【特集】太宰治の世界

えっ、戦争ですか。そうですね、たくさんの人たちが戦争に行きました。修治にも当然、兵隊検査の時がまいりました。この年の十一月、文士徴用令書を受けますけれど、胸部疾患の理由で徴用免除になります。
戦争に行かなくてよくなったわけですね。ですから、執筆に専念できたわけです。『ろまん燈籠』『東京八景』『新ハムレット』などを次々と発表しました。
昭和十七年十月、母たねが重病のため妻子を伴って再び帰郷しました。やがて母が亡くなります。
自分の子供のなかで一番の放蕩息子が、立派な作家になって戻ってきた……。
そして、縁の薄かった母の最期をみとる……。
このあたり、人間ドラマをみるようで、感動的ではございませんか。
これでそれまでのわだかまりもなくなります。実家の方でも、修治を歓迎してくれます。いわば、母の死によって、修治は晴れて故郷に錦を飾れたということでございました。
ここで名作『津軽』が生まれます。校庭でタケと運動会を見るシーン、感動的じゃございませんか。
故郷がある方っていうのは、いいですね。最後に帰れる所があるのですから。反発し、逆らって、逃げるように出てきた故郷でも、必ずどこかで温かく迎えてくれる故郷。作家太宰治にとって、津軽はもうひとりの母だったのかもしれません。
昭和二十年七月にも、甲府の妻の実家が空襲にあったので、津軽に疎開し、生家で草むしりなどをしながら、読書や執筆を繰り返します。
いいですね。修治が昔の素直な少年時代に戻って、毎日、まじめに暮らしそのために作品まで安定してくる。
ここで、終わっていれば、「そして日本を代表する大作家になったそうな」で終わる、日本昔文豪物語として、子供たちにも話せる英雄伝になったのですが、そうはいきません。
それでは、そのあとどうなったのか次にお話いたしましょう。

八月十五日の敗戦を津軽で迎えた修治は、九月から再び創作活動に入ります。戦後の第一作は、はじめての新聞連載小説『パンドラの匣』です。
作家太宰治は、こうして立派に立ち直り、素晴らしい作品を次から次へと発表するようになったのと、まったく反比例するように、これまで彼を支えてくれた大地主の実家が、戦後の農地改革によって、没落していきます。
あれほどまでに、権力を持ち、土地の有力者として君臨していた家が、崩れ落ちていく様を目の当たりに見た修治の気持ち、おわかりになりますか。

金木の私の生家など、いまは『桜の園』です。あはれ深い日常です。
(井伏への手紙)

これがやがて、上京後の『斜陽』へとつながっていくのです。
さて、修治は東京に戻ってまいりました。いよいよ、人間津島修治のラストシーンでございます。
修治の上京を知って、知人、編集者、若いファンなどが連日のように作家太宰治の家におしかけます。
さすがの修治もこれには閉口して「雲がくれ」と称して、近くに仕事部屋を借り、そこで執筆活動をするようになりました。
修治に余裕が少し生まれはじめたのです。そうなると、また彼の心が落ち着きません。
学生時代に義太夫を習い花街に出入りしていた「はぐれ者」の美学が少しずつですが、芽をふき出したのです。
「はぐれ者」の美学――しかし、それは学生の頃とはまったくちがう、自信に裏うちされた美学でした。今度は不安など何もありません。お金だって、実家を頼る必要もありません。
いや、むしろ、実家の方が没落していったのです。
家に頼ることもなく、完全に自分の才能ひとつで、この世を生きることができる自信が、その美学を確固たるものにしたのです。
そして、修治は、夜な夜な飲み歩きます。
「無頼派」の作家として、自分の生きざまを美化すること。それが最後の彼の演技だったのかもしれません。

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連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:高野秀行(ノンフィクション作家)
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