◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 前編
蝦夷地では検地竿役の新三郎がある疑念を抱き……
三十五
天明六年(一七八六)は、江戸に夏が来なかった。四月の半ばより六月にかけてずっと雨にたたられ、時ならぬ肌寒さに五月になっても綿入れが手放せない日々となった。
六月は三日より十三日まで降り続け、やっと陽の光が拝めたのも束(つか)の間で、二十一日からはまたほとんどが雨に降り込められた。近郊では長雨によって桑の葉が黒斑病などにおかされ、養蚕をあきらめざるをえない村が続出した。葉物野菜はもとより土物の畑作物まで壊滅的な打撃を受け、再び冷夏による大凶作の予感と治安の悪化に、戸前を閉ざしたままの商家が江戸でも目立った。
七月に入ってからも、夏らしい陽光はめったに差すことはなく、鉛色の雲に覆われる日が続いた。そんな中、江戸町奉行から町年寄を経由して江戸市中へ通達されたのは、職種を問わず民すべてに漏れなく強いる御用金供出の令だった。
『一、近年、金銀の融通がよくなく、大名諸家の困窮が語られるようになった。そこで、このたび金銀の融通のため、左記のとおり出金を命ぜられた。
諸国の寺社と山伏は、本山と主立つ社家一カ所につき金十五両を出金するものと定める。また、その末寺にいたるまで規模相応の金高を定め出金するよう漏れなく申し渡すこと。
諸国の幕府領と私藩領の百姓は、持ち高百石につき銀二十五匁(もんめ)を漏れなく差し出すこと。
諸国の幕府領と私藩領の町人においては、間口(まぐち)一間(いっけん=約一・八メートル)につき銀三匁として算出し、地主が所持する土地に応じた額を差し出すこと。
当年から戌(いぬ)年までの五年間、毎年右のとおり出金銀すること』
そして、このたびの御用金のとりまとめは、本寺や本山、幕府領の代官と奉行、各大名が行い、江戸では駿河町(するがちょう)の三井組か上田組、大坂では高麗橋(こうらいばし)の三井組か上中島(かみなかじま)の上田組に納めることとされた。
御用金は上納金とは異なり、目的を達すれば出資した者に利子をつけて返済される建前のものである。但(ただ)し書きには『このたび課した全国の寺社・農民・町人からの出資金に、幕府も出金して大坂に貸し金会所を作り、融資を求める大名へ年に七朱(七パーセント)の利息で貸し付け、五年後以降に返済させる』と明示されていた。また、その担保として、大名が発行した米切手か、大名領の村高をあてるという。大名が返済できない場合は、米切手を換金するか、担保にした大名領地を幕府代官が押さえその年貢を返済にあてるという仕組みだった。
天明四年の大飢饉(だいききん)からわずか二年、江戸の町衆は、米不足と物価高にさんざ苦しめられ、そのうえ天明四年暮れとこの年正月の大火で焼け出されて、多くの者が身の置き場もない有様だった。大火に遭った大名屋敷は再建されても、町人の住いは簡単に元に戻るはずがない。雨ばかりで葉物野菜の値は上がり、地震もたび重なり、そのうえ新たな御用金の強制である。返済を保証するといわれても、ないものは出せない。江戸市中は、大名諸家の金詰まりによるという御用金令に騒然とならざるをえなかった。