週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.3 TSUTAYA中万々店 山中由貴さん
『ブラック・チェンバー・ミュージック』
阿部和重
毎日新聞出版
人生でいちどくらい、壮大な陰謀の渦に巻き込まれて、「この国の危機を救えるのは俺だけ…だと…!?」とか「ああっ!黒幕はお前か…!」とか死にそうになりながらいってみたい。ジェームズ・ボンドやイーサン・ハントを栄養分にすくすく想像力を育ててきた私は、よくそんなふうに夢想する。
だけど、特殊能力はおろか運動能力も抜きん出た知識もない凡人に、お鉢が回ってくることはない。というかそんな状況、そもそもない。だからおとなしく本を読んで渇きを癒すのだ。
ところが、である。
阿部和重著『ブラック・チェンバー・ミュージック』の主人公、横口健二はまさに、本来なら陰謀鉢など回ってくることない人生のはずが、怪しい密命に生死を賭け、奔走するはめになるのだ──。
物語は、米朝首脳の歴史的会談の裏で、タクシー運転手に明かされたある男の爆弾発言によって動きだす。
初監督作品の公開直前、大麻取締法違反でキャリアを棒に振った借金まみれの横口健二は、古い知り合いのヤクザ、沢田に儲け話を持ちかけられる。それはなんと、北朝鮮から密航してきた女を匿うこと、そして女が探す映画の論文を、期限内に完全な状態で手に入れること。こうして、「なぜそんなものが必要なのか」「失敗したらどうなるのか」もわからず、ゆるふわっと、あと戻りできないミッションを請け負ってしまう。
「ゆるふわっと」。これがこの作品の、味つけの妙ともいうべきところで、たとえば話が進んでゆけばゆくほど、横口健二は現代日本でこんなことあり得るの!?という危機的状況に追い込まれていく。のだが、高まっていく緊迫感を相殺しかねないほど、どこかでなにかが常にゆるふわっとしている。
横口健二と沢田、ふたりの会話がその最たるもの。あからさまに笑かそうとしてはこないけど、ずっと続けられるとついにはふっと笑いが漏れてしまう、終始そんなふうなのだ。北の女密使にいたっては、ただなんとなくそこにいる人、みたいなふわっと感だ(と思いきやのちに彼女にハートを撃ち抜かれるのだが)。
国家レベルの機密を追っているというのに、今これシリアスなの?そうじゃないの?と不審にさえ思ってしまう。
さてもちろん、この本のなかでいかなるスリルと冒険と陰謀とピュアラブが待ちうけているか、それを明かすことはできない。ただ一言、超絶怒涛だといいたい。
二段組み500ページちかくという分量にもかかわらず、恐ろしいまでにページが進む。溶けるようにラストまで行き着く。
そして最後にはゆるふわっとはなりを潜め、こんなに感情を揺さぶられてあああああああっと叫び出しそうになるなんて予想できる箇所あったか!?ない!!!!!うわあっ、となった私がいることだけ、報告しておく。
あわせて読みたい本
登場人物が60人近くいる巨大群像劇は、最初こそ戸惑う(というか引く)が、人間の悪だくみや暗い思惑が連鎖して壮大な結末にいたる大傑作だ。結局のところ小説は面白けりゃいいのだ。泣ける、考えさせられる、心洗われる、そんなものはくそくらえ!
おすすめの小学館文庫
『囁き男』
アレックス・ ノース
訳/菅原美保
小学館文庫
怖い表紙のむこう、ちょっと驚くほど心動かされる父と息子の絆があって、なんだこんなの聞いてないぞ、目が潤んじゃうじゃないか、と文句のひとつもいいたくなる。最後にすべてが繋がって、なんていい小説を読んだんだろうと放心する。ただ、表紙は怖い。
(2021年8月6日)