ドラマの原作者・朱音に放送中止を伝えにきた七菜の前に現れた人物とは……!? 【連載お仕事小説・第26回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です
燃えるお仕事スピリットが詰まった好評連載、第26回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! ドラマ放送中止を朱音に伝えにいかなくてはならない七菜は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。朱音の元を訪れた七菜たちの前に、放送中止事件の当事者で朱音の息子・聖人が現れて……!?
【前回までのあらすじ】
ドラマ放送中止の現実をどこか別世界の出来事のように感じていた七菜。ドラマ「半熟たまご」の撮影現場でひよこの落書きを見かけたことで、世に出ないドラマと孵化できないひよこが重なり、急に実感が湧いてきてしまった七菜はスタッフの前では我慢していた涙を堪えきれずに一人、泣き崩れた。そんなとき、恋人・拓からの連絡が。
【今回のあらすじ】
ドラマの放送中止を朱音に伝えにいかなくてはいけない七菜は、追い詰められ、逃げ出したい思いだった。テレビ局よりも先に朱音に放送中止の事実を伝えたかった七菜は、勇気を振り絞り朱音に話しかけようとした。そんなとき、七菜たちの前に突如現れたのは今回の放送中止事件の当事者である朱音の息子・聖人だった……!
【登場人物】
・時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP(アシスタントプロデューサー)、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。
・板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。
・小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。
・橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。
・佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。
・平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。
・野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。
・佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。
・上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。
・岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。
【本編はこちらから!】
朱音の事務所へ向かうため、七菜は中野にある自宅を出た。いつもならサンモール商店街を通って駅に行くのだが、今朝はにぎやかなあの通りを通る気分にはどうしてもなれない。住宅街を縫うようにつづく脇道を辿って、七菜は歩いてゆく。
四月五日、放送開始まであと八日。
だが『半熟たまご』の放映中止は正式に決まり、今日正午にマスコミ発表される手はずになっている。その前に中止を朱音に伝える。それが七菜の、いまの仕事だ。
こころが重い。胃の痛みと吐き気がつづいている。食欲はまったくわかず、昨日から水だけを飲んで過ごしているが、その水でさえも、ともすれば吐き出してしまう。
せめて眠ろうと努力したが、これも無駄に終わった。なんとか眠りに落ちても、ざわっとした恐怖とともにぱっと目が覚めてしまうのだ。切れぎれの浅い眠りのせいで、かえって体力を消耗してしまった。
民家の高い塀に沿って歩きながら、七菜はこれからのことを思い、深い息を吐く。
放映中止を聞いたら、あの朱音のことだ、烈火のごとく怒りだすだろう。怒られ罵られるだけならまだしも、金銭的な問題も話さなくてはならない。
関係者の不祥事によって放映予定の作品がお蔵入りになったとき、負債を負うのは不祥事を起こした当の本人だ。賠償金は、時には億単位に膨らむ。聖人にそれほどの資産があるとは思えないから、きっと朱音が代わりに出すことになるのだろう。
すんなり賠償に応じてもらえればまだいいが、こじれるとなると裁判沙汰に発展し、長い期間、争いつづけることになる。アッシュとしても、弁護士費用やらそれなりの出費を覚悟しなければならない。
さらに七菜たち制作側には、今回の件で迷惑をかけてしまった関係各所への謝罪行脚が待っている。テレビ局をはじめ、出版社、スタッフやキャストの事務所、ロケでお世話になったところ──数え上げたらきりがないほど、今回の事件は波紋を広げている。すでに耕平はじめ、李生も大基も後処理のため走り回っていた。
ああ、なんてことだろう。七菜はずきりと痛む胃を手で擦り、少しでもからだが楽になるよう背を丸める。
のろのろと歩く七菜を、テイクアウトのカップを持った若い女の子たちが、楽しげにおしゃべりしながら追い越してゆく。
明るい陽射し、上がってゆく気温。
すでに散り始めた桜の花びらが、目の前でひらひらと舞う。
