【ユーモアと風刺の国民的作家】井上ひさしのおすすめ作品

人形劇『ひょっこりひょうたん島』の原作で知られ、小説・戯曲・随筆とジャンルを跨いで多彩な活躍を見せた国民的作家、井上ひさし。これから井上ひさしの作品を読み始める方に向けて、『吉里吉里人』など、おすすめ作品を3作ご紹介します。

放送作家としてNHKの大人気人形劇『ひょっこりひょうたん島』を手がけたほか、小説家・戯曲家・随筆家としてもさまざまな名作を生み出し、国民的作家として愛され続けた井上ひさし。自ら“遅筆堂”と名乗るほど筆が遅いことでも知られていましたが、生涯で遺した作品は実に多数で、そのどれもが独特のユーモアと愛、そして皮肉に満ちています。

今回は、初めて井上ひさし作品を読む方に向けて、彼らしさが存分に感じられるおすすめの3作品のあらすじと、その読みどころをご紹介します。

『吉里吉里人』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4101168164/

吉里吉里人きりきりじんは1973年から1980年にわたって雑誌『終末から』と『小説新潮』で連載され、1981年に単行本として刊行された長編小説です。本作は第33回読売文学賞をはじめ、第2回日本SF大賞、優れたSF作品に贈られる星雲賞といったさまざまな賞を受賞しました。

ストーリーは、ある日突然、東北地方の人口4千人ほどの村が「吉里吉里国」と名乗り日本政府に対し独立を宣言する──という奇想天外なもの。三流作家である主人公・古橋健二によるルポルタージュという形を通して、吉里吉里国が独立を宣言してから崩壊に至るまでの2日間のできごとがリアルタイムで綴られていきます。

吉里吉里国に住む吉里吉里人たちが日本国からの独立を志したのは、隣町との合併を強引に推し進められたり、“国益”を盾に政府からさまざまな理不尽な要求をされたからだと言います。政府ははじめ、小さな村による反逆に過ぎないと高をくくっていましたが、実は吉里吉里人たちによる独立の計画は、非常に入念に準備されたものでした。

吉里吉里人たちは、それまで本州の人々から“ズーズー弁”と呼ばれ馬鹿にされていた東北弁を公用語である“吉里吉里語”と定め、独自通貨である“イエン”を発行したり、高度な医療技術を世界にアピールしたりすることによって、独立国家としての存続をはかるべく奮闘します。

独立国家と政府の対立という一見すると重苦しいテーマを扱ってはいますが、政府の制圧に対する吉里吉里国の対応が、武力を用いた闘争ではなく卓球大会を通じた決戦であったり、庭石に適したキリキリ石、妙薬として人気の高いキリキリ蜘蛛といった名産品が登場したりと、ユーモアと皮肉がたっぷりと詰め込まれているところが本作の魅力です。同時に、吉里吉里人たちが独立を宣言せざるを得なくなった原因である政府の対応や社会問題などは、現代を生きる私たちにとっても他人事ではないように感じられます。

前・中・後編で成り立つ大長編ではありますが、さまざまなエピソードや事件が矢継ぎ早に出てくるので、飽きることなく読み終えられるはず。井上ひさしの真骨頂と呼ぶにふさわしい名作です。

『井上ひさしベスト・エッセイ』


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ジャンルに囚われず多数の名作を発表し続けた井上ひさしは、エッセイの名手でもありました。『井上ひさしベスト・エッセイ』は、妻の井上ユリ氏によって精選された、井上ひさしエッセイの傑作選です。文学や笑い、演劇などを主なテーマとする65篇が選ばれています。

そのうちの1篇に、『書物は化けて出る』と題された、本への深い愛が伝わってくるエッセイがあります。井上ひさしは自らのことを“書物なしでは生きることのできない奴”と呼び、増え続ける本をなかなか手放すことのできない苦しみを、こう綴ります。

いまでは家中を書物に占領され、こっちの方が小さくなって生きている。「エイ、面倒くさい」と、のさばり返った書物を叩き売ればどうなるか。きっと化けて出る。

井上ひさしは過去に『圓朝全集』を全巻買い揃えたものの、どうしても紙質などが好きになれず、重要だと思ったところだけをメモして古本屋に安く売ったことがある──というエピソードを語ります。しかし、何年も経ってからその本が必要になり、他の古本屋で2万円という高額で買い戻した、というのです。ページをめくっていると、どうもトンチンカンな箇所にばかり赤線が引いてあり、“前所有者はかなりの愚物にちがいない”と井上は考えます。

ところが、読み進めるうちに『ひょっこりひょうたん島』の挿入歌の歌詞が走り書きされた原稿用紙が本に挟まっていたことに気づき、それが自分の売った本だとわかった井上は、

