連載第44回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『山椒大夫』
(1954年/森鷗外/脚色:八尋不二、依田義賢/監督:溝口健二/配給:大映)
「人は慈悲の心を無くしては人ではない。己を責めても人には情けをかけよ」
時は平安末期。筑紫(現・福岡)に追放された貴族の夫を追い、幼い息子の厨子王と娘の安寿を連れて、母の玉木は陸奥から筑紫へと向かった。が、その途中の越後で人買いに騙され、母は佐渡へ遊女として売られ、安寿と厨子王は丹後の業突く張りの金持ち・山椒大夫に買い取られた──。
魂の救済や利他性の尊さを謳った森鴎外の小説は、一度だけ映画化されている。それは、さらなる過酷で苛烈なドラマだった。
「人がまだ目ざめをもたない平安末期」「人の世の嘆きの限りをこめた説話」という冒頭のテロップにある通り、作り手側はこの時代を徹底した残酷なものと捉え、その中で苦しみあえぐ人々の姿を映し出していく。
文庫で80ページ弱の小説が122分の映画になっていることからも、新たな要素がかなり追加されていることがよくわかる。まず目を引くのが、父の存在だ。
原作では父が左遷されたという事実は終盤になって初めて明かされる。しかもそれは「違格に連座」とあるだけで、具体的な事情は全く説明されていない。また、どういった人物だったのかもわからない。
だが、映画はそうではない。序盤から回想という形式で、父(清水将夫)が筑紫へと流されていく過程が詳細に描かれているのだ。そこから伝わる人物像は、領民想いのリベラリスト。飢饉に苦しむ農民側に立ったために、家族から切り離されて左遷されることになったのだ。その過程を通して、「農民たちの嘆き」と「虐げる権力」という、本作の構図が明確に浮かび上がっていく。
そして、別れの夜に父が厨子王に伝えたのが、冒頭に挙げたセリフだ。それに続けて、こう諭している。
人は等しくこの世に生まれてきたものだ。幸せに隔てがあってはならない
この一連のセリフからも、映画版の基本テーマが利他性と平等思想にあることがよくわかる。そして、それを伝える上で重要な小道具となるのが、父から形見として渡される観音像だ。原作では母から渡されているのだが、これを父に変えたことで「その意志を厨子王が継ぐ」という継承が具体的に伝わってくる。
また、原作では安寿=姉、厨子王=弟だったのが、映画では厨子王を安寿の兄にしている。この脚色により、厨子王が父から託された遺志を理解して受け継ぐことに説得力が増すことになった。
原作から加わった次なる要素は、作品世界の残酷さだ。最初にそれを具現化しているのが、母(田中絹代)だった。原作では受動的で、運命に流されがちな存在だったのに対し、映画では能動的に動く。子供たちに生き方を諭し、旅先では自ら野宿を選び、有り合わせで小屋作りもしている。子供たちと離れ離れになる際も船上で抗っているし、佐渡で遊女を強いられた際も脱走を企てている。そのような女性ですらこのような目に遭う──と、より落差が大きくなったことで、その残酷さは強まったといえる。
また、この一家を騙して人買いに売る人物も変更されている。原作では屈強な船乗りで、母はこれに押し切られるように半ば強引についていくことになる。それが映画では、老いた巫女になっているのだ。人の好さげな、そして実際に親切にしてくれた巫女。だからこそ、それに付いていく母の行動に納得性が増したのと同時に、物語の意外性、そして「巫女ですら鬼」という世の無情感を高めることになった。
中盤、安寿(榎並啓子→香川京子)と厨子王(津川雅彦→花柳喜章)が過ごすことになる山椒大夫(進藤英太郎)の荘園での暮らしも、脚色が施されている。
どちらも過酷な重労働であるには違いないのだが、それでも原作は「厳しい労働環境」程度のもの。それに対して映画は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。特に強烈なのは、逃亡者への容赦ない刑罰だ。女性でも老人でもお構いなしに、額に焼印を押されるのだ。原作にもこの描写は出てくるが、それはあくまでも姉弟が見た幻でしかない。が、映画では現実。しかも、原作は残忍な息子の三郎が執行していたのに対し、映画では山椒大夫自身が手を下す。これにより、大夫の残酷で冷酷なキャラクターが際立ち、二人の状況の生き地獄ぶりはより苛烈に伝わることになった。
