・岡本喜八/監督:岡本喜八/制作:東宝

映像と小説のあいだ 第24回 写真1
『殺人狂時代』
DVD発売中
4,950円(税抜価格4,500円)
発売・販売元:東宝
©1967 TOHO CO ., LTD.

「あなたの正体は? 誰なのよ、本当は誰なのよ――?」

 特殊な技能を持った殺し屋たちと、パッと見は風体の上がらない青年・桔梗信治との死闘を描いた小説『飢えた遺産(後に『なめくじに聞いてみろ』と改題)』を映画化したのが、『殺人狂時代』だ。この映画は、時に原作を踏襲し、時に全くのオリジナル展開を見せながら、日本映画史上でも唯一無二といえる奇妙なエンターテインメント作品となった。

「殺し屋たちに対して、桔梗が思わぬ手立てで立ち向かう」という基本は両者とも変わらない。ただ、殺し屋たちの背景は大きく異なっており、そのことが他の脚色にも大きく影響を与えることになる。

 原作での殺し屋たちは、ナチスの協力者であった桔梗の父が育て上げた弟子として登場している。一方、映画には桔梗の父は出てこず、ナチスの残党である溝呂木が精神障がい者たちを殺し屋に育てているという設定に変更された。原作での溝呂木は、あくまで桔梗の父に育てられた弟子の一人である。

 そして、この変更により、桔梗の目的も大きく変わった。原作の桔梗は「父が生み出した殺し屋たちを始末する」ことを目的としており、そのことは早々に読者にも劇中の関係者にも明かされている。桔梗は依頼人として殺し屋を雇い、あえて自身の命を狙わせた上で返り討ちにするという作戦を採っているのだが、そのことも読者は早くに示されている。それら主人公に関わる情報の多くを示した上で、「それぞれに奇抜なテクニックを有する殺し屋たちを、いかに倒すか」を主軸に物語は展開、一章につき一人ずつと闘うという構成になっている。そのため、ユーモラスな筆致ながらもハードボイルドの色が強い。

 一方の映画では、桔梗(仲代達矢)の目的はハッキリ言うと不明だ。桔梗はランダムに選ばれた「殺しの標的」の一人という扱いで登場する。そのため、殺し屋たちを狙う立場で描かれた原作とは逆に、ここでの桔梗は殺し屋たちに狙われる側としてのみ映る。

 また、原作では山形の山奥から来た青年だったのが、映画では水虫の大学講師にと、より弱々しい設定に変更されている。映画での桔梗はあくまでも受け身の状態で、刺客たちから次々と襲撃され続ける。これに対して桔梗は、いつもギリギリの寸前で、しかも偶然に見えるような無意識の動きで、彼らの攻撃をかわす。そして、殺し屋たちは次々と命を落としていく。桔梗がのけぞった衝撃で敵の頭に胸像が落ちてきたり、駅のホームで桔梗を襲ったところ跳ね返された勢いで電車にひかれたり。催眠術を扱う女性の殺し屋は、窓辺で格闘している際にスカートの中を覗かれそうになったところを手で隠そうとして、その弾みで落下死――。これらは不運による自滅なのか、それとも桔梗が偶然を装って返り討ちにしたのか。その真相は終盤まで明かされない。どこまでもすっとぼけた、ミステリアスな存在であり続ける。そのため、前半はハードボイルドタッチでありながら、ブラックコメディの色合いが強い。

 そういった具合に、両者は前提が大きく異なっているわけだが、桔梗が最終的に対峙する相手が「大日本人口調節審議会」なる溝呂木の結成した秘密結社であることは、原作も映画も変わらない。ただ、そのことが明らかになるタイミングもまた、大きく異なる。

 原作での審議会は物語の2/3を過ぎてからその姿を現わす。そして、最終的に組織の規模や目的が明らかになるのは、最終盤になってからだ。一方、映画では冒頭から審議会が登場、その組織の概要や目的はなんとなくわかるようになっている。つまり、原作は「主人公の目的は最初から明らかで、敵はミステリアス」、映画は「主人公はミステリアスで、敵の目的は明らか」と、その見せ方は正反対なのである。