金銭的なことよりも、「やられたな」と思って気分が沈む。なにしろこの全集は「この全集の前所有者はかなりの愚物にちがいない」と小生自身に小生の口から悪態をつかせたのだ。叩き売られた恨みを十年間も忘れずいまごろ化けて出るとは、女、いや書物というやつもずいぶん執念深いではないか。

とエッセイを結びます。

この他にも、文章の上達のためにはとにもかくにも自分の好みに合う文章家に巡り会い、その人物のスタイルを体の芯まで染み込ませることだ──と語る『現在望み得る最上かつ最良の文章上達法とは』や、自身の戯曲『シャンハイムーン』の中で扱った作家・魯迅に関するエピソードを通じ、行き過ぎたナショナリズムに警鐘を鳴らす『魯迅の講義ノート』など、本作に収められているエッセイは、思わず笑ってしまうような鮮やかなオチのものから深く考えさせられるものまで、実に多種多様です。

井上ひさしの作品をこれまでに読んだことがない方の入門編としてもおすすめできる、読みどころ満載の1冊です。

『東京セブンローズ』

 
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出典:https://www.shogakukan.co.jp/books/09352397

『東京セブンローズ』は、文芸誌『別冊文藝春秋』で1982年から15年間にわたって連載され、1999年に刊行された井上による長編小説です。

本作は、東京の下町・根津に住む山中信介という団扇屋の主を主人公に、戦時下とGHQ時代の日本の人々の暮らしを描いた作品です。物語は、昭和20年の春に始まる信介の1年間の日記という体裁で書かれており、戦火に焼かれ日に日に変わっていく東京の姿や、その中で生きる人々の姿が詳細に描かれます。

この物語の軸となるのが、GHQが秘密裏に進めていた「日本語のローマ字化」計画です。終戦後、軍国主義という忌むべき過去から日本を解放し、民主化を進めるためという名目で、漢字を廃止し日本の公用語をローマ字にしようという計画がありました。この脅威と闘い日本語の文化を守るために立ち上がったのが、信介の娘であり、姉を空襲で亡くした文子と武子、夫をB29の爆撃で失ったともゑ、家族全員を亡くした可世子と芙美子……、といった7名の美しい女性たちでした。彼女たちは高級娼婦として、自分たちの魅力を巧みに利用し、権力者である教育使節団の男性たちを手玉に取ることでローマ字化の陰謀から日本語を救うのです。

ハラハラさせられる本筋のストーリーもさることながら、本作の大きな魅力はむしろ、信介が綴る市井の人々の貧しいながらも快活な暮らしにあります。終戦の少し前、娘の絹子が嫁ぐ予定の家に信介が訪れた際のこんなささやかな会話からも、当時の人々の暮らしの様子が窺えます。

「ヒットラー總統が爆死したといひます。ムッソリーニ統帥もまたイタリア叛徒に殺害されたといひます」
「さうらしいですな。しかし殘念なのはイトコンニヤクですわ」
「は……?」
「米澤肉で鋤焼すきやきを、と思つてをつたのですが、イトコンニヤクだけはどうしても入手できんのです」
「ああ、絲のやうになつてゐる蒟蒻のことですか。しかしべつに鋤焼にこだはらなくてもよろしいぢやないですか。かういふ時節です。皿の上に肉がのつてゐるだけでも大事件なんですから。天婦羅油でさつと焙つてヤマサ醤油で食べる。それだけでも空前、ではないでせうが、絶後の大御馳走となるでせう」
「醤油はキツコーマンの方が上等だと思ひませんか」
「いや、べつにこだはりません。キツコーマンも大歓迎です」

井上は、まるでその場にいたかのような臨場感をもって、辛い局面にありながらもユーモアを忘れずに生活を楽しもうとする庶民たちを描きます。本作は最初から最後まで旧仮名遣いを用いて書かれていますが、リズム感のある文体も相まって、読みにくさはまったくありません。読後、信介や7人の女性たちをはじめとする登場人物たちが皆愛おしくなるような、人情味あふれる傑作です。

おわりに


出典:https://www.shogakukan.co.jp/books/09d03579

井上ひさしは作品を作る上でのモットーとして、

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいにゆかいなことをいっそうゆかいに

という言葉を掲げていたといいます(井上が主宰した劇団こまつ座の機関誌『the座 14号 十一ぴきのネコ』より)。井上ひさしは、独立をめぐる闘争やGHQ支配下にある日本といった一見悲劇的な状況を背景にしながらも、それを“やさしさ”や“ゆかいさ”にくるんで愛おしく深みのある作品に仕立て上げてしまう名人でした。

井上ひさしの小説や戯曲にはボリュームのある長編作品も多いですが、ずっと噛み続けていても味が消えないガムのように、読み進めるごとにおもしろく、味わい深くなっていく独特の魅力があります。ぜひ一度、その作品を手にとってみてください。

初出:P+D MAGAZINE(2020/09/01)

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