日本の近代文学史って、どう理解すればいいの?【教えて!モリソン先生 第3回】
日本の近代文学史には「◯◯派」や「△△主義」といったような作家グループの名前がいっぱい登場しますが、彼らはどんな作品を残したの……?そこでアメリカ人学者、モリソン先生が文壇の知識に頼らない「新しい日本文学史」の解釈法をご紹介!
こんにちは。ライアン・モリソンです。日本文学の研究者・翻訳家である私が皆さんに文学作品の読み方を提案するこの連載も、今回で第3回を迎えることとなりました。
前回、次は文学の翻訳について具体的な話をすると予告しましたが、我が研究室に来たある学生がかなり良い質問をしたので、先にその話をします。悪しからず。
以下は2人の間で起きた会話を出来るだけ忠実に再現したものです。専門的な内容を可能な限りわかりやすく説明したので、最後までごゆっくりお読みください。
文学史を再考する:「写実的リアリズム」と「非写実的リアリズム」
美佐子ちゃん: ねねモリモリ先生、このあいだ薦めて下さった日本近代文学史の本をいくつか読んでみて、近代文学の中にも様々な流派があることを知りました。例えば、「白樺派」は学習院をベースにした華族や貴族の坊っちゃん達のグループ、「自然主義」は田舎から上京したての作家グループ、「耽美派」は慶応大学から始まった『三田文学』を主な発表の場とした江戸っ子作家グループ、「無頼派」は戦後、酒にふけりながら「堕落」を謳歌するワイルドなグループ……という風には理解できました。
だけど、そういう分類の仕方は、作家達の出生・階級・ライフスタイルなどが基準になっていて、彼らの作品自体はほとんど無視されているというか、どういう特徴のあるものかわからないな、と思いました。
モリソン:確かに、日本の近代文学史には「◯◯派」とか「△△主義」がたくさん登場しますよね。
美佐子ちゃん:それって、私が高校生の時に持っていたような世界の見方、つまり、あいつらはヤンキーで、あいつらは金持の坊っちゃん、またあっちの連中は秋葉系、というふうにクラスメート達をそれぞれの社会的立場で分類していたことと似ている仕組みのように感じますね。もっと作品そのものの構造や文体、文学的要素に即して日本近代文学史を理解する方法はないの?
モリソン:すごいね美佐子ちゃん、めちゃくちゃ良い質問を訊いてくれたな。確かに既存のスタンダードな文学史を読んでみると、その多くは文壇(the literary establishment)という観点から作家達を大雑把にいくつかの潮流に分けていて、それによって日本近代文学史とはこういうものだ、という一つの物語(grand narrative)を作っていると言えるね。
しかし、実はそれとは違う見方をすることも可能です。これは私が博士論文で少し触れて、今後さらに発展させていくつもりのシステムで、文壇ではなく個々の作品自体の特徴を基準とする分類方法、つまり作品の形式と内容を反映した日本文学史の整理法なのです。
美佐子ちゃん:そうなの?先生が自分で作ったの?面白そう!その新しい分類方法を教えて!
モリソン:つまり、明治から現代に至るまでの様々な作品を大きく2種類に分けるというシステムね。すなわち、
①「写実的リアリズム」を前提にした作品と
②それを前提にしない「非写実的リアリズム」による作品
に分けるというものです。
前者①に分類される作品は、坪内逍遥が『小説神髄』で論考した有名な理念をベースにしたもの。後者②はそれ以外のもの、つまりその理念を意図的にあるいは無意識に無視・否定した作品となります。
美佐子ちゃん:ちょっと待って、先生。坪内逍遥の示した理念とは何ですか?
モリソン:逍遥は、近代小説とはかくあるべし、という定義をはっきりと示したのね。彼によれば、「真の」小説は当時の西洋のリアリズム小説をモデルにすべきであり、小説の「主眼」とは「人情」(human feelings)・「風俗」(social customs)・「世態」(manners)の三つのものを題材にしてそれらをありのままに「模倣」・「写実」・「模写」すること、となる。英語でいうと「mimetic realism(模倣的リアリズム)」と言えばいいかな。
つまりこれは、世の中にすでに存在するものをあるがままに書き写したものこそが小説である、という考え方。この考え方は、それまでの日本文学とは根源的に違うものだったので、当時の日本人にとっては非常に斬新な発想に思われた(それ以前の日本文学では、過去の文学作品に言及するということが一般的に行われていて、つまり過去の他作品を介在させているので、世界をありのままに描くというのとは大きく異なります)。
日本が近代化、つまり西洋化していくという歴史的背景の中で、逍遥の考え方はすぐに受け入れられ、日本近代文学の主流として定着しました。自然主義、プロレタリア文学、白樺派、そして新感覚派でさえ、この写実的リアリズムを前提にして発展したものといえるでしょう。
美佐子ちゃん:そうなの?では、それ以外のもの、つまり先ほど先生が言った②の非写実的リアリズムは実際にはなかったの?