その上、さらに絶望的な設定が映画には加わっている。原作の大夫は後ろ盾のないアウトロー的な富豪だったのに対し、映画の大夫は右大臣家の荘園を管理している設定になっているのだ。年貢の納めが良く莫大な賄賂も納めているため、右大臣や貴族の覚えが目出度い、つまり、残忍な上に中央の巨大権力がバックについている──。この絶望感を増す脚色が、終盤になって重要な意味を成してくる。
やがて二人は成長。安寿の助けで厨子王は脱走に成功し、安寿は厨子王も守るために入水自殺をする。この展開は原作も映画も変わらない。ただ、脱走成功までの過程が大きく異なる。
原作の厨子王は健全な精神を維持したまま育つ。そして、安寿の発案により脱走することに。が、映画はそうではない。長年の奴隷労働ですっかり厨子王は荒んでしまっており、父の遺志を忘れて大夫への忠誠を尽くし、あろうことか焼印を押す側に自ら回るまでに堕落していたのだ。「私の兄さんは、こんな人じゃなかった」と嘆く安寿の声も届かない。
そして厨子王は大夫に言われるまま、弱り果てて働けなくなった女工を生きたまま裏山に捨てて野ざらしにすることに。その女工は安寿とも仲が良かったため、これに同行した。その際、安寿は女工の雨よけ作りをし、厨子王はこれを手伝う。そこでかつて母と野宿のための雨よけを作った日々を思い出し、ふいに善意に目覚めるのだ。そして、自ら安寿に「逃げよう」と持ちかける。全てが原作と正反対だ。
そんな厨子王に、安寿は「追手が出るのを私が食い止めます」「兄さん一人なら逃げられるのです」と諭し、見張りを誘導しつつ最後は兄を守るために入水自殺をする。一方の厨子王は、なんとか京都にたどりつく。
原作は、この脱走終了の段階で全体の四分の三。それに対して映画はまだ半分強でしかない。つまり、京都にたどり着いてからの展開に映画はさらなる山場を加えているということだ。
厨子王は関白への接見に成功し、貴族の地位を取り戻す。そして、山椒大夫のいる丹後の国守に任じられた。厨子王は丹後の国守として、人身売買と奴隷労働を禁止するお触れを出す。その間の経緯に違いがあるものの、この展開自体は原作も映画も同じだ。が、ここからが全く異なる。
原作の大夫は厨子王のお触れに従い、結果としてそのおかげでさらに富をえられた──という結末を迎える。が、映画はそうではない。ここで効いてくるのが、大夫が右大臣家の荘園の管理をしているという脚色。その荘園には、国守といえども手出しできないのだ。関白も部下も、厨子王を制止する。京都に着いてから順風満帆だった原作にはない展開だ。
それでも厨子王は強行突破。軍勢を率いて大夫の荘園に乗り込み、挑発してくる大夫をものともせず、強引に奴隷たちを解放してのける。焼け落ちる大夫の屋敷を眺め、厨子王は自らの職を辞した。冒頭での、父からの薫陶を貫いたのだ。
そしてラスト。厨子王が佐渡を訪ね、視力を失った母と再会するところで終幕するのは、原作も映画も変わらない。ただ、原作は再会してすぐに母は厨子王を認識したのに対し、映画はそうでない。厨子王が名乗り出ても、母は信じないのだ。「いつまでもお前らの笑いものにはならぬ」──その言葉には、ここまで嘲笑の中で生きてきた母の過酷な日々をうかがい知ることができる。
厨子王が観音像を渡して、母は初めて信じることになる。だが、そこで喜び合うのは束の間。母に尋ねられ、厨子王は父と妹の死も告げねばならなかった。原作の感動的な大団円に比べ、重さと哀しみが最後までのしかかる。
厨子王が佐渡に行った際のシチュエーションも異なる。原作の厨子王は、国守のままであり、その休暇で佐渡を訪れる。それに対して映画の厨子王は全てを失ってから佐渡へ渡り、母と再会しているのだ。ただ、その厨子王の現状は父から託された生き方を貫いた結果だ。だから厨子王に悔いはない。そのことを母に告げ、そして母もその生き方を喜んだ。
世俗の栄達が消えた分、精神の気高さの尊さをより浮き彫りに伝えるラストになっている。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。





