連載第43回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『斬る』
(1962年/原作:柴田錬三郎『梅一枝』/脚色:新藤兼人/監督:三隈研次/配給:大映)
「私にも、殿と同じような父が。生きていればです」
柴田錬三郎の短編時代小説『梅一枝』は、大映で市川雷蔵主演にて『斬る』と改題されて映画化された。基本的な設定と展開は同じだ。数奇な出生の持ち主である若き小諸藩士・高倉信吾は藩主に気に入られるも、やがて藩を出奔する。そして浪人生活を経て新たに大目付・松平大炊頭に使えることになる──。
ただ、信吾から受ける印象は、大きく異なるものになっている。それは、「愛」の扱いによるところが大きい。映画の信吾(雷蔵)は、とにかく愛されている。養父(浅野進治郎)からも妹(渚まゆみ)からも深く愛され、自身も天真爛漫に育ったところがある。
だが、原作はそうではない。原作の信吾は愛を知らないのだ。そのために自身の命を顧みることなく誰かのために動く。藩が疫病で混乱に陥った際には、自ら南蛮伝来の妙薬の試検体なり、そのことで藩を救ったために藩主からの信頼を得ている。また、三年の暇を得て旅に出るのだが、その理由は「一芸を身につけるため」。つまり、藩主の役に立つ侍になるための修行が目的だった。映画には試検体のエピソードはなく、旅に出る理由も「なんとなく」。藩主(細川俊夫)も「いたわってやろう」ということで、これを認めている。藩主からいきなり愛されている状態だった。
つまり、映画に対して原作の信吾は徹底して乾いているのだ。そのため、信吾が出奔する理由も大きく異なっていた。
原作での出奔の理由は、「名状し難い無常感」にかられ、「孤独になりたい」からであった。愛を知らぬ者が愛を求めて旅に出た──と捉えられる表現になっている。
が、映画は大きく異なる。隣家に住む同僚の池辺親子(稲葉義男、浜田雅史)に逆恨みされて父と妹を惨殺され、これを討ち果たしたことで止む無く出奔することになったのだ。映画の信吾は、周囲の愛に恵まれている設定を序盤の段階で色濃く描いていた。だからこそ、自身を愛してくれた者を失い、拠り所を無くしていくという展開が悲劇として盛り上がる仕掛けになっている。
そして、映画の中盤には原作にはない場面が待ち受ける。それは、自身の実父(天知茂)との対面だ。
信吾の母(藤村志保)は飯田藩士の娘で、殿の寵愛を受けて藩政を乱す側室を暗殺したことで手討ちにあっていた。正室と家老は彼女を守るべく、一年だけ隠棲させてその間に懐妊することで、藩主の情にすがろうとしていた。その際に彼女が若い侍と暮らし、身籠る。それが信吾だった。が、結局は藩主に許されることはなく、母は処刑される。そこで介錯したのが、父だった。
その後、父は出家して、山奥の荒れ寺で暮らしていた。今際の際に養父から自身の出生の秘密を聞いていた信吾は、出奔してすぐに父を訪ねる。そして、母と同じ墓に入ることだけを楽しみに生きている──と語る父の穏やかな表情に触れ、この世で添い遂げるばかりが愛の成就ではないと知る。
原作の信吾は自身の出生の秘密を知らない。そのため、こうした愛の諸相を知ることなく、誰かのために命を賭す尊さにのみ、生きる価値を求めていく。
こうした違いの積み重ねにより、原作も映画も信吾の最期は同じであるにもかかわらず、全く異なる余韻を与えることになった。
信吾が新たに仕えることになった松平大炊頭(柳永二朗)は、幕府に対して不穏な動きを見せる水戸藩を検分するため、水戸へ向かう。信吾はその護衛を命じられた。最終的には水戸藩の策略により大炊頭と信吾は引き離され、どちらも襲撃を受ける。刀を奪われていた信吾は床の間に飾ってあった梅一枝を武器に討手を返り討ちにするも、大炊頭は殺害されていた。主君の亡骸を前に、信吾は切腹して果てる。
この展開そのものは、原作も映画も同じだ。そして、死に際にある女性の顔を思い浮かべるのも同じ。それは、物語の中盤。出奔して旅を続ける信吾は、追手から逃げる姉弟と出会う。弟は姉を逃がすよう信吾に頼むのだが、姉は信吾を振り切り、弟を逃がして自身が命を落とすのだ。原作で最期にその顔を信吾が思い浮かべるのは、誰かを助けるために命を捨てることを生き甲斐にしながらも、それのできなかった自分自身を悔いる──というニュアンスが伝わる。つまり、原作の信吾は悔恨のために切腹しているのだ。
が、映画はそうではない。水戸に移ってから、原作にはない場面が挿入されている。それは、大炊頭が逗留する屋敷にある茶室でのこと。ここで大炊頭は信吾に茶を点てるのだが、その際に大炊頭は「ワシにはおぬしのような息子がおった。生きていればの話だが」と語り掛ける。それに対して信吾が返したのが、冒頭に挙げたセリフだ。その上で大炊頭は信吾に娘婿になるよう持ちかけている。つまり、両者の間には父子のような情が通っていたのだ。主君と家臣という関係性に終始した原作と、大きく異なる。
そのため、ラストの切腹も意味合いが異なるものになった。映画の信吾も原作と同じく旅作で出会った姉(万里昌代)の顔を思い浮かべる。が、その前にもう一人の女性の顔があった。それは、母。愛する男に処刑される直前の母の顔で、それは晴れやかなものだった。かつて実父が語ったように、この世でなくとも愛する者と結ばれることができるという想いが、母の表情からも伝わってくる。それを経ての、信吾の死に顔もまた、穏やかで安らかなものだった。大炊頭の胸に寄り添うように息を引き取る信吾からは、安息の場にたどり着いた幸福感が伝わる。つまり、後追い心中のようなニュアンスのある切腹になっているのだ。
悲劇的な結末でありながら、どこかハッピーエンドの空気すら漂っていた。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。