モリソン:また良い質問ですね。もちろんありますよ。リアリズムの代表作家である夏目漱石でさえ『夢十夜』という幻想的作品を書いていますし、主流となった逍遥による大前提に対して敢えて違う文学を創り出そうとした作家もたくさんいます。
象徴派、ロマン派、モダニズムなどの流派は非写実的リアリズムの典型で、その流派に属する作家としては幸田露伴、石川淳、川端康成、泉鏡花などが挙げられます。そして戦後になると、幻想文学が台頭し、現在ではむしろ非リアリズムが主流になっていると言えるのではないかと思いますね。
小説の形式と内容を測る「物差し」
美佐子ちゃん:なるほど。では、近代から現代の作品は「写実的リアリズム」によるものか「非写実的リアリズム」によるものか、どちらかに分類できるということのようですが、その小説が「写実的リアリズム」であるか「非写実的リアリズム」であるかは、どうやって判断できるのですか?何か基準とかありますか?
モリソン:実はあるのよ。それが私が考え出した作品判断のシステムです。そしてそのシステムでは、「mediation」という概念を、いわば個々の作品を計る物差しとして使用します。
美佐子ちゃん:「mediation」って?つまり日本語の「媒介」ってこと?
モリソン:ピンポーン!写実的リアリズムは世の中に既にある存在をあるがままに書き写すことを第一条件としていると言いましたけど、この「あるがまま」は、英語の「immediacy(直接性・無媒介性)」にあたります。「mediation」とはその「immediacy」を妨害したり問題化したりする役割をなすものととらえてください。そして、この文学的mediationには4種類があります。
美佐子ちゃん:4つ?
モリソン:そうなの。その4つとは、
A. 象徴的媒介(figurative mediation)
B. 表層媒介(surface mediation)
C. 深層媒介(deep mediation)
D. 自己言及的媒介(reflexive mediation)
のことです。
美佐子ちゃん:なんだか難しそうですが。私でもついていけますか?
モリソン:大丈夫。決して難しくないので、簡単に説明しますね。
Aの「象徴的媒介」とは、隠喩(metaphor)や直喩(simile)などの比喩、象徴、詩的表現、言葉の綾、寓意性などです。例えば、川端康成の「ざくろ」(※以下、リンク先は英語ブログ)というごく短い作品では、少女の性の目覚めを、そのまま言葉通りに示すのではなく、ざくろの果実を描写することによって表現しています。つまり、言葉で直接説明するのではなく、隠喩・象徴(=ざくろ)を媒介として伝えている、ということです。
Bの「表層媒介」は、直接の文学的・文化的な言及です。例えば分かりやすい例では、日本の古典文学の作品においては、唐時代の中国の詩人たちが書いた詩を明らかに引用したり言及したりしているものが沢山あります。当時の作家たちは自然現象などを書くときにその自然現象を直接観たり描いたりするのではなく、必ず以前に書かれた有名な詩などを通じて観たり描いたりするわけですね。
その引用元となる他作品という文化的フィルターが、「surface mediation」ということです。現代で言えば、村上春樹の作品においてアメリカのポップカルチャーへの言及が溢れていることもこれにあたると指摘できますね。
Cの「深層媒介」は、作品の構造自体が何かの既成の構造・形式を借りたり下敷きとしたりしているもののことです。ちょっと難しい言葉になりますが、間テキスト性(intertextuality)とも呼べるでしょう。例えば幸田露伴の「対髑髏」や泉鏡花の「高野聖」など能楽の構造を土台として作られている小説だったり、古代ギリシャの叙事詩、『オデュッセイア』を下敷きにしたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』だったりね。
これらの作品は、先ほどの「表層媒介」とは違って、直接(つまり表面に見える形で)他の作品の登場人物の名前を出したり文章を引用したりするのではなく、土台となる深い部分で他作品の構造や形式を媒介としているので、「深層」と呼ぶわけです。
Dの「自己言及的媒介」は、現代風にいうとメタフィクション的な要素で、つまり作品の語り手が自ら語るというプロセスを意識したり強調したりしているということですね。例えば芥川龍之介の「葱」(1920)では、語り手が、明日までに原稿を出さねばならぬので、今から急いでこの架空の物語を提供するぞ、という仕組みになっている。
写実的リアリズムの場合、語り手は直接に(さりげなく)そのストーリーを語っていくのに対して、メタフィクション的要素のある語り手は〈語る〉、あるいは〈書く〉というプロセスを敢えて強調しながら語っている。つまり、読者にとって普段は透明な存在であるはずの語り手が、作者によってその存在を際立たせられているのですね(ちなみに、「語り手=作者」ではないので解釈には注意が必要です)。
美佐子ちゃん:つまり、A.「比喩」、B.「文化的言及」、C.「構造導入」、D.「語り手の自意識」ということですね!うん、私にもわかりやすい!
