連載第45回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第45回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『沓掛時次郎 遊侠一匹』
(1966年/原作:長谷川伸/脚色:鈴木尚之、掛札昌裕/監督:加藤泰/配給:東映)
映像と小説のあいだ 第45回 写真1

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「やくざってのはね、虫けらみたいなもんさ⋯⋯」

 旅の渡世人・沓掛時次郎は渡世の義理で、全く面識のない六つ田の三蔵を斬る。忌の際に三蔵は、遺した妻・おきぬと子の太郎吉を時次郎に託した。時次郎は二人と旅を続けるが、やがておきぬは倒れてしまう──。 

 長谷川伸の名作戯曲は、何度か映画化されているが、今回は東映版を取り上げる。 

 この映画は、時次郎・おきぬ・太郎吉の関係性などの基本的な設定は原作のままだが、それ以外ではオリジナルの展開が多く盛り込まれている。 

 まず、始まってから全体の三分の一を占めるシークエンスが、完全なオリジナルだ。その中心となるのが、時次郎(中村錦之助)を慕ってついてくる身延の朝吉(渥美清)という渡世人。これは原作には登場しない。 

 朝吉は時次郎に憧れ、男を上げたいと願うもお人好しで技量が足りない。これが、凄腕ながらも稼業に嫌気が差している時次郎を対極的に浮かび上がらせる役割を果たすことになる。時次郎は、草鞋を脱いだ先での出入りに加わらずに旅立とうとする。朝吉はそれをなじり、一人で引き返して出入りに加わり、命を落としてしまう。時次郎は気にかけて引き返すも時すでに遅し──。 

 この序盤のエピソードを通して、親分たちにいいように使われて命を散らしていく渡世人の空しさという、映画版に貫かれるテーマが強く打ち出されることに。それに加えて、このエピソードは「その腕前のために行く先々で心ならずも抗争に巻き込まれてしまう」という時次郎の宿命も伝えている。そのことはやがて、結果としておきぬ・太郎吉の母子を巻き込んでしまう悔恨も深めることに。

 このオリジナルのエピソードに加え、原作の開始地点までにもう一つのエピソードが挿入されている。それは、渡し舟の場面。ここで、時次郎は母子と同乗しているのだ。時次郎はおきぬ(池内淳子)に柿をわけてもらう。そのことは、朝吉を弔った時次郎のささくれた心を癒してくれた。帰り道、時次郎は太郎吉を肩ぐるまで送る。 

 この脚色で、後に時次郎が背負うものは変わることになった。事前に母子との関係性を入れたことで、その後で父親の三蔵(東千代之介)を斬る悲劇性は増している。その一方、見ず知らずの人間を人情だけで助けた、原作の時次郎の気風は弱まった。つまり、映画版の時次郎は「渡世人の気風」よりも「渡世人の宿命」を背負った人物として描かれているのだ。 

 おきぬのキャラクターも、原作から変化している。映画でのおきぬは戦うことを止めて共に逃げるよう三蔵に持ちかけている。だが、三蔵は聞かずに妻子を先に逃がしている。それに対して、原作のおきぬは鉄火肌で好戦的。鉄火場に太郎吉とともに残った。 

 おきぬが三蔵の最期の場にいるかいないか──は、その後の時次郎とおきぬの心情の描かれ方の違いももたらしている。原作は三蔵の死に際にも妻子はおり、三蔵が時次郎に二人を託す場も見届けている。そのため、旅立つ段階で時次郎もおきぬも全てを受け入れた状態にある。 

 一方、映画では三蔵と妻子の待ち合わせ場所に着いた際に、時次郎は自身が託されたのが「渡し場で会ったあの母子」だと初めて知る。このことで、時次郎からすると「斬ってはいけない相手を斬ってしまった」という面が強まった。また、おきぬも先に時次郎の人柄に触れていたため、「お前さんのような優しい人が、どうしてうちの人やっちまったんだろうねえ⋯⋯」と思い悩むように。 

 そして、こうした脚色を経て、中盤からは二人のメロドラマ的な要素が核になっていく。これも、原作にはなかった要素だ。 

 おきぬは、旅先で倒れる。その原因は、原作は三蔵の子を懐妊したためだったが、映画では旅の疲れによる病に変わっている。これは、この後の展開をスムーズにさせるための脚色でもあった。映画版の二人は、互いに惹かれ合い、そしてそのことで葛藤する。これは、懐妊している設定のままでは描きにくい展開といえる。 

 時次郎はおきぬのために金を稼ごうと、これまで忌み嫌ってきたやくざ同士の出入りに助っ人として参加する。だが、戦いを終えて宿に戻ると、おきぬは既に息を引き取っていた。この終盤の展開は、原作も映画も同じだ。 

 ただ、映画ではその前にもう一つシークエンスは挿入されている。時次郎への想いに悩んだおきぬは、太郎吉とともに姿を消すのだ。一人残される時次郎は、自身のおきぬへの想いがそうさせた──と己を苛んで苦しむ。とにかく、映画版の時次郎は葛藤して苦しむ場面が目立っていた。 

 そして高崎にて、時次郎は流しの三味線弾をしているおきぬと再会。この時、おきぬは体調をさらに悪化させていた。そんなおきぬのため、時次郎は自ら出入りへの参加を申し入れる。 

「あっしみてえなヤクザにできることといったら、命を張ることだけしかねえ」 

 自身を狙う相手に囲まれた際も、かたくなに刀を抜かずに甘んじてリンチを受け続けた時次郎(※この場面も原作にはない)だったが、おきぬを助けるためには、戦う以外に道はなかったのだ。 

 おきぬは死に、時次郎は太郎吉を連れて旅立つ。この終わり方は、原作と同じだ。その際、時次郎の前に敵が立ちはだかり、時次郎がこれを斬ろうとするも太郎吉が止める。これも原作と同じだ。が、その相手が異なっている。 

 原作で立ちはだかるのは、三蔵と敵対し、その後は時次郎を狙っていたやくざたち。だが、映画では昌太郎(岡崎二朗)という青年を相手にしている。彼はおきぬの親戚で、貧しい農民生活に嫌気が差して渡世人稼業に憧れていた。その姿は、冒頭の朝吉に重なってくる。このまま渡世人を続けていたら、彼もまた朝吉と同じ最期が待っている──。そして、昌太郎と対峙した際に発したのが、冒頭に挙げたセリフだった。これこそ、本脚色に通底するテーマだ。 

 望まぬとも、争いや殺しから逃れることができない──。そんな渡世人の抱える陰を強めた脚色により、任侠の世界が徹底して否定的に描かれている。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。

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