採れたて本!【歴史・時代小説#31】

〈浜村渚の計算ノート〉〈赤ずきん〉シリーズなどのミステリ、『怪談青柳屋敷』などの実話怪談を発表している青柳碧人の新作は、探偵小説の巨匠・江戸川乱歩と〝命のビザ〟で多くのユダヤ人を救った杉原千畝──実際に旧制愛知五中(現在の瑞陵高校)、早稲田大学で先輩後輩(乱歩が6歳年上)だった2人に親交があったら、という歴史の if を描いている。著者も早稲田大学出身であり、偉大な先輩2人に着目したといえる。
1919年。大学卒業後に職を転々とし、今は弟2人と古書店「三人書房」を営みつつ夜鳴きそばの屋台を引いている平井太郎(後の乱歩)は、早稲田大学の近くにある蕎麦屋「三朝庵」に入りカツ丼を頼んだ。相席になった乱歩は、目の前の学生が愛知五中の茶封筒を持っているのを見て声をかける。その学生が千畝だった。
子供の頃から父親に医者になるよういわれていたが魅力を感じず、かといってやりたいことも見つからず、漠然と好きな語学が活かせる仕事がしたいが留学の費用はない千畝は、太郎が新聞で見つけた外務省の官費留学生試験を受ける。一方、少年時代から探偵小説や怪談が好きだった太郎は会社勤めが苦手で、作家になりたいと思いながら実現できないでいた。まだ何者でもなかった2人が、迷い苦しみながら、そして互いに影響を与え合いながら進むべき道を模索する前半は、秀逸な青春小説になっている。
官費留学生になった千畝は、ロシア語を選択しハルビンへ派遣される。語学の才を見せロシア語を習得した千畝は、ロシア通として知られるようになる。1923年に「二銭銅貨」でデビューした乱歩はすぐに人気作家になるが、自作に納得がいかず、度々休筆していた。このように本書は史実をなぞりながら進むが、馬場孤蝶の講演会で若き日の乱歩と横溝正史が邂逅したり、満州で千畝と川島芳子が出会ったり、乱歩が実在した探偵・岩井三郎に会いに行くも入社を断られたとの話を聞いた千畝が岩井三郎に情報収集のコツを聞いたりと、随所に歴史の if が織り込まれている。史実の人間関係を踏まえ実際に起こっていたかもしれない可能性を積み上げて作られる歴史の if は、作中にも登場する山田風太郎の〈明治もの〉を思わせるほど緻密で面白い。
外務省の職員である千畝は組織の命令であれば意に反していても従う必要があり、フリーランスの乱歩は自分で仕事の優劣を判断せねばならず、世間や編集者の評価と自分の評価のギャップに悩んでいた。2人の葛藤は、働いていれば誰でも少なからず直面するものであり、共感する読者も少なくないだろう。2人の苦悩が深いだけに、それぞれの手段で殻を破る終盤の展開には、深い感動がある。
評者=末國善己