ポップさのなかにある優れた批評性 野中柊おすすめ4選
91年、「ヨモギ・アイス」で第10回海燕新人文学賞を受賞した野中柊は、在米経験を生かして日米のカルチャーギャップを綴った小説や、キュートな恋愛小説で人気の作家です。そんな著者のおすすめ小説4選を紹介します。
『ヨモギ・アイス』――柴田元幸推薦 人種によるステレオタイプを問い直す
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4087461505/
ヨモギは、アメリカ人の夫・ジミーと結婚し、渡米して半年の専業主婦。近所の人は、日本女性は男性に尽くすというイメージを持っているため、日本人妻を持つのは、ただで家政婦を雇うようなものだ、と揶揄混じりに言います。ヨモギは、そうしたステレオタイプはくだらないと思い、隣人の幻想を打ち砕くかのように、手抜きの家事でぐうたら生活を満喫中。唯一最大の悩みは、体重が増えるのは嫌だということ。アメリカで暮らすと太る、と思い込んでいるからで、けれど、ジミーに言わせれば、それこそがステレオタイプだと、ヨモギのことを笑います。
ある時、ヨモギが洗練された格好の人を、「ヨーロッパ的」と形容したことが、口論に発展します。
「とんだ差別的発言だね。さすが日本人だ」
ジミーは、皮肉たっぷりに言った。
「何よ。どういう意味?」
「日本人はレイシストだって言ってるのさ。アイヌの人々、在日韓国人の存在は見て見ないふりをして、自分たちは日本における由緒正しい単一民族だなんて、しゃあしゃあと、よく言ったもんさ。天皇制ばんざーい!」
ジミーは万歳までして見せたので、さすがにヨモギもいきり立ち、言い返した。
「そういうアメリカ人はどうなのよ。ネイティブアメリカンを騙 して土地を奪っておきながら、アメリカ大陸だなんて言って大威張り。それだけじゃ飽き足らず、アフリカの人々を無理やり連れてきて奴隷としてこき使って、ひどいめに遭わせて、奴隷を解放したって、彼らに公民権を与えたって、いまだに人種差別は存在しているんじゃないのよ」
「たかだか夫婦喧嘩が国家間の対立のようになってしまう」、国際結婚のスリルを垣間見せてくれます。
本作のポイントは、こうした文化摩擦の他に、ヨモギが「doing nothing」を旨として、仕事も家事もせずに暮らしていることについてです。アメリカでの生活にまだ慣れないとはいえ、意識高い系の人には、「これだから日本女性は主体性がない」と言われる始末。けれど、当のヨモギは、「それのどこがいけないの?」という態度です。猫を溺愛しているヨモギは、自身も猫のような暮らしぶり。
ところで、『猫に学ぶ』(ジョン・グレイ著/鈴木昌訳)という本に、“人間という動物は、自分ではない何かになろうとすることをやめようとせず、そのせいで悲喜劇的な結末を招く。猫はそんな努力はしない”と書かれているのですが、美味しいアイスが食べられただけで渡米してよかったと思えるヨモギは、無為に暮らしているようでも、自足して楽しそうです。
アメリカ文学翻訳家で東大名誉教授の柴田元幸は、著書『小説の読み方、書き方、訳し方』において、本作を「海外に翻訳したい日本の小説30選」に選んでいます。また、『ヨモギ・アイス』の文庫版の解説では、
近ごろはみんな自己実現だとか自分らしさだとかをやたら口にするが、実は「人のために尽くすのはよいことだ」「世の中の役に立つのは善である」という考え方こそ、誰も否定できずにいる強固な「制度」にほかならない。その制度から自由であるヨモギは、それだけでヒロインの名に値する。
と指摘します。何かを頑張らなくてはならないと思い込んでいる読者に、風穴を開けてくれるような1冊です。
『チョコレット・オーガズム』――言語と人格は不可分なものかを、軽やかに問う
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4087461599/
マユキは東京の大学を卒業後、アメリカの大学院に留学し、博士課程に在籍中。英語にはだいぶ慣れたものの、アメリカ人の中で英語を流暢に話していると、自分がアメリカ人のフリをしているような居心地の悪い感覚が抜けきらずにいます。マユキにはアメリカ人の彼・カールがいて、将来は結婚し、アメリカ永住権を得たいと考えているのですが、互いをよく理解するためには、相手の母語を習得すべき、との考えのもと、カールはマユキと入れ違いに日本に滞在することに。カールはマユキに国際電話で話します。
「アタシは、ガイジンだっていう、ただそれだけで、モテまくって、外でデートすれば、女のヒトの方がポンポンおカネを払ってくれんのよ。そのうえ、簡単にベッド・インしてくれるしね。でもさ、アタシは、日本の女のヒトが性欲ゆえにそうしているんだとは、思えないのよ。あのヒト達をつき動かしている、エネルギーの源は、性欲じゃなくて物欲じゃないかしら。アタシは、まるでルイ・ヴィトンやグッチのカバンか何かになったような気分にさせられるのよね。日本人にとっては、ガイジンはニンゲンじゃないらしいから、実に簡単にアタシのことを、自分のお気にいりのモノに仮想してしまえるようよ。でも、まあ、アタシがモテて、楽しい思いをいっぱいさせてもらっているのも、ムジャキな人種差別のおかげなのよね」
