【特集】太宰治の世界

実は井伏さん、ただ修治を呼ぶだけでなく、甲府にひとつ、縁談を用意してありました。
その女、石原美知子。都留高女に勤めていたごく普通の女性です。
「このたびは、石原氏との婚約するにあたり、一札申し上げます。私は私自身を家庭的な男と思っています。よい意味でも悪い意味でも、私は放浪にたえられません。……家庭は努力であると思います。浮いた気持ちはございません。貧しくも一生大事に努めます」
これ、おもしろいでしょう。修治が井伏さんに宛てた、石原美知子との婚約後の手紙です。
自分はまじめにやるから、結婚させてくださいという一種の誓約書です。わずか、二十九歳で人生のレースから脱落したと思われるのが嫌だったんでございましょう。修治は、もう一度、レースをやりなおすために、いままで着ていたすべてを新調し、シューズの紐をしっかりと結びなおしたかったのだと思います。
これまでの過去を葬りさるには、最高の妻だったかもしれません。真面目で、堅実で、ごく普通の妻として、修治を尊敬し、修治に尽くした美知子。この彼女とともに、もう一度、彼は走りはじめたのです。
その結果、次々とすばらしい作品が生まれました。

そうなんですね。人間、真面目な人、真摯な態度の人、健気な人、心根の優しい人、そんな人に出会うと、ガラッと変わってしまいます。あれだけ、悩みに悩んだ修治が書けなかった小説がごく当たり前の生活のなかから、次々といい小説が育まれていく。
もしかしたら、人生ってそういうものかもしれません。
ほしい、ほしいと思っている時はできなくて、そうでない時にはあっさりとできてしまう。
そう、赤ちゃんの話ですよ。修治も翌十六年六月、とうとうお父さんになります。
こうした安定した生活のなかから傑作が生まれます。すると、注文が殺到します。そして、とうとう最後には、注文がさばききれないほどの流行作家になっていったのでした。
もう実家の世話になることもありません。実家を呪うことも、恨むこともありません。自分の育った故郷が、彼にとっては、実りの多い大切な小説の畑になりました。
反省のあるところに、進歩があります。修治は人の親になってはじめて、自分の肉親の情を知ることになります。
大人になったんでしょうね。
この年、生母たねを見舞うために十年ぶりで帰郷しました。心が洗われるような素晴らしい故郷。やっぱり彼にとって、捨てるに捨てられなかった「故郷」だったのです。

i-0036

連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:高野秀行(ノンフィクション作家)
ジャック・リーチャーが主人公の人気作に注目・今アメリカで一番売れている本は?|ブックレビューfromNY【第13回】