けれどいまの七菜には春の陽も、薄紅に染まった花びらもなにも見えない。感じられない。
ただひたすら辛い。しんどい。苦しい。逃げたい。逃げ出してしまいたい、すべてから──
なかば無意識に七菜はスマホを取り出す。ロックを解除し、LINEのアイコンをタップして、拓とのトークルームを開く。昨日届いた短いメッセージが目に飛び込んでくる。
何度も繰り返し読んだメッセージを、七菜はふたたび目で追った。
あたしには拓ちゃんがいる。「結婚しよう」と言ってくれた拓ちゃんが。「仕事なんか辞めればいい」と諭してくれた拓ちゃんが。
そう、結婚してしまえば。結婚してアッシュを辞めてしまえば、この苦しみから解放される──
どん。スマホに目を落としたまま歩いていた七菜は、前から来た男性ともろにぶちあたってしまう。
「ちっ」
男性が忌ま忌ましそうに大きく舌打ちをした。
「……すみません」
「前見て歩けよ」
吐き捨てるように言い、男性が通り過ぎてゆく。
とにかく朱音に中止を伝えなくては。テレビや取材を通して知る前に、現実を話さなくては。チーフプロデューサーであるあたしが。
痛む胃を擦りながら、鉄の塊のように重たい足を、一歩、また一歩と七菜は前に繰り出した。
二十四時間ぶりに会う朱音は、さすがに昨日よりは憔悴して見えた。ひっきりなしに鳴る電話やチャイムの音に神経をすり減らしているのだろう。
だが相変わらず両の目は
「ほんとうに馬鹿げているわ、なんなのこの騒ぎは!」
応接間を苛々と歩き回りながら毒づく。
「まあちゃんは悪くないと何度言ったらわかるのかしら!」
いくらか弱まっているとはいえ、朱音の放つ怒りの
でも言わねば。もうあと一時間ほどで、局側から中止が発表されてしまう。
「……あの。上条先生」
七菜は勇気を振り絞って朱音に声をかける。朱音が立ち止まり、吊り上がり切った目で七菜を睨めつける。
「なに? 時崎さん」
「あの、あのですね」
覚悟を決め、話しだそうとしたそのとき、朱音の視線が動いて七菜の背後を捉えた。みるみるうちに顔の筋肉が震えだし、口が大きく開いてゆく。
「……まあちゃん」
薄い羽根で空気を掃くような声に驚いて、七菜は反射的に振り返る。
聖人が立っていた。
見る影もなくやつれ疲れ果てたようすの聖人が、いつの間にかドアの前に立っていた。
聖人が淀んだような目をかすかに動かす。まず朱音を見、ついで七菜を見る。表情の消えた顔がじょじょに変化していき、驚きの色が浮かぶ。
「……時崎、さん」
「まあちゃんっ!」
七菜を突き飛ばさんばかりの勢いで朱音が聖人に走り寄る。いまにも折れそうな細いからだをちからいっぱい抱きしめた。だが聖人の視線は朱音ではなく、七菜に注がれたままだ。
「よかった、帰ってきたのね! 心配したわ。もう本当に心配でたまらなかった」
涙交じりの声で言うや、今度はばっとからだを離した。
「怪我は? どこか痛いところはない? なにかひどいことされなかった?」
矢継ぎ早に問いかけ、全身を舐めるように見回す。ようやく聖人が視線を朱音に移した。
「……べつになにも」
「どうして帰ってこられたの? 無実が証明されたの?」
「いや。証拠隠滅や逃亡の恐れがないってことで釈放されただけ……」
緩んでいた朱音の顔が一気に強張る。七菜も思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「それより……なんで時崎さんがここに」
うつろな表情で聖人が言い、ふたたび七菜を見る。
言うならいまだ。いやいまこそ伝えるべきときだ。七菜は短く息を吸う。
「……ドラマ『半熟たまご』の放送中止が決定しました。今日はそれをお伝えしようとこちらに伺いました」
「……放送中止」
感情の
「どういうことよ、それは。まあちゃんが大麻パーティなんかに行くはずないでしょう!」
「でも世間はそうは見てくれません。テレビ局やスポンサーにとってはイメージがいちばん大切なんです」
朱音の剣幕に押されながらも七菜は必死で言い返す。朱音の太い眉がきりきりと吊り上がる。
「時崎さん、あなた約束したわよね。『半熟たまご』を立派に完成させるって。なのに」
「確かに約束しました。でも……わたしのちからでは、もうどうしようもないんです……ほんとうに申し訳ありません」
七菜はちからなく首を垂れる。
数秒、時が流れた。
「そんな……そんなことって」
朱音の声が
「まあちゃんは行っていないのに」
「……行ったよ」
それまで黙り込んでいた聖人がくっきりとした声で告げる。
「行ったよ。ぼくは。大麻パーティに行った」
驚いて七菜は顔を跳ね上げる。朱音がぎょっとしたように聖人を見た。
【次回予告】
大麻パーティーに行ったと証言した聖人。なぜ大麻パーティーに行ったのか? 聖人が本当にやりたかったこととは? 仕事に対する思いとは? そして聖人の本当の気持ちを知ったとき朱音は……?
〈次回は7月17日頃に更新予定です。〉
プロフィール
中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)
1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。
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初出:P+D MAGAZINE(2020/07/10)