採れたて本!【デビュー#24】
タイトルを見て、鈴木いづみ最後の作品「ぜったい退屈」をなんとなく思い出しながら読みはじめたのだが、松田いりのの第61回文藝賞受賞作『ハイパーたいくつ』(待川匙『光のそこで白くねむる』と同時受賞)は、鈴木いづみと反対にずいぶんテンションが高い。「退屈さだけをつまんで取り去ることはできない」という諦観を含んだ1行で始まるわりに、これではたいくつするヒマもないんじゃないかと思うくらいで、さすがハイパーと名乗るだけのことはあると言うべきか。
主人公の〝私〟は、舞台や映像を製作する会社の財務係に所属するダメ社員。遅刻と欠勤をくりかえし、まったくチームの戦力にならないどころか、演劇用大道具の代金として本来の金額の1000倍を支払ってしまう大失態をおかし、尻拭いに奔走した周囲から冷たい視線を浴びているのだが、それでもあたたかく接してくれるチームリーダー(50歳女性)が、椅子の背にかけてあった〝私〟のジャケットを羽織る何気ない場面からがぜん小説が動きはじめる。
問題のジャケットは〝私〟が大枚62万円をはたいて仕立てた花柄ビーズ刺繡入りウールギャバジンの一張羅。〝私〟よりも10cmほど長身のチームリーダーがスポーツウェアの上から無理やり着込んで前ボタンを留めたものだからジャケットはパツパツ。破れるのではないかと気が気じゃない〝私〟の前で、「ランウェイを歩けそうな迫力がありますよね」とか長髪の同僚がお世辞を言うものだから、調子に乗ったチームリーダーはオフィスでウォーキングを始める。
……彼女の歩行に合わせてハイ! ハイ! ハイ! ハイ! と鈍臭いビートで手を打ち合わせ始めていた長髪が、自分のデスクからキーボードを手に取りギターのように胸前に抱えて演奏を開始した。手は破壊せんばかりの圧でキーを叩き、指先が一定のパターンで軌道を描いていることに気付いて見ると「T」「E」「A」「M」のキーを順に正確にアタックしているのだが鳴る音は全て「ガッ」「ガッ」「ガッ」「ガッ」と単音の同音が連続。チームリーダーは打音に励まされたのかますます張り切って上半身を軍隊式に、下半身をウォーキングモデル風に振り振り、パチンパチンと音が加わってきて何かと思えば向かいのデスクでさっきまで業務に取り組んでいたスーツ姿の老人がくつろいだ様子でデスクに肘を置き、マグカップ内のコーヒーを舐めながら指を鳴らしている。彼は財務係として固定資産管理業務を一人で受け持つ定年退職間際の男だが、通常毎日8時間ぶっ通しでパソコン前に凝固しており、動いている姿といえば出勤時と退勤時に見せる遅々とした歩行くらい。それが今ではどうだろう。水浴び中の蛙みたいに悦に入った表情でチームリーダーのウォーキングを鑑賞しながら、組んだ脚で調子良く拍子を刻んで口笛まで吹いている。曲は「上を向いて歩こう」だろうか。 やがてその隣に座る入社一年目の若人までもが愉快な現場に彩りを添えようといった感じでスマートフォンをいじり、知らない女がやたらと感傷的に歌う「上を向いて歩こう」を流し始めた。(後略)
切るところが見つからず、ついつい引用が長くなったが、とまあこんな調子でチームリーダーの暴走はえんえん続き、あわれ62万円のジャケットはボロボロになってしまうのだが、20ページにわたって語られるこのジャケット騒動が本書の白眉と言ってもいい。
帯には「リリカル系日常破壊小説、爆誕!」、カバー裏には「言葉が現実を食い破る、超現実アルティメット文学!」の謳い文句が記されているが、日常が壊れはじめる瞬間の恐怖と爽快感をここまで快調に語りきった小説はそうそうないだろう。
後半はさらにとんでもないことになり、まったくたいくつするどころではない。いやはや。
著者は1991年生まれ。鈴木いづみと同じ静岡県生まれだが、伊東市じゃなくて浜松市の出身らしい。
『ハイパーたいくつ』
松田いりの
河出書房新社
評者=大森 望