採れたて本!【歴史・時代小説#44】

現在96歳の皆川博子の新作は、約470ページの大作で、年齢を感じさせない瑞々しさと、先の大戦を経験していなければ書けないテーマが融合した唯一無二の作品である。バルト海周辺に着目し第34回紫式部文学賞を受賞した『風配図 WIND ROSE』と舞台の一部が重なっており、著者の興味がヨーロッパの中心ではない北方にあることがうかがえる。
主人公のミーシャが初めて書いた小説『秘密法廷』は、13世紀のバルト海沿岸で暮らす異教徒をドイツ人が武力でカトリックに改宗させる物語で、それは19世紀のロシアを生きる人間には無関係などと自称文芸評論家のソコロフスキーに酷評された。この冒頭は、ヨーロッパ史を題材にした小説であっても、21世紀の日本人の心を動かすことができるという、著者の決意表明であり、歴史小説論のようにも思えた。
12歳ですべての家族を亡くしたミーシャは、教会学校の生徒兼下僕として教会に住み込むことになった。司祭は冷淡だったが、イリヤ輔祭は親切で集めた書物をミーシャが読むのを黙認してくれた。15歳になったミーシャは、イリヤ輔祭の勧めもありブロヒン伯爵の農奴になる。
本書は、ミーシャが『秘密法廷』を書くまでを追う中に、リヴォニアの族長の息子だったが、12歳の時にカトリックへの改宗を迫る刀剣騎士修道会に家族を殺され修道院に入れられたジンタルスの人生を描く『秘密法廷』が作中作として挿入される形で進んでいく。
ジンタルスは琥珀の意味で、イリヤ輔祭がミーシャに語った稀少な紅い琥珀が二つの世界を繫ぐなど、随所で物語がシームレスになっており、それが独特の味わいを生み出していた。
農奴といえば、農作業や家事労働などに従事する奴隷のイメージがあったが、貴族が権威を示すため農奴に教育をほどこし、画家や役者にする農奴もいたというのは、本書で初めて知った。ミーシャは、ブロヒン伯爵家の農奴画家メーリニクから絵画を、先代伯爵が誰かも分からない女性に生ませ、亡霊と呼ばれている居候のようなステンカから語学と文学を学び、その才能を開花させていく。
一方、修道院に入ったジンタルスは、ドイツ貴族の三男ゆえに修道院に入れられたマクシミリアンと親しくなるが、次男の死でマクシミリアンが騎士になると決まり、その従僕になる。騎士に仕えれば、十字軍として異教徒を攻める可能性もあるが、ジンタルスは刀剣騎士修道会への復讐を胸に秘めながら武術を学び、戦乱に身を投じる。
ミーシャはザポロージェ(現在のウクライナ)のコサックの末裔であり、強権で周辺国を圧し、反体制派を弾圧する帝政ロシアは、ウクライナ侵攻を続ける現代のロシアに近い。また神の名の下に異教徒を攻める十字軍は、現在のイスラエル―パレスチナ情勢を想起させる。どれだけ才能があっても人生の選択肢が少ない農奴のミーシャは、社会の階層化で選択の自由が狭められている現代を象徴しているともいえ、難癖のような理由で国家反逆罪により逮捕投獄され、その影響で厳しい検閲にさらされる展開は、国民の監視を強めている日本の未来のように思えた。このようにアクチュアルなテーマに満ちた本書は、現代をどのように生き、どのように改革すべきかも教えてくれるのである。
評者=末國善己