ブランドバッグを持つような感覚で、外国人とつき合うことをファッショナブルだと考えること。それ自体が、外国人への無意識の差別だと日本人は気付いていない、とカールは指摘しつつも、自分がモノ扱いされていることを、どこか俯瞰で楽しんでいます。アメリカには「チョコレット・オーガズム」という名の菓子があるようですが、自分もそれと同じで、ガイジンというモノとして、日本女性にオーガズムを与える存在なのだ、と。
マユキは、カールが日本でモテていることに加え、どこで覚えたのか、女言葉を身につけてしまったことが不満の様子。たかが言葉、されど言葉。2人は言語と文化の壁を越えて、結婚にたどり着けるのでしょうか。
『恋と恋のあいだ』――年齢も立場も違うからこそ仲良くなれた、はずなのに
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大学院生の
遼子は、悠のことを、
ずうずうしさをまったく感じさせずに、すんなりと他人の好意を受けることのできる女の子。
稀有 な資質。育ち、ゆえなのだろうか。
と好感を持った様子。一方の悠は、
年齢もバックグラウンドも違うからこその、楽しさ。そもそも、悠は子どもの時分から、女の子同士でつるむのが好きではなかった。集団の中で浮かない程度に、付き合うべきところは、無難に付き合って、基本的には、単独で行動することにしていた。もしかしたら、遼子も、そうだったのかもしれない。同類の匂いがする――ひとり遊びが好きな女の子。
と、近しさを感じた様子。
女同士は、年齢が近いと、互いを比べて嫉妬や劣等感を持ちやすいものですが、歳の差があればこそ、友達になれるはずでした。しかし、悠が、遼子と父が付き合っているのではないか、と疑いを持ったことで、2人の関係に変化が訪れます。父は母とはもともと別居中とはいえ、内心複雑の悠。
パパはやんちゃなひとなんだから、女のひとが近づいてくるのも当然だ。だけど、どうせ、長続きしない。その程度に考えて、危機感みたいなものを覚えたことはなかった。ママよりもパパにふさわしい女性なんて、この世に存在するはずがない。父に恋した女のひとに、微かな
憐憫 と優越感を覚えるのが常だった。でも、遼子さんは――
手強い女の子だと思った。(中略)あなたのパパには、最近、会っていないもの。一緒に進めている仕事は、今はないんだから――そう言おうかとも思ったけれど、なんだか、言い訳がましいうえに、彼女が自分たちのことを疑っているのなら、疑われたままにしておきたい。
こうした話の場合、娘と愛人の対決がお決まりのパターンですが、本作では、意外な方向に話が展開します。
サイドストーリーとして、悠の異父姉が、アメリカで同性婚をし、精子バンクを用いて出産する場面は、在米経験のある著者の面目躍如と言えるでしょう。
『彼女の存在、その断片』――恋人の過去を知ることは、自分の過去と対峙することだった
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アラサー男子の
なぜって、欠損があったから。あなたにも、僕にも。それは、あえて言葉にして確かめ合わなくたって、なんとなく、わかった。いや、もちろん、だれにだって欠損はあるんだろうけど――欠損という言い方が大袈裟なら、事情、といってもいいんだけど――あなたと僕は、ちょうどよかった。互いに互いの欠損、もしくは、互いが抱える事情がしっくりと馴染んでいた。
ある日、瑠璃子が息子・のぶを置いて失踪し、史朗は彼女に関わった人たちを訪ね歩くことになります。それまで彼女の過去を詮索しなかったため、史朗が知らなかったことが芋づる式で出てきます。瑠璃子自身も未婚の母に育てられたこと、父親代わりになって生活の面倒を見てくれた、他に妻子のいる男性の存在、その男性をめぐっての母娘の確執。男性と本妻とのあいだに生まれた息子とひょんなことから恋仲になったものの、息子が、瑠璃子と父の関係を疑ってしまったこと。その後、小劇団に入り、看板女優になったものの、妊娠を機に劇団を辞めて姿を消したこと……。
あなたの存在は無数の破片だ――なにかの衝撃を受け、粉々に砕けてしまって、光を受けて輝く。拾いあげようとするなら、気をつけなければ手に傷を負う。
知人らが語る瑠璃子像は、数奇な運命にも関わらず、瑠璃のごとく光っています。そして、作中で一度も登場しないのに、不在の存在感を放ちます。
他者の過去を遡ることで、史朗は否応なく、自身の過去とも向き合うことを求められます。それは、幼少期、「生まれつき弾き方を知っていた」ピアノの神童ともてはやされ、CDデビューしたものの、あることがきっかけで、ピアノに触れなくなったことでした。本作は、史朗が過去を乗り越える機会を作るために、瑠璃子が姿を消したようにも読めるのですが、ラストで、史朗は瑠璃子と再会し、もう一度ピアノを弾けるようになるのでしょうか。
おわりに
『ヨモギ・アイス』の中にこんな一節があります。“アイスクリームのトッピングのナッツは、さしずめカスタネットでクランチ、クランチ、と甘いメロディに合いの手を入れる。”野中柊の小説も、アイスクリームのように甘くとろけるようにみえて、ときどきクランチのように歯ごたえのある批評的な文章が差し挟まれています。その両方を味わえることが、著者の小説を読む快楽といえるでしょう。
初出:P+D MAGAZINE(2022/04/29)