 主人公の立ち位置を明確にした上で、物語を追いながら敵の全貌が見えていく――という原作の構造が、作劇としてはシンプルでわかりやすい。一方、映画は中盤になっても主人公の正体は見えてこず、溝呂木が桔梗と初めて対峙する場面でも、溝呂木は思わず「待て、あんた誰だ?」と問いただし、桔梗が自身の名を名乗っても「そんなはずはない。いや、そうでないはずもないんだが――」と混乱に陥ってしまう。それは、溝呂木だけではなく、多くの観客も同じだろう。主人公をミステリアスなまま話を進め、敵だけでなく観客をも混乱に陥れる。この点だけでも、映画版の攻めた作り方がよくわかってもらえるだろう。

 これだけ設定や見せ方が異なっているのだから、当然のように中盤以降の展開も全く違ってくる。原作は桔梗が殺し屋を一人ずつ地道に殺していくのに対し、映画は桔梗が秘密を握っているとされるナチスの秘宝「クレオパトラの涙」をめぐる争いが描かれる。そして、桔梗が標的のリストに入れられていたのは偶然ではなく、その秘宝のためだと判明する。

 ただ面白いことに、それだけ違う両者の物語が、終盤になると重なってくるのである。そのキーとなるのが、謎の美女・啓子(団令子)だ。

 原作では啓子は情報屋、映画では記者と、表向きの職業は異なっている。が、早々に肉体関係を結んだ後で桔梗に協力し、相棒のように桔梗の闘いに寄り添うという関係性は同じだ。そして、啓子が審議会に拉致され、送られてきたフィルムに彼女が拷問されている様が映されているのを観た桔梗が審議会のアジトを探り当て、溝呂木と直接対決する――という終盤の展開も、実は原作も映画も同じだったりする。

 そして、溝呂木に勝利した桔梗の前に啓子が現われる。だが、それは「救出されたヒロイン」ではなく、「桔梗の最後の敵」として――。受け手としては驚愕の事実だが、桔梗は早くに啓子の正体に気づいていた。この終盤の二重のどんでん返しも両者で変わらない。

 ただ、桔梗と啓子の戦いの描かれ方が大きく異なっている。原作では啓子は子分たちとともに登場、この時に「桔梗の父に育てられた最後の殺し屋」だと明らかになる。そして桔梗との戦闘の果てに息絶えている。つまり、最後まで原作は「桔梗VS父の育てた殺し屋」の物語として一貫しているのである。

 一方の映画もまた、物語は一貫している。それは何か。映画では、啓子を救出した後、二人は帰りの車内で熱いキスを交わす。ハッピーエンドか――と思った矢先、啓子の指先が桔梗の首元に伸びる。指輪に毒が仕掛けてあったのだ。が、またしても寸前のところで桔梗はかわし、胸元のポケットに差していた花からガスを噴射する。敗北を悟った啓子は自らに毒を盛る。この時に啓子が発したのが、冒頭に挙げたセリフだ。

 そう、この期に及んでもなお、桔梗はミステリアスな存在のままなのである。いちおう、その前に溝呂木に対して自身の背景や目的らしきものを語ってはいるが、それが真実とは限らない。

 そして、ラストも大きく異なる。原作は、さらなる刺客との戦いを終えた桔梗が、一連の戦いを通して自身の中に眠る「父と同じ殺人狂の血」に気づき、人里離れたところへ去っていくところで終わる。映画は、もちろん違う。「桔梗の兄」と称する瓜二つの人物(仲代が二役)が現われ、これまで桔梗が兄になりすましていたことが語られるのだ。そして、ここまで桔梗の弟分かのように従ってきたチンピラのビル(砂塚秀夫)が首をひねりながら「あのう、これはいったいどういうことになって――」とつぶやくところで終幕となる。最後の最後になってもミステリアス――というより、さらなる混沌をもたらしているのである。何度見ても、これは攻め過ぎた作りだ。

 異常な人間たちの宴といえる映画だが、最も「狂」っているのは岡本喜八らこの映画の作り手たちといえるだろう。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。

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