モリソン:その通りです。
その小説はどう書かれている?金井美恵子の「兎」を題材に
美佐子ちゃん:では、先生の提案するその「物差し」を使えばどんな作品でも測ることができるのですか?実は今、話を聞きながら、先日、先生の授業で扱った金井美恵子の「兎」(1973)のことを思い出していたのですが。(※)
※「兎」:「小百合」と名乗る兎の姿をした人間が、林のなかを散歩していた女性に自らの来歴を語るという、金井美恵子の短編小説。父娘の関係や、残虐な少女性を猟奇的なモチーフとともに描いている。
モリソン:また良い例を思いつくね、美佐子ちゃん。では「兎」に私の物差しをあてはめてみよう。A~Dまでそれぞれ25点ずつ、合計100点満点とします。
(A)の「象徴的媒介」については、これはかなり象徴や比喩に溢れている作品と言えるね。血のイメージや兎殺し、兎食い、父の死顔は何を意味するのか、最終場面で主人公が自らの目を抉り出す行為は何を象徴しているか?ということを授業で話し合い、色々な答えが出たね。寓意性は大いに高いと言えるので、20点としよう。
(B)の「表層媒介」については、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(Lewis Carroll’s Alice’s Adventures in Wonderland (1865)への言及を確認しましたよね。とは言っても、直接の言及がさほど多いとは言えないので10点とします。
この「兎」という作品の場合、『不思議の国のアリス』はむしろ(C)の「深層媒介」として重要な機能を果たしています。兎に導かれて物語が展開するという冒頭から明らかなようにアリスの物語の構造を土台にはしつつ、しかし無害な少女アリスの物語を暴力的な物語に書き換えるという趣向が行われているのが興味深いですね。そして、アリスだけでなく、少女漫画など他の少女もののジャンルも土台にしていることも重要で、間テキスト性がかなり高い作品なので、23点をつけましょう。
最後に(D)の「自己言及的媒介」についてもかなり高いと言えるのは美佐子ちゃんも授業を通してもうお分かりでしょう。作品の最初に、語り手は書くのが自分の運命と明言していて、彼女が苦労して書きあげたものがこの「兎」という作品になっていることが最後に我々読者にわかるという構造になっています。語り手がこの作品の作者であること、その書くという行為が強調されているものですから、20点をつけましょう。
美佐子ちゃん:ということは、、、合計73点ですね。
モリソン:そうだね、中間の50点を区切りとしてどちらの範疇に入るかを判断するので、金井美恵子「兎」は、非写実的リアリズムということがわかるね。もちろん、この点数の高い・低いは、作品の良し悪しを示すものではなく、写実的リアリズムと非写実的リアリズムのどちらの要素が高いかを判断するものです。そして同じ作家であっても作品によっては点数が大いに異なるということもあり得るでしょう。そうすれば、一人の作家を何かの「流派」に括りつけるのはいかに可笑しいかということが想像できるでしょう。
美佐子ちゃん:なるほどね。凄い凄いモリソン先生大好き!
モリソン:まあ、とにかくこのシステムは作ったばかりのものなので、どこまで適用可能なものなのか、また、どのくらい矛盾が生じてくるか、などはこれから見えてくるでしょう。でも当面、既成の文学史に代替する一つの提案と考えて、色々な作品を読むときに利用してみてね。
もし、私がこのシステムを適応して文学史の本を書くとしたら、一冊を10章に分けて、第1章は合計0点~10点の作品について、第2章は11点~20点の作品について、第3章は21点~30点と構成していきます。そうすると、これまで全然仲間だと思われていなかった作家同士が一緒になったりすることもあるかもしれないし、これまでとは全く違う、新しい日本近代文学史の形態が見えてくるんじゃないかと思えてワクワクしますね。
[執筆者プロフィール] Ryan Shaldjian Morrison(ライアン・シャルジアン・モリソン)
名古屋外国語大学 外国語学部 世界教養学科 専任講師
アリゾナ州立大学、上智大学で修士号を得る。その後、東京大学博士課程で石川淳などの昭和文学を研究。石川淳・古川日出男・高橋源一郎・松田青子・早助よう子など、日本人作家による小説の英訳も多数手がけている。
博士論文は「写実的リアリズムへの対抗言説としての石川淳初期五作品」(「Waves into the Dark: A Critical Study of Five Key Works from Ishikawa Jun’s Early Writings」)
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初出:P+D MAGAZINE(2016/06/02)