芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第59回】心の奥底に雨が降る

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義!連載第59回目は、吉行淳之介『驟雨』について。性を通して精神と肉体の関係を探求した作品を解説します。

【今回の作品】
吉行淳之介驟雨』 性を通して精神と肉体の関係を探求

性を通して精神と肉体の関係を探求した、吉行淳之介『驟雨』について

もう40年ほど前のことですが、ぼくが芥川賞を受賞した時、受賞式で選考委員の挨拶をしたのが吉行淳之介さんでした。いまはどうか知りませんが、文壇御用達のクラブが銀座にいくつかあって、文壇のパーティーがあると、必ずそこのホステスの方々が会場にいたものです。いまでいえばコンパニオンということなのでしょうか、立食パーティーでもっていたグラスが空になると、すかさず新しい飲み物とかえてくれたり、一人で立っていると話し相手になったくれたり、男性の多い会場の中では、まさに花のようにそこかしこにきれいなドレスや和服姿の女性がいるのは、なくてはならない彩りだったのです。まあ、パーティーの会場で、作家や編集者をつかまえて、そのまま店に連れていくというモチベーションが彼女たちにはあったのでしょうが。

ぼくの記憶にくっきりと残っているのは、吉行さんの周囲に女性が10人くらいつきまとっていて、吉行さんが移動すると、その女性たちの輪もそのままずるずる移動していくという光景でした。ぼくは受賞者でしたから、いろんな人が話しかけてきて忙しかったのですが、横目でずっと吉行さんの姿を追っていました。ぼくもあんな作家になりたいなと、ちらっと思ったりしたのですが、純文学の作家が飲みに行くのは新宿の場末のスタンドバーみたいなところが多く、銀座に行く機会はまったくありませんでしたし、そのうち文壇バーそのものがなくなってしまいました。

男女の心理の機微を的確に描写

なぜこんな話を最初にしたかというと、とにかく吉行さんは異様にもてる人だったということを皆さんにお伝えしたかったからです。細身のハンサムな外見も魅力ですが、話がうまく、優しい感じで、それでいて太宰治に通じる暗さももっているという、文学好きの女の子にとっては、たまらない感じの作家でした。

今回の『驟雨』は芥川賞受賞作ですから、これを書いた時の吉行さんは無名の新人でしたし、大学卒業後3年ほどという設定なので、過去のことを題材としています。でも、バーやキャバクラみたいなところに行けば、たとえ金持ちで有名でなくても、吉行さんならもてただろうなと思います。

この作品は私小説ふうのスタイルですが、主人公が女性の扱いになれていて、惚れられた経験も豊富にあるのだろうなと感じさせる空気が行間から伝わってきます。いま、バーやキャバクラ、といった言い方をしましたが、吉行さんが若かった頃は、まだ赤線というものがありました。赤線というのは公認の売春宿です。つまりその当時は、売春は合法だったのですし、その代わりに性病予防などが厳格に実施されていて、公認の場所に行けば安全に女性と朝まで遊べるという、そういうところがあったのですね。

主人公は遊び慣れたサラリーマンですが、ある宿で、知的でやや暗い感じの娼婦と出会い、昼間の喫茶店で会う約束をします。物語はその待ち合わせの場所に向かう主人公の心理描写から始まります。主人公は自分が何だかドキドキしているのを自覚します。いまの言葉で言えば「やばい」というような感じです。

主人公はもてるタイプの男ですが、女とつきあうのはめんどうだとも考えていて、それで素人の女性とはつねに距離を置いて接し、これもいまの言葉でいえば「独身貴族」の生活を楽しんでいます。サラリーマンの収入では毎日、その種の店に行くこともできないので、昼間に会う約束をしたのでしょうが、どうやら主人公はその女性に「惚れて」しまったようです。それで喫茶店でその女性と会っても、会話がぎくしゃくしてしまうのですが、その女性も主人公に気があるようです。そういう商売をしている人ですから、それは客相手の演技なのかもしれないのですが、そのあたりの心理の動きが、この作品の見せどころです。

「やばい」状態を「驟雨」にたとえている

ぼくはもう久しく、キャバクラみたいなところに行ったことがないのですが、かなり昔の体験を想い起こしても、底抜けに明るく騒々しい女性しかいなかったように思います。知的でちょっと暗いというような人は、いまはもうその種の店にはいないでしょう。しかし物語の舞台は終戦直後です。たとえば戦前は裕福な家の娘で、私立の女子校に通っていた育ちのよい女性が、家の没落のために娼婦に身を堕とすということも、当時はあったのでしょう。

そういう場所では、誰も過去を語ることはありません。しかし主人公はその女性に興味をもってしまいます。そして、「やばい」状態になってしまうと、その女性が別の客を相手に商売しているということが苦痛になってきます。嫉妬みたいなものですね。するとますます「やばい」状態になってしまいます。

タイトルは『驟雨』なのですが、作品の中で雨の降る場面は出てきません。その種の店に通い始めた頃に雨に降られた経験が回想として一度出てきますが、それよりも、その女性と昼間、街路樹を眺めていた時に、急に風が吹いて驟雨のように葉がざわざわと揺れ動く場面が出てきます。ここでは「驟雨」という概念が、象徴として用いられているのでしょう。要するに「やばい」ということを、驟雨にたとえているのですね。

いまキャバクラに行っても、こういう女性はいないでしょうし、いまの若者がこういう心理になることはないでしょうが、この作品で学ぶべきことは、人間の心理に奥深くにはすごいドラマがあるということです。売春宿に通ううちにそこの女性に惚れてしまったというだけの話なのですが、文学ってこんなにも深いものなのかという感動が得られます。ぜひ読んでみてください。

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初出:P+D MAGAZINE(2019/01/10